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銀座の鐘

神に心を動かされ

説教集

更新日:2023年01月07日

2023年1月8日(日)公現後第1主日・成人祝福礼拝 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

エズラ記1章1~11節

 主の年2023 年に入り、聖書日課は再び旧約聖書へと戻り、私たちは歴代誌下に続く書、エズラ記 1 章 1-11 節を本日与えられています。今年度、私たちは旧約聖書を通して、神の民イスラエルが誤った道にそれて偶像崇拝にふける時、つまり、主の目に悪とされることを行った際に、ミディアン人やアッシリア人などの外国やその国の王を用いて、イスラエルの民を懲らしめる主なる神様の姿を見てきました。それと同時に、イスラエルの民が主に立ち戻ることなく、主の目に悪とされることを行い続けた姿をも、私たちは旧約聖書を通して見てきました。
 その結果、歴代誌下 36 章 17 節~20 節に記されているように、主はカルデア人の王をイスラエルに向かって攻め上らせ、すべてのイスラエルを彼の手に渡されたのでした。主の神殿の宝物もすべて残らずバビロンに持ち去られ、神殿には火が放たれ、城壁も宮殿も何もかも壊されてしまいました。また、殺されずに生き残った者たちも、捕らえられてバビロンへと連れ去られてしまうというあの惨劇、バビロン捕囚が起きてしまったのでした。
 そして、このバビロン捕囚は預言者エレミヤが「(11)この地は全く廃虚となり、人の驚くと ころとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。(エレミヤ書 25 章 11 節)」と 告げていたとおり、七十年もの間続き、イスラエルの民は荒廃してしまった聖なる都、神殿を 思いつつ、バビロン帝国の支配の下で仕えることを余儀なくされたのでした。
 しかし、主は今までもそうであったように、イスラエルを懲らしめた後、そのままお見捨てになられるお方ではありません。憐れみ深く、慈しみに富む主なる神様は、預言者エレミヤの 口を通して、神の民でありながらも悪を行い続けたこのイスラエルに約束を与えてくださいま した。それはエレミヤ書 29 章 10 節に「(10)主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ち たなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に 連れ戻す。」と記されているとおりです。
 そして、この預言者エレミヤの口を通して告げられた恵みの約束を、主はまことに実現してくださるお方であるということを伝えているのが、本日私たちに与えられた聖書箇所、エズラ記 1 章 1-11 節なのです。エズラ記 1 章 1-4 節は、ペルシア王キュロスの治世に起きた驚くべき出来事を私たちに伝えています。
 「(1)ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。(2)「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。(3)あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。(4)すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」(エズラ記 1 章 1-4 節)
 私たちは旧約聖書を通して、主なる神様が外国の王を用いるとき、それはイスラエルの民を懲らしめるために用いられるということを見てきましたし、また先ほど確認しました。しかし、1 章 1 節に「主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。」と記されているように、今、このバビロン捕囚からイスラエルを解放し、帰還させるために、主はペルシア王キュロスを用いられるというのです。イスラ エルの民を懲らしめるためではなく、救うために外国の王を用いるというのですから、まことに驚くべき、今までとは異なる新しいことがここで起きた、ということができるでしょう。
 おそらく、世界史を学んだことがある人なら、一度はペルシア帝国という名前、また、このペルシアの王キュロスの名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。確かにキュロスが寛容な政策を行ったということは世界史でも学ぶことができます。しかし、聖書はこのキュロス 王の心を動かしたのは他ならぬ主なる神様であり、また、その目的はイスラエルの民をバビロンから連れ戻すためであった、という驚くべきことを私たちに伝えているのです。 このことからも、私たちはまことに主なる神様が私たちの生きる歴史の中で働かれるお方であり、今も後もとこしえに私たちを導いてくださるお方であるということを知ること、確信することが許されているのです。 バビロンの地において、主によって心を動かされたキュロスのこの布告を聞いたとき、捕囚の民イスラエルはどれほど大きな喜びに包まれたことでしょうか。神殿を失い、また自分たちの国から切り離され、七十年もの間、偶像崇拝がはびこるバビロンの地で生きていく日々は、神の民イスラエルにとって、憂いと絶望の歩みの日々だったことでしょう。きっと、主は神の民イスラエルを見捨てたのではないか、もしくは、忘れてしまったのではないかと思う日々もあったことでしょう。
 しかし、かつてアブラハムを召して祝福の約束を与え、また、モーセを用いてエジプトからイスラエルの民を救い出されたこの主なる神様は、神の民イスラエルをバビロンの地に置き去りにはされないのです。決してイスラエルの民をお忘れになられないのです。
 出エジプト記において、モーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束してくださったこの主なる神様は、主を忘れ、約束を破り続ける神の民イスラエルとは違い、神の民を忘れることも、約束を反故にされることもないのです。他の誰でもないこの主が、ペルシアの王キュロスの心を動かし、また、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人といった、主の神殿を再建するためにエルサレムへと上っていた人々の心を動かしてくださったのです。
 このように、主なる神様による働きかけがなければ、私たちは心を動かされることはありません。それはかつて私たちが信仰者となる前、主なる神様に従わず、また祈りを捧げることもなく、自分中心の生き方をしていたことからも明らかです。
 ですが、主は私たちの罪にもかかわらず、イスラエルだけではなく、すべての民を救うためにイエス・キリストを与えてくださったということを私たちは聖書を通してすでに知らされています。このようにして、主は異邦人である私たちの心をも動かし、信仰者、神の民としてくださったのです。ですから、この愛と恵みに富たる主なる神様に依り頼み、従いつつ、応答する者として歩んで参りたいと願います。

 祈り 天の父なる神様。私たちはかつて、あなたの御言葉を聞こうともせず、あなたに祈りを捧げることも、そもそも祈りとは一体どういうものかも知らない、そのような暗闇の中で生きていました。しかし、あなたが私たち一人一人を招き導いてくださったために、私たちは私たちの創造主であられるあなたを知り、また、あなたが御子イエス・キリストを私たちに与えて下さるほどに私たちを愛してくださっていることをも知ることができました。主よ、感謝いたします。どうか私たちが罪人にも関わらず、あなたの愛を頂いていることを日々覚えて、孤独や恐れ、痛みや苦しみ、貧しさの中に置かれている時でも、あなたに愛されていることを確信し、慰めと励ましをあなたから頂きつつ、しっかりと信仰に立って、あなたの愛に応答する者として歩んでいくことができますように。 アーメン