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銀座の鐘

神の力に包まれて

説教集

更新日:2022年11月26日

2022年11月27日(日)待降節第1主日  主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ルカによる福音書1章26~38節

 主の年 2022年待降節を迎えました。今年も皆様と共に御子イエス・キリストがこの地上に遣わされるという、神の救いのご計画を思い起こす季節を迎えました。本日は、ルカによる福音書を通して、主イエスの母マリアに告げた天使の言葉を通して、神の救いのご計画を覚えたいと思います。
 ルカによる福音書 1 章の書き出しは、「敬愛するテオフィロさま」への献呈の言葉ではじまっています。洗礼者ヨハネの誕生を告げるときも「ユダヤの王ヘロデの時代」と記しています。そして、第2章では主イエスの誕生を伝える際に、皇帝アウグストゥスの勅令から書き出しています。ルカによる福音書が時の政治的支配者の名前を伝えているのは、この世の権威に服従して、媚びているのではないのです。なぜならばその証拠に、この世の権威者の名前をあたかも前座にして、その直後に、名もないナザレのおとめマリアを紹介しているからです。ルカによる福音書の意図は何なのでしょうか。あたかも、真の王、救い主は、時の支配者から出ると誰もが思っていた社会の中で、そうではないのだと、静かに主張しているのです。私たちは時の為政者ではなく、マリアや親類のエリサベトに目を向けなければならないと語っているのです。支配者たちの家からでなく、祭司の妻エリサベトとナザレのヨセフのいいなずけマリアに注目しなければならないと語っているのではないでしょうか。エリサベトとマリアが身ごもったことを通して、洗礼者ヨハネと主イエス・キリストの誕生を伝えることによって、神が動き始めている、神の御業がここにもあそこにも動き始めているではないかと訴えているのです。
 ルカによる福音書は他の福音書とは全く違う構成で、主イエスの誕生に目を向けるように仕向けているのです。誰もが知っているこの世の支配者の名前を紹介しながらも、真の支配者、真の王は、この世のあなた方が知っている支配者から生まれたのではないと宣言しているのです。真の救い主の物語のはじまりを告げ、マリアから救い主が誕生すると告げているのです。テオフィロやヘロデ王やアウグストゥスに対してもこの神の出来事に目を向けなければならないと伝えているのです。時の為政者であるあなた方こそ、救い主が誕生することを理解しなければならないと伝えているのです。そのために、この地上に天使の声と神の声が響き渡っているではないか、この声を聞く事が出来るではないかと伝えているのです。
 ルカによる福音書1章26節は、「六ヶ月目に」という時を告げ知らせています。これは何を意味しているのでしょうか。1 章 25 節までの所を読む限り、祭司ザカリヤの妻であるエリサベトが洗礼者ヨハネを身ごもって「六ヶ月目」という時を告げていると読める言葉です。しかしそれだけではなく、ルカによる福音書は「六ヶ月目」という言葉を通して、神の先手が打たれて、不妊の女であったエリサベトが身ごもり、さらにマリアへ神のご計画が明らかにされていくことを「六ヶ月目」という言葉で表現していると思います。神のご計画が着実に実行されていることを明らかにしているです。神の救いのご計画によって天使ガブリエルが遣わされました。神さまの御業が一歩ずつ、着実に前進していることを伝えているのではないでしょうか。
 天使ガブリエルはマリアに告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。この「おめでとう」という言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語で直訳すると「喜びなさい」という言葉です。単なる挨拶の言葉ではなく、畏れ戸惑うマリアに喜びなさいと告げているのです。天使の言葉を聞いたマリアが「どうして、 そのようなことがありえましょうか。」と戸惑っている返事の言葉です。このマリアの返事は直訳すると「どのようにして、それは可能なのでしょうか」です。マリアはそんなことあり得ないという消極的な否定をしているのではなく、可能性を聞いているのです。ゆえに天使が「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と応えたのです。「神から恵みをいただいた」とは、このギリシャ語の文法上の説明によると、神から特別な、そして一度限りの恵みをいただいた、という意味です。まだ結婚生活をしていないマリアが身ごもったという、神の出来事は神からの一度かぎりの恵みなのだと伝えているのです。マリアが生きている現実では、婚約者を裏切った女と見なされるかもしれないと最悪な状況を思い浮かべたことでしょう。律法違反の重荷を背負わなければならないかもしれないのです。いくらおめでとう、恵まれた方といわれても、この世の現実は不幸のどん底に突き落とされてしまう緊急事態ではないだろうかとしか思えないのです。どうして喜べるでしょうか。
 当時のマリアは、まだ若い未婚の女性です。当時、婚約が早ければ 12歳から 15歳です。ダビデ家のヨセフのいいなずけであるということは、いいなずけの期間の約一年間、夫ヨセフが婚約者マリアを迎えに行き、夫の家に連れて行くことで結婚が成立しました。そして、その後に生まれる子が、夫の子とされました。夫となるヨセフはダビデの家系でありました。マリアが産む子は、ヨセフの子となり「ダビデ家の子」となるのです。しかし、ヨセフによらない子であることが判明したならば、誰の子であるのか説明しなければならないのです。そしてヨセフではないマリアが関係した男を捕らえなければなりません。しかし、神によって身ごもったならば、申命記22章23節が想定していない事態であり、律法では説明できません。法的に取り扱うこと は出来ないのです。当時の社会において結婚前に子どもを身ごもることがどれほどの 恥と苦しみを意味するのか、マリアは知っていたでしょう。もちろん、神のご計画と 神の力によって身ごもったのであれば、誰も説明することが出来ない事態に突入する ことになるのです。しかし、そのことを周囲の人々にどんなに説明しても信じてもら える保証はないのです。マリアは神を畏れる、畏れに支配されていました。
35節、天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」、「37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
 「神にはできないことは」の「こと」は、原典ではマリアの返事の「お言葉どおり」と同じギリシャ語「レーマ」が用いられています。「神にできないことは何一つない」は、「神のお言葉は不可能なことではない」と訳すことができるのです。
 主イエスの母マリアは、この世の権威やこの世の審きを恐れるのではなく、天使ガブリエルの言葉に応えました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」という声によってみ言葉に身を委ねました。そしてマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と応え、マリアの賛歌を歌いはじめるのです。マリアを包んでいた恐れは、神の力に包まれ、信仰へ変えられました。神の救いのご計画は、為政者の中に救い主を委ねることなく、ダビデ家の末裔であるヨセフとマリアを選びました。神がダビデの末裔の中からヨセフとマリアを選んだ理由は分かりません。しかし、大切な事は、この神の選びの出来事を通して、マリアに信仰が与えられたということではないでしょうか。神の救いのご計画によって、聖霊が降り、神の力でマリアが包まれているのです。この圧倒的な神の力に包まれるとき、いつの間にかマリアは神の御前に立たされ、語り出すのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」神はマリアに信仰を与えました。神のみ言葉どおり、この身に成りますように、自らの身も心も神に差し出す献身の信仰が与えられました。
 聖書は、マリアが優れていたとかヨセフが立派な人間であったというような、ヨセフとマリアに対するこの世の評価については一言も語りません。そのような事より、神の御前に立ち、神の力に包まれることに光りが当てられていることを覚えたいと思います。神の力に包まれるとき、私たちは圧倒的な力によって、神に身を委ねる献身者とされるのです。マリアの現実は、この世の重荷を背負ったままで、この時点では何の解決も与えられていません。しかし、神はマリアにだけ用意した救いの道を示し神のご計画として、神の御業が着実に進んでいるのです。確かなことは、マリアが聖霊によって、いと高き方の力に包まれていることなのです。
 本日より、私たちは待降節の日々を過ごします。教会に連なる一人一人、洗礼準備をしている方々、銀座教会の交わりに加えられようとしている方々、私たちこそ聖霊の力に包まれていることをともに覚えましょう。神の御力に包まれて、御声に従って共に主の御名を讃美しつつ待降節を歩み出しましょう。お祈りします。

 天の父なる神さま。「神にできないことは何一つない」との御声を聞き、神の力に包まれたマリアを聖書を通して示されました。救い主主イエス・キリストの降誕を待 つ日々、あなたの力に包まれていることを忘れることなく、救いのご計画を一歩一歩 進めることが出来ますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈 ります。アーメン