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銀座の鐘

救いの兜と霊の剣

説教集

更新日:2022年11月05日

2022年10月30日(日)聖霊降臨後第21主日 主日礼拝 東京神学大学名誉教授 近藤 勝彦 牧師

エフェソの信徒への手紙6章17節

  信仰生活は戦いの中にあります。それならばこそキリスト者は「神の武具」を身に着けるようにと言われます。「真理の帯」「義の胸当て」それに「平和の福音を告げる準備の履物」、そしてその上に「信仰の盾」を取りなさいと言われました。今朝はさらに第5、第6の武器として「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉 を取りなさい」と言われます。今朝はこの御言葉を聞きたいと思います。これによっ てはじめに身に着ける三つの武具と、それから手に取る三つの武器が語られることに なります。三プラス三という話しです。
 しかし文章の形から言いますと、別の見方も成り立ちます。と言いますのは、14 節の「立って、真理を帯として腰に締め」から 16 節の「悪い者の放つ火の矢を消す」までが一つの文章、ワンセンテンスで記されていて、17 節以下は別の文章になっているからです。つまり3プラス3ではなく、はじめ四つが一つの文章で語られ、その後、二つの武器が新しい文章で語られるわけで、その文章が 20 節まで続いています。真理の帯、義の胸当て、平和の福音を告げる履物、信仰の盾の四つの武器がまず一続きで語られて、その後で新たな別の文章で「救いの兜」と「霊の剣」が語られ、それにはさらに「祈り」が加えられて、この手紙の最後を形づくっています。四つの武具が語られた後、改めて二つの武器が語られるわけです。付け足しや余分の話でなく、改めて信仰者に与えられた必須の神の武器として、この二つを聞かなければならないことになります。
 改めて語られる二つの武器のはじめは「救いの兜」です。「神の義」が「胸当て」として胸を守るように、「神の救い」が「兜」として信仰者の頭部を守ります。「義の胸当て」は、神の義が働いて罪あるものの罪を裁き、そして赦し、罪ある者を義としてくださる神の救いです。神の武具や武器はみな救いであると言ってよいでしょう。神の真理の帯も神の救いの真理であり、救いが信仰者の身を引き締め、動きを確かにします。神の救いに守られているので、動きが取れるのではないでしょうか。平和の福音の履物も、神の救いによる平和の福音であり、信仰の盾も神御自身が盾となって、救いの中に覆い守ってくださいます。ですから神の武具はみな神の救いであり、救いによって守ってくれる。それが神の武具であり、神の武器です。信仰の試練や戦いの中で神御自身が勝利してくださり、救いを与えてくださることは、私たち一人一人の救いのためで、その神の救いがどんな時にも身も心も守ってくださる武具ということではないでしょうか。そのことが、「救いの兜」「神の救いの兜」をかぶることで、いよいよはっきりすると言ってよいのではないかと思います。
 頭部を守られるということは、胸を守られるのと同様、身体上の重要部分を守られることです。この重要部分はまた致命傷を受けやすい身体部分です。ですから頭を守られることで、身体全体を守られると言ってよいでしょう。また頭部を守られることは、その頭の働き、物事を聞き分け、正しく判断し、感じ取ることも守られます。ですから信仰生活の内面の確かさを守られることでもあるでしょう。不安に怯えたり、はやまって絶望することのないように、罪の者を赦す神の義によって胸を守られるように、救いによって頭部を守られる必要があります。
 青年の頃シェークスピアのハムレットを読んだとき、「生きるか、死ぬか、それが問題だ」という有名なセリフが語られるところで、死は眠りにほかならないと言われ、しかし悪夢を見ることを畏れるという話がでてきたのが妙に記憶に残りました。死後も悪夢に悩まされるのを恐れる話です。人間は最後まで悪夢を見るのではないかということは、やはり救いが重大で、意識の底にある潜在意識、無意識も含めて神の救いに入れられることの重大さを思います。「救いの兜」は人間のほんの一部を救いに入れるのでなく、その人の全部を救いの中に入れて守っているのだと思うのです。誰も悪夢にうなされたくはありません。年老いてたとえ悪夢にうなされる時があるとしても、救われた者としての平安は揺るぎがない、救いの兜は揺るぎのない平安の守りです。
「救い」が「兜」だという表現は、旧約聖書イザヤ書 59章に出て来ます。「救いを兜としてかぶり」という表現で、預言者は神の姿を戦いに勝つ戦士として語りました。預言者のこの信仰の伝統を受け継いで、パウロは主イエスにある神の救いを理解し、伝えました。テサロニケの信徒への手紙一 5章8節にそれが記されています「わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」。エフェソの信徒への手紙が「義の胸当て」と「救いの兜」を語るのと同様です。テサロニケの信徒への手紙では、それをキリスト者の信仰と希望と愛に結び合わせて、「義の胸当て」を信仰と愛に、」そして「救いの兜」を希望にと結びあわせました。それで「救いの希望の兜」と表現しました。エフェソの信徒への手紙もテサロニケの信徒への手紙も共に同じ信仰の伝統に立っていることは明らかです。しかしその表現に多少の違いがあることも無視することはできません。テサロニケの信徒への手紙は、神から与えられた救いには終りの時に成就する面があること、従って今は「希望」によって救われていると語ります。「救いの希望の兜」と言います。しかしエフェソの信徒への手紙では、神の救いは将来のことではありません。復活のキリストが共におられる今、すでに実現しています。「救いの兜」は「救いの希望の兜」と言われず、すでに「救いの兜」です。すでに信仰者の頭部を、そしてその心を守っています。救いはすでに実現しており、確定した神の揺るぎない救いが現に今あります。終りに約束され、希望される神の救済がもうすでに実現している、「実現した終末論」の面がここには明らかです。決定的な神の救いの御業は、主イエスにあってもうすでに確定し、揺るぎなく実現しています。この「すでに実現した」という要素のないキリスト教信仰はないでしょう。その揺るぎない神の救いをただ「受ける」だけ、救いの兜を受けるだけと言うのです。今現在の信仰生活の戦いの中ですでに救いを受けています。それが信仰の試練や戦いの経験の中で力を発揮するでしょう。
 もう一つの武器は「霊の剣」です。「霊の剣」は「神の言葉」と言われます。この剣という言葉は大きな長剣でなく、短剣を意味します。大仰な武器ではありません。信仰者の誰もが使用でき、訓練次第で自由自在に使うことのできる有効な武器です。それが特に霊の剣と言われ、霊の剣である神の言葉と言われます。
 ローマのサン・ピエトロ教会の入り口の広場に大きな二つの像が立っていたのを思い起こします。一つは大きなカギを持った人物像、それは天国の鍵を授けられたペトロを意味し、もう一つは大きな剣を携えた人物像で、神の言葉を携えたパウロを意味しています。あの像の剣は長大な剣でした。しかし御言葉の剣は短剣として記されています。この神の言葉は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と言われるあの「言」(ロゴス)とは別の言葉です。短剣の神の言葉は、「神の 口から出る一つ一つの言葉で生きる」と主イエスが言われたときの言葉、ロゴスでな くレーマ、口から出る言葉です。つまり息遣いと結びついて語られる言葉です。だか ら「霊の剣」と言われます。神の息である聖霊がこの口からの言葉を出させます。聖 霊の力なしには語れない言葉です。しかし御霊が語らせれば力強く語ることのできる 言葉です。御霊によって語る力を与えられて語る、この口から霊の息吹と共に出る神 の言葉が、信仰者の武器だと言うのです。適切な時に的確に語り出される言葉、その 武器を「受けなさい」と言われます。
 救いの兜を「かぶり」と訳され、霊の剣を「取りなさい」と訳されてていますが、「かぶる」と「取る」という二つの言葉があるわけではありません。どちらもただ一つの言葉で「受けなさい」と言われています。救いの兜も霊の剣も神が与えてくださるものです。与えて下さる神から受けるものです。自分から手に取るよりも、与えて下さる神からただ受け取ります。一つ一つの神の言葉を神の口から聞くように神から受けて、信仰の迷いや誘惑に対し、あるいはまた激しい外からの圧迫や攻撃に対し、神の言葉を受けます。御霊の息遣いにより、その力で語ることができる言葉を受けます。御言葉を聞き、心に留め、それを自分に語り、他者にも語ります。宣べ伝える信仰の言葉、口から出る福音の言葉が、信仰者の有効な武器であり、共に戦う戦友を助ける武器でもあるでしょう。この言葉が霊の剣です。言葉をもって語りかける。それが悪しき者をくじくと共に、窮地に立った戦友を慰め、またどれほど奮い立たせるでしょうか。語る言葉によって霊なる神の力が発揮される、そのような霊の剣を私たちも受けようではありませんか。

 天の父よ、あなたの「救いの兜」を受け、「霊の剣」を受ける者とされておりますことを感謝いたします。私たちの身も心もあなたの救いの中で守られていることを確信をもって信じる者とさせてください。また霊の剣、神の言葉の短剣によって戦うことができますように。試練の中にある者たちが、御霊を注がれ、御霊によってあなたの口からでる御言葉に養われ、その御言葉によって戦い、その御言葉によって慰められ、また信仰の友を励ますことができますように。世界中のすべてのキリスト教会、そして特に日本にある主の教会の上に福音を告げる力を与え、あなたが新たな伝道者を起こしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。