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銀座の鐘

インマヌエル、神は我々と共におられる

説教集

更新日:2022年12月16日

2022年12月11日(日)アドベント第3主日 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

マタイによる福音書1章18~25節

 私たちは今、クリスマスを待ち望む、アドベントの歩みの中を共に歩んでいます。今年度、アドベントの第一主日に私たちに与えられたのは、天使ガブリエルがナザレというガリラヤ地方にある町に住むマリアにイエス様の誕生を予告する聖書箇所、ルカによる福音書1章26~38節でした。そして、アドベント第三主日の今日、私たちに与えられている聖書箇所は、このマリアの許嫁であるヨセフの物語です。
 本日の聖書箇所は、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」という18節の言葉から始まっています。イエス・キリストの誕生の次第について、私たちはルカによる福音書を通して、マリアが聖霊によって身ごもったと言うことを知らされています。
 結婚もしていないマリアが主なる神様の力によって身ごもるというのは、非科学的であり、私たち人間の知恵や知識によっては受け入れがたい、そのような驚くべき出来事です。私たちはマリアが身ごもったことを「神にできないことは何一つない」という天使の言葉を聞いて、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。」と受け入れたマリア のように信仰によってのみ、受け入れることができます。
 本日の聖書箇所は、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊に よって身ごもっていることが明らかになった。」と18節に記されているように、この誰にとっても驚くべき出来事、マリアが聖霊によって身ごもっていることが許嫁であるヨセフに明らかになったことを私たちに伝えています。どのように明らかになったのかについて聖書には記されていませんが、おそらくマリア自身がヨセフに対して伝えたのでしょう。
 当時、ユダヤにおいて、婚約は結婚とほとんど同一視されており、婚約していれば一緒に住んでいなくとも、二人は法的に夫婦とされていました。一緒に暮らしてもいない妻マリアが身ごもったとマリアから聞いたとき、ヨセフがどのような気持ちになったのか、私たちには想像することもできません。
 結婚していないマリアが身ごもった、しかも聖霊によって身ごもったという、聞いた誰もが驚く出来事の渦中に置かれたヨセフは、自分は裏切られ、石で打ち殺される姦淫の罪をマリアが犯したのではないだろうかと思ったことでしょう。聖霊で身ごもったというマリアの言葉をきっと受け入れることなどできなかったと思います。この妻マリアに対して、ヨセフはどうすれば良いか、本当に悩み、苦しんだと思います。
 本日の箇所にはヨセフが考えに考え抜いて出した結論が記されています。それは「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と19節に書かれているとおりです。
 ヨセフはマリアを本当に愛していたのでしょう。表沙汰にして、マリアがさらし者となり、辱められながら、石打ちの刑によって死ぬことはヨセフには耐えがたいことでした。しかし、ヨセフは「正しい人」でもありました。この「正しい人」とは、律法に忠実に従う、そのような意味での正しい人のことです。ヨセフはマリアを愛していましたが、「正しい人」であるがゆえに、律法を破り、姦淫の罪を犯したとしか思えないマリアのことを受け入れることができませんでした。ヨセフが考えられる中で最善の策はマリアのことを表沙汰にせずに、ひそかに縁を切ることだけでした。
  このような律法に忠実に従って振る舞うことによって、確かにヨセフはこれからも「正しい 人」として生きていくことはできるでしょう。しかし、ヨセフに捨てられた身重のマリアはこれからどうなってしまうのでしょうか。「正しい人」ヨセフの行動は、結果的には愛すべきマリアも、またお腹の子も見捨てるものでしかないのです。
 ですが、この悩みに悩み抜いて、ついに決心したヨセフのもとに主の天使が現れるのです。
「20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻 マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子 を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」」と 書かれているとおりです。
  ルカによる福音書において、マリアに対しても語られたように、「恐れるな」と天使はヨセフにも語ります。聖霊によって身ごもったというマリアの言葉を信じられず、また、愛しているのにも関わらず、身重であるマリアを見捨てるヨセフの「正しさ」はここで主なる神様によって打ち破られます。律法に従うだけの「正しい人」であったヨセフは、この驚くべき出来事を御自分の民を罪から救うために実現された主なる神様を信じ、この主に従って生きるようにと今、求められているのです。マリアを迎え入れ、生まれた男の子に「主は救いである」という意味を持つイエスという名前を付けなさいという命令が、このヨセフに与えられるのです。
  このようにクリスマスの出来事において、マリアだけではなく、ヨセフにも大きな役目が主なる神様から与えられるのです。身重のマリアを支え、守り、そして、生まれてくる男の子にイエスと名付けるという役目が、この夜、ダビデの子ヨセフに主なる神様によって与えられたのです。そして、ヨセフはこの主からの命令に従います。
 「24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25男の子が生まれ るまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」と24~25節に記されているように、ヨセフは命令通り、妻マリアを迎え入れ、身重のマリアを支え、そして、生まれた男の子にイエスと、「主は救いである」という意味を持つ名を付けたのでした。
そして、この福音書を記したマタイは、このクリスマスの出来事について、22-23節でこのように記しています。
 「22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
  マリアとヨセフのもとに生まれた男の子はインマヌエルと呼ばれると、マタイは預言者イザヤの言葉、イザヤ書7章14節を引用して言います。つまり、罪から御自分の民をお救いになられ るお方は、インマヌエル、「神は我々と共におられる」という約束を私たちに与えてくださる お方でもあるということがここで明らかにされているのです。

 私たちが今、待ち望みつつ、歩んでいるアドベントの歩みは、このクリスマスにお生まれになった御子、インマヌエルであられるイエス・キリストを待ち望む、そのような歩みです。私たち人間の罪にまみれたこの世に、イエス・キリストがまことの救いの光として、お生まれになってくださったということは、主が遠くから私たちの苦しみを眺めておられるお方ではなくご自身自らが先頭に立ち、まことに罪と死に真っ正面から戦われるお方であるということを明らかにしています。私たちは、そのことを聖書を通して十字架の出来事によって、はっきりと告げ知らされています。
またインマヌエルであられる主が、まことに私たちと共にいてくださるお方であると言うこ とを私たちは弟子たちと共に宣教活動をなされた主イエス・キリストのご生涯からも知らされ ています。そして、何よりもこのマタイによる福音書は、このインマヌエルであられる私たち の主イエス・キリストが十字架の死からの復活の後も、とこしえに私たちと共にいてくださる お方であると言うことを証ししています。それはマタイによる福音書の締めくくりの言葉、28 章20節に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様のお言葉 が記されているとおりです。
 罪と死によって暗闇の中を歩んできた私たち人間の歴史は、このようにインマヌエルであられるイエス・キリストによって、救いの歴史へと変えられたのです。私たち信仰者はこのイエス・キリストが私たちと世の終わりまでいつも共にいてくださるという約束を信じ、そして、この救いの歴史の中を生きています。クリスマスに与えられた喜びは、まことに私たちのために与えられた救いの出来事です。私たちはこの喜ばしき福音に与る一人一人である同時に、この福音を宣べ伝える一人一人として、このアドベントの時を歩んで参りたいと願います。

祈り
 天の父なる神様、あなたの御名を讃美いたします。私たちがこのアドベントの時、まことに私たちを罪から救うために、御子をお与えくださったというこのクリスマスの喜びに感謝しつつ、インマヌエル、私たちの救い主、イエス・キリストの御降誕の日、また、救いの完成の時を待ち望む一人一人とさせてください。
アーメン。