銀座教会
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銀座の鐘

苦難の僕(しもべ)

説教集

更新日:2023年02月03日

2023年2月5日(日)公現後第5主日 銀座教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

イザヤ書52章13~53章~12節

 本日与えられた御言葉は、「苦難の僕」または「主の僕の歌」と呼ばれている聖句です。イザヤ書 52 章 13 節以下 53 章 12 節は、新共同訳聖書で「主の僕の苦難と死」という見出しがついています。この箇所は、伝統的に旧約聖書の学者たちによって、「苦難の僕の歌」と呼ばれてまいりました。
 「苦難の僕の歌」は、最初と最後の段落は神が語り、その中間で預言者イザヤが語るという構成になっています。最初に神は、「見よ、わたしの僕は栄える」と呼びかけ、苦難の僕は栄えるのだと、神による苦難から栄光への運命の逆転が告げられます。
 神のこの声を聞いた預言者イザヤは、目の前で苦難の僕が世から捨てられ、誰からも顧みられず、蔑まれ、病に苦しみ、顔を覆いながら生きてきた彼の生い立ちと苦難(53章 1-3)を語ります。預言者イザヤは苦難の僕が背負う病や苦しみの意味について、続けて語ります。苦難の僕が背負った病は、自業自得の病ではなく、「私たちの病」であり、「私たちの苦悩」であり「私たちの罪」だったと歌います。苦難の僕が受けた懲罰によって、私たちは平安を受けていたのだと語ります。苦難の僕の傷によって私たちの癒やされたのだ、そして私たちの罪科の全てを苦難の僕に背負わせているのだと語ります。(4-6)私たちの罪を背負う苦難の僕は、虐げられても口を開かず、屠り場に引かれていく羊のように口を開かなかった。このように処刑される直前の苦難の僕の姿を思い起こしています。苦難の僕は、捕らえられ、裁判も受けずに処刑されてしまいました。苦難の僕は乱暴な振る舞いをしたこともなく、嘘偽りを吐くこともなかった。にもかかわらず、悪人たちと同じように扱われ、悪人たちが葬られた墓の中に置かれたとイザヤは語っています。(7-10a)
 「苦難の僕の歌」の最後の段落、10 節bから 12 節で再び神が登場します。神はイスラエルにこう語ります。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(11)神は苦難の僕の命がイスラエルの罪と不義の代償であったと語って、この歌は閉じられます。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」苦難の僕は、彼を蔑み、軽蔑して神に背いた人々のために執り成しをしたと神は苦難の僕を紹介しているのです。
 預言者イザヤは、苦難の僕がその時代の誰であるか、その人と成りに関心を示していないのです。苦難の僕が救い主メシアを指し示していることだけに集中して預言しているのです。このことは、とても大切なことなのです。
 イザヤ書の研究者である中沢こうきは「ここに現れる僕は、もはや預言者自身でもイスラエルでもなく、同時代のいかなる歴史的人物でもない。」、苦難の僕とは「比 類なき終末的救済者としてのメシアである。」と記しています。中沢はこうきは、苦 難の僕の歌は「第二イザヤ自身、苦闘の末に限界を自覚し、祈りの中に啓示された救 済の秘儀と解すべきであろう」と述べています。イザヤ書の研究成果によると、苦難 の僕は預言者が祈りの中で示されたメシア、救い主であるということになります。
 研究者たちは、この「主の僕」または「苦難の僕」とはいったい誰なのか、歴史上の人物の中に探しました。しかし、この問題を巡って多くの議論がなされていますが見解の一致を見ることができません。預言者イザヤ(第 2 イザヤ)の時代、すなわち捕囚期に苦難を経験した人々の祈りの中に神が秘儀として与えた真の救い主のお姿が苦難の僕であるということです。
 新約聖書、使徒言行録に記されている初代教会の伝道では、苦難の僕こそイエス・キリストであると説明しています。苦難の僕と主イエスの十字架の苦難と重ねて理解しているのです。新約聖書中、イザヤ書 53 章は何度か引用されています。その中で、使徒言行録 8 章に注目したいと思います。ここでは、エチオピアの宦官がはるばるエルサレムまで礼拝に行って、帰り道の出来事が記されています。宦官はイザヤ書の巻物を手にもち、馬車の中で読んでいました。伝道者フィリピがこの宦官のもとに遣わされました。エルサレムからガザへ下る道、「彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」」この聖句は、イザヤ書 53 章 7-8 節の引用です。初代教会の伝道者フィリポは、「聖書のこの個所から説き起こして、イエスについての福音を告げ知らせた」とあります。フィリポはイザヤ書の苦難の僕を主イエスの福音によって、説明したことが分かります。
 キリスト教会はフィリポの時代から、苦難の僕とは救い主イエス・キリストを指し示していると大胆に解釈しているのです。
 預言者イザヤも初代教会も、苦難の僕は、必ず到来すると確信している救い主であり、人間讃美には全く関心を示すことなく真の救い主を待ち望む信仰を教えているのです。苦難の僕を主イエス・キリストを通して理解することは、預言者イザヤが生きた紀元前 6 世紀から紀元 1 世紀の主イエスの時代まで隠されていた秘儀が数百年後に明らかにされたことになります。旧約聖書の預言が新約聖書において成就したのです。イスラエルが待望していた救い主は、主イエス・キリストの十字架と復活によって、それまで隠されていた救い主のお姿を見る出来事なのです。
 なぜ旧約も新約も聖書は、人間としての苦難の僕に関心を持たないのでしょうか。それは、どんなに深く大きな苦痛を苦しんでも人間は救い主を指し示すことは出来ても救い主ではないからです。人間の自己犠牲の愛は大変素晴らしいものですが、その人が救い主になることは出来ないのです。主イエスは救い主として、神と人間の間に立ち、私たちを救う中保者、私たちを救うために神と私たちの間にあって仲介するお方なのです。私たちは神と人間の間に立ち、私たちの苦しみを引き受けて担われたお方を信じます。主イエスが神に対する従順の中で罪を担い苦難と悪を受け取り、私たちの罪科を償いました。主イエスの十字架と私たちの十字架とは全く別のものです。人間が主イエスを信じるために被る残酷な殉教でさえも主イエスの苦難には及ばないのです。主イエスの苦難は一回限りのものです。主イエスの十字架とは、神の裁きにさらされる人間の徹底的な代理となることであり、ゆえに私たちの救い主になるのです。主イエスだけが私たちを神と和解させるのです。キリストの苦難は私たちと神との和解をもたらし、この世と神の平和を造り出す苦難です。
 イエス・キリストの十字架と復活を知っている私たちにとっては、苦難の僕は歴史的な偉人や立派な人間のお話ではなく、救い主を指し示す物語なのです。救い主の聖なる苦しみを指し示すからこそ、聖書に記されているのです。苦難の僕を通して、イスラエルの民が待望していた救い主が指し示されているのです。ゆえに、「見よ、わたしの僕は栄える」と神はお語りになったのです。
 イザヤの時代に、おぼろげであった救い主の姿がはっきりと示され、明確になっているのです。私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活を通して、イザヤ書を読み直すときに、預言者イザヤが語った御言葉の真実が実現していることを知ることが出来るのです。私たちは、受難節を迎える備えとして、救い主の到来を喜び、メシア預言の成就として、不思議な神の救いの出来事を知らされています。
 マタイによる福音書も、8章17節において、主イエスが言葉で悪霊を追い出し、 病人を癒やされていたお姿を通して、「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」」 主イエスが癒しの業を通して、罪の赦しの宣言を聞き、主イエスによる執り成しの御業を感謝したいと思います。
 祈ります。
 天の父なる神さま。預言者イザヤが苦難の僕を通して救い主を指し示し、御言葉を与えられました。私たちが地上のいかなる人間の苦しみに寄り添う時にも、苦難を通して救い主を指し示す土の器として用いて下さい。主イエスの名によって救いを見出すことが出来ますようにお導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン