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銀座の鐘

その支配は終わることがない

説教集

更新日:2022年12月17日

2022年12月18日(日)待降節第4主日 主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

ルカによる福音書1章30~33節

 クリスマス礼拝を次週に控え、今朝は待降節の御使いの知らせからクリスマスの秘められた意味を心に覚えたいと思いと思います。
 ルカによる福音書に記された御使いの言葉は、二つの点でクリスマスの福音を伝えて、どちらも初代教会の信仰の中に響き続けました。二つの点の第一は、クリスマスに誕生する幼子の「名前」が伝えられたことです。「マリア、恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と記されています。マタイによる福音書では、イエスという名はマリアにではなく、ヨセフの夢の中で告げられたと言われますが、どちらにしても「イエスという名」が特別な名として伝えられます。このことはどういう意味を持っているでしょうか。
 「イエスと名付けなさい」というと、そう名付けて役所に届け出ることが連想されるかもしれませんが、そうでなく、「彼をイエスと呼びなさい」と言うのです。つまり、イエ スの名を呼ぶこと、イエスの御名を呼ぶ生活が重要です。救い主を呼ぶ名を知らされました。ですから救い主をその名で呼ぶことができます。それがクリスマスの一つの重大な意味です。クリスマスは世界中で色々に祝われるでしょうが、それが本当のクリスマスかどうかは、そこに一つの固有名詞、イエスという名が心から畏敬の念と親しみをもって、呼ばれるかどうかにかかっています。「イエス様」という名が大切に呼ばれていれば、ほかに何もないとしても、それは本当のクリスマスになります。また「イエス様」という名が尊ばれ、親しみと信頼をもって呼ばれなければ、他に何があってもクリスマスにはならないでしょう。
  イエスという名はクリスマスに生まれた方を呼ぶ固有名詞ということはどういうことで しょうか。「キリスト」や「主」、あるいは「神の子」、「神の言葉」、さらには「王」 や「まことの羊飼い」など、みな普通名詞です。それらは「称号」であったり、「職務」 を現わしています。イエスと呼ばれるお方を、その方が神の子であり、まことの羊飼いで あり、王であり、祭司であると説明します。ですから正確に言うと「キリスト」であるイ エス、「主」である、あるいは「神の言葉」であるイエスといったふうです。しかしイエ スという名は、そうした色々な働きを意味する称号とは違い、当の本人を意味し、当のイ エス様御自身を 1 対1で呼びます。名を呼ぶことは直接その方との関係に入ることを意味 するでしょう。マタイによる福音書の方では、イエスと呼ぶ、それは彼がその民を罪から 救うからだと理由づけを語っていますが、ルカによる福音書には理由づけはありません。 主イエスをその名のイエスで呼びなさいと言うのです。
 私の固有名詞は勝彦です。称号や職務を言えば、牧師です。しかし牧師と呼ばれるのはまだ第三者的です。しかし固有名詞をもって勝彦と呼びかけられたら、呼ぶ人と呼ばれた人とは1対1の直接的関係にあるでしょう。キリスト教信仰はイエスという名を、愛と信頼と畏敬の念をもって呼び、この方を尊び、重んじます。その上でイエスと呼ばれる方が主であると信じ、主イエスが「神の子」「キリスト」「王」「まことの羊飼い」であると信じます。イエスという名を畏敬の念をもって重んじることは、この名で呼ばれる方御自身を畏敬の念をもって重んじることです。
 教会はそこで「イエスという名」を讃美しました。「イエスの名」は「あらゆる名にまさる名」であって、「イエスの御名にひざまずく」(フィリ2・10)と歌いました。パウロがフィリピの信徒への手紙の中でその讃美歌を引用しています。「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」と歌ったのです。キリスト者がイエスの名を呼ぶのは、「悩みの日に我を呼べ」と言われた神を呼ぶ名になりました。主イエスを呼ぶとは、主イエスに祈ること、主イエスを礼拝することです。眼前に目に見えるかのように主イエスを仰いで、この方の名を呼べる幸いを思います。
 御使いの言葉の第二の点は、主イエスの働きを語ります。「偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」とあります。「いと高き方」とは、当時のヘレニズム世界の表現で「神」のことです。ですからそれは、「神の子と呼ばれる」と同じですが、「神の子と呼ばれる」というのは、旧約聖書の伝統で「王の即位式」を意味します。つまり御使いの言葉は、「偉大な人」も「いと高き方の子と言われる」も「王」を意味し、主イエスは王だというのです。ですから、続いて「父ダビデの王座」を与えられると言われ、「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言われます。ルカによる福音書は、クリスマスを「王」「支配する方」の誕生として告げているわけです。
 幼子イエスが神から誕生した王と言われることは、直ちに納得されることではないかもしれません。ですが、イエスという名に対する畏敬の思いと共に、貧しく、低く生まれたこの方が神から生まれた王、「神の憐みの統治」をなさる、もろもろの王の王ということは、クリスマスを迎えるに当たって深く心に覚えることではないでしょうか。
 誰が王か、誰が真の支配者か、また統治者かといった問題は、2022 年の今年、決して非現実的な話ではありません。多くの人々は王や支配や統治と言えば、人間が王となり、人間が人間を統治し、人間が支配している現実を考えるでしょう。日本での支配や統治と言えば、選挙で選ばれた衆議院議員たちが総理大臣を決め、その総理大臣が内閣を組閣し、国民を統治します。あるいは諸官庁の役人を含んだ統治機構によって、私たちは支配されています。人間による人間の支配ですから、他の国に比して比較的良い統治があったり、他国より悪い統治や支配になるという話になるでしょう。しかし人間による人間の支配しかなかったら、私たちは日々、不安の中に過ごすしかないのではないでしょうか。人間がそれほど頼りにならないことは皆よく知っているはずです。私たちが現に世界の成り行きや日本の社会の成り行きに、不安を感じ、しばしば不正や愚かな事態に苛立ちや怒りを感じるのは、人間の統治や支配の欠陥のせいではないでしょうか。
 同じことは、私たちの魂の問題にも言えることです。魂のことについては誰からも支配されていない、自分で自分を統治していると言うかもしれません。しかしそれで本当に自由であり、平安であるとは言えません。誰もが自分の弱さや限界を知っています。
 キリスト信仰者は、もっとも根本のところで神の憐みの統治があることを信じます。主イエスによって神の義と平安の支配があると信じるのではないでしょうか。主イエスが「偉大な人」として、また「神の子と呼ばれる」仕方で「王座」に着くというのは、主イエスを諸々の王の王、つまり「王以上の王」と信じることを意味します。主はその憐みと御力によって、政治以上の政治、永遠の統治をなさると御使いは言います。民主主義が言う「人民による人民のための人民の政治」を認めないわけではありません。しかしもっと根本に王以上の王である主イエスの統治、人間の政治以上の統治があり、神の憐みの支配があることを信じるのがキリスト教信仰です。王なるキリストによって、民主主義は支えられなければ、真の民主主義を実現することはできないでしょう。
 主イエスの統治、その支配は「永遠」に及ぶと言われます。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。「その支配は終わることがない」というこの言葉は、教会にとって重大な箇所になりました。この言葉は、ニカイア信条の中に取り入れられ、世界の教会の信仰告白になりました。使徒信条は主イエスについて「かしこより来たりて生けるものと死ねるものとを裁きたまわん」と告白します。ニカイヤ信条はそれに加えて、「その支配は終わることがない」と告白してキリスト告白を締めくくります。主イエスは王以上の王であって、その支配は政治以上の政治、神の憐みの支配として終わることがありません。永遠に主は支配なさり、すべての時間・空間を御自分のもとに置かれます。主イエスの支配は「終わらない」ということは、「中断される」こともなく、主の憐みの支配のない時も、ない場所もありません。永遠のことは主イエスにおいて定まりました。それが時間を生きる者に慰めと勇気を与えます。待降節の御使いの言葉は、眼前に見えるがごとく主イエスを仰ぐ信仰とその支配は終わることがないとの信仰を、今日に伝えています。祈りましょう。

 聖なる父である神様、待降節の礼拝に会堂で、またオンラインで加わることができ、感謝致します。今朝は主イエスの誕生の告知を覚え、特にその御名の尊さとその支配が終わることのないことを聞くことができて、感謝いたします。私たちの信仰生活がイエスの御名を呼び、イエスの御名に服し、その憐みの統治のもとにあり続けることができますように。その支配が終わることのないことを信じて、平安と喜びのうちに、今日も、また明日もあることができますように。種々の試練に直面してなお、生ける神の御力に希望をいだき、主にある喜びのうちに前進し、主の福音を証することができますように。あらゆる名にまさる名、主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。