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銀座の鐘

神とヨブの沈黙と出会い

説教集

更新日:2023年01月22日

2023年1月22日(日)公現後第3主日 銀座教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ヨブ記1章13~22節

 2022年度は、「旧約聖書における神の民の祝福と契約」という主題を掲げて、旧約 聖書を読み進めています。本日は、ヨブ記の第 1 章です。
 旧約聖書の歴史書、預言書、知恵文学の区分の中でヨブ記は知恵文学に属する書です。知恵文学には、ヨブ記に続いて詩編、箴言、コヘレトの言葉、雅歌があります。知恵文学の一番最初に置かれているのがヨブ記です。ヨブ記は、ペルシャ時代に執筆されたようです。研究者はペルシャ時代のユダヤの知恵を更に自己批判する知恵がヨブ記であると説明します。真の知恵とは何であるのかを問う文学作品です。ヨブ記は知恵文学の中でも唯一、苦難の問題を徹底的に深めた文書です。不条理な苦難があることを語り、理由なき苦難を受け入れる道を歩き、苦難の責任を神に問う信仰者ヨブを描き出します。
 主人公ヨブはユダヤ人ではなく東方の異邦人です。当時のユダヤ人世界からは、外の人です。ヨブ記の作者は商人としてユダヤ人たちと取引や契約を交わしていたこともうかがい知れます。ユダヤ人が異邦人の信仰者ヨブを描きます。異邦人のヨブは教師としてユダヤ人に教えることもあります。ヨブ記の作者は不明ですが、ヨブ記をじっくりと読み進めるとき、読者一人一人にヨブ記の作者像が浮かびあがるのではないかと思います。
 ユダヤ教の正典であるヨブ記は、異邦人のヨブをしてユダヤ教の外から伝統的なユダヤの知恵を批判し、真の信仰とは何か、苦難の中で神を信じる者の複雑な心の変遷を描き出します。ヨブ記はヨブのことを「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と紹介します。当時の世界で神の前に立つ人々の中で、非の打ち所のない人物であったことが分かります。しかも、主人公ヨブは、信仰深く、品行方正であるだけでなく、東の国一番の富豪です。ヨブは、七人の息子と三人の娘が与えられ、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ロバ5百頭の財産をもつ富豪でした。異邦人の富豪が苦難を受けます。
 ある日のこと、信仰深い義人ヨブは、「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思い、息子たちを呼び寄せて犠牲(いけにえ)をささげて聖別しました。ヨブは自分が品行方正であるだけでなく、息子たちの心の中まで心配する少々過干渉で細かい親でした。しかも「ヨブはいつもこのようにした」とあるように、ヨブが息子たちの心の中まで心配することは日常的なことでした。父親としてのヨブは、家族に対して過干渉過ぎるほどの信仰者です。
 ヨブ記の舞台設定は、地上のヨブとその家族の記述から突然、天上界の主なる神とサタンの対話の場面に移ります。天上界では、主なる神と神の使いとの集まりでサタンが登場します。サタンは主なる神に「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」と問います。そして「財産に触れたら、面と向かってあなたを呪うにちがいない」と言います。主はサタンに「それでは彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」といいました。天上界の神とサタンの合意によって、神はサタンが、ヨブの命を奪わないという条件付きで、苦難を下すことを許可しました。サタンは利益も理由もなく神を信じる「義人」などいるはずがないと確信しています。サタンは人間とは打算で動く存在だと確信しているのです。神はこのサタンの疑いを退けることなく、サタンの試 みに直面するヨブを天上から見守り続けます。
 私たちの信仰は、利益があるから神を敬うのか、この世の悪を避けられないとき、神にひれ伏し礼拝することができるかが問われることになります。しかし、地上のヨブには天上界での神とサタンの対話を全く知らされていません。ヨブは、突然降り注ぐ苦難が誰の仕業であるのか、誰の許可による出来事なのか全く知らないまま苦しみます。

 本日与えられた聖書箇所は、ヨブ記の序章です。ヨブ記の第1幕だけです。ヨブ記の苦難の問題は、全体を最後まで読まなければ十分に理解し味わうことはできません。1章の限られた聖書箇所を通して、私たちが受け取るべき神の御心はなんでしょうか。
 東の国一番の富豪ヨブは、一日のうちに全財産を失います。財産だけでなく、彼の愛する10人の子供たちも建物の崩壊によって一瞬のうちに命まで奪われてしまいました。残ったのは妻だけでした。さらにヨブの体は膿が出続ける腫瘍で覆われてしまいます。
 ヨブの苦しみは、誰が見ても神の呪いを受けているように見えたことでしょう。しかし、神がサタンに苦しみを与えることを許したのは、ヨブだけは完全な義人であることをサタンに対して立証するためです。神はヨブを冷徹な目で見ていたのではありません。神はヨブを信頼しています。ヨブが出会う苦悩の場に常に神は同席しています。この世の悲劇を一日で受け止めなければならない、苦しみのどん底にヨブ夫妻がいます。ヨブ記が語るこの世の最もつらいことは、愛する子供を失うことと肉体の破壊です。この悲惨さは、魂の苦しみとなって神に対する苦い思いになるはずです。ヨブの人生の意味が失われ、ヨブの信仰の理由も失われます。これほどの苦しみの中でヨブは、永遠の光を放つような信仰の言葉を語ります。1章21 節の言葉です。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような苦難のどん底からも、 ヨブは神を非難することなく、罪を犯しませんでした。
 2 章 10 節以下、ヨブが妻に答える言葉です。「ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。」
 ヨブの信仰はこれほどの苦難の中でも、主は与え、主は奪う、裸で生まれ全て主がお与えになったのであり、裸で主のもとに帰るのは当然であると苦難を受け止める、という信仰です。苦難のどん底で主の御名をたたえているヨブがいます。

 苦しみの中で、神を呪い、信仰を捨て、神からも隣人からもから離れてしまうのではないかという恐れをもつ私たちにとって、どん底のヨブの告白は大変立派な模範的な信仰者像を見せつける力強い御言葉です。妻からの進言に対しても、神から幸福をいただいたのだから不幸もいただこうではないかと言い切る、模範的な信仰者の姿です。この時点でサタンは神の前で完全に敗北しています。しかし、ヨブ記は立派な模範的な信仰者ヨブを紹介して終わりません。ここからヨブ記がはじまります。信仰者ヨブが神を呪い、神を糾弾するもう一つのヨブの姿を 3 章以下から描き出します。
 サタンの疑いは、ヨブの信仰の前で消え去ったかのように見えましたが、3章に入るとヨブの態度は大きく変化しました。1章 2章の言葉を語った義人ヨブとは思えない別人ヨブが登場します。3 章のヨブは自分の生まれた日を呪います。すなわち、自分を生まれさせた天地創造の神を呪いはじめます。ヨブが訴える誕生日の撤回は、神の天地創造の業は混沌の世界の創造であったのではないか、神の創造のみ業に対する再評価と問題提起を求めたのです。神は全能の神なのかどうか問うという主張です。
 自分の苦難の原因については、身に覚えのないことであり、理由のないことであり、神の正しい裁きとはいえないと主張します。このような不条理な苦難を負わせる神の不正を糾弾するようになります。1章、2章の信仰の言葉は、どこに行ったのかと思うほどの別人ヨブがいます。ついには、ヨブは自分自身を主なる神より正しいと確信して、主を敵と呼び、法廷で争おうではないかと神に吠えます。神を糾弾するヨブを見つめつつ、姿を見せなかった神は沈黙を破りとうとう姿を見せ、ヨブは対話する神に出会います。神との対話によって信頼関係が確認されます。神との対話によって、ヨブは自分自身が神ではないこと、神と対等な立場に立つ事がそもそも出来ないことを思い知ります。
  
 ヨブ記を通して、私たちは神を信じるということは、神との対話を決して諦めずに求め続けるヨブの信仰に気付くと思います。神が沈黙している時も訴え続けるのです。しかし、神はこの小さな私たちの全てをご存じであることを知り、私たちを対話の相手にしてくださるのです。神が沈黙している苦難から神との出会いと対話がはじまるのです。
 苦しみの中でこそ、神に問い続けなければなりません。私たちがどんなに不信仰な言葉を吐いても、神は不信仰な私たちを対話の相手にしてくださることを信頼したいのです。信仰者は立派に見える時も、不信仰にしか見えないときもあります。しかし、神はじっくり私たちの変化をご覧になって、最も大切なときに姿を現し出会ってくださるのです。
 私たちはヨブ記を通して、神が沈黙しているとしか思えないときこそ、神は私たちのうめきを聞いておられること、信仰深い言葉を語るときだけでなく、神を呪うときも神は耳を傾けておられることを受け止めたいと思います。
 ヨブは神から離れませんでした。そして、神こそ、ヨブから離れることなく、ヨブのことを最も良く知っておられるのです。神は、わたしたちがどん底にいるときこそ、見守っていてくださるのです。私たちを良く知っておられるのです。
「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び 求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれで も救われる」のです。」ローマ 10:12-13

祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたがヨブを見つめ続け、対話の相手としてくださったことを思い巡らします。私が何も見えなくなるとき、あなたのみ声を聞かせてください。キリストの御名によって祈ります。アーメン