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銀座の鐘

最後の言葉

説教集

更新日:2023年02月19日

2023年2月19日(日)公現後第7主日 銀座教会 主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

エフェソの信徒への手紙6章23~24節

 手紙の終りには最後の言葉があります。最後の言葉があってはじめてその手紙は完結した手紙になり、差し出し人から宛先人へと伝えられる内容も定まることになるでしょう。もし最後の言葉が欠けていると、書かれたこと全体が否定される可能性も残り、手紙の内容は不確定になり、その手紙の使命は果たすことができません。今朝はエフェソの信徒への手紙を完結させた最後の言葉は何か、そこに注意して、この手紙に導かれた何回かの説教のまとめの言葉を聞きたいと思います。
 23節には「平和」と「愛」が語られています。「平和が兄弟たちに」と言うのです。そして「愛が」とあり、信仰を伴って、父である神と主イエス・キリストから」と記されています。その平和と愛がどうする、どうしたという動詞は記されていません。これはコリントの信徒の手紙二の最後、13 章 13 節と同じ書き方で、祝祷の言葉です。そこで「あるように」、「平和と愛があるように」と訳されています。同じ様に続く24節には「恵みが」とあります。「恵みがすべての人と共に」とあって、「すべての人」とは「わたしたちの主イエス・キリストを愛する全ての人」と記されています。それで「恵みがわたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人と共にあるように」と言うのです。エフェソの信徒への手紙の最後の言葉は祝祷の言葉です。礼拝の最後の言葉が祝祷であるのと同じです。この手紙は礼拝と同じようだと言ってよいでしょう。祝祷の言葉で閉じられます。事実この手紙は、ヘフェソやラオディキヤがあった地方、アジア州の諸教会に当てられ、複数の教会に回覧され、事実各教会の礼拝で読まれたと思われます。手紙の最後のこの祝祷をもって、この手紙が読まれたその教会の礼拝が終了したこともあったのではないでしょうか。
 わたしたちの礼拝も祝祷で終ります。通常その言葉は、旧約聖書の民数記6章に伝えられるモーセが兄アロンに託した祝祷から取られる場合もありますが、多くはコリントの信徒への手紙二13章にパウロが記した祝祷です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように」と祈られます。これに対し、エフェソの信徒への手紙では、平和と愛と恵みがあるようにです。恵みと愛とはどちらにも共通しています。「聖霊の交わり」に代えて、「平和」があるようにと祈られます。これらは違いがあるというよりも、一つの神の祝福の大きなまとまりが祈られて、その神の祝福の大きな働きは恵みであり、愛であり、交わりであり、平和です。神からの恵みの働き、そのひとまとまりの祝福は大きく豊かであって、多彩な要素と局面を含んでいると言うことができるでしょう。神の救いの恵み、その働きが全体として祈られ、それを受けとるとき神の祝福の巨大なまとまりに入れられると信じられます。
 祝福は祈る人の業ではなく、神の業です。神がモーセをとおしてアロンの祝祷を伝えたとき、アロンとその子らがイスラエルの民を祝福すれば、「わたしが彼らを祝福する」と神は約束したとあります(民6・27)。祝祷のまことの主は、祈る牧者でもなければ、祈られる会衆でもありません。祝祷の真の主として祝福してくださるのは、その礼拝に臨在しておられる生ける神御自身です。
 エフェソの信徒への手紙の最後の祝祷には、「平和があるように」とあります。「平和」 はシャロームです。イスラエルの祝福の挨拶でした。私たちが「今日は」と言うところで、イスラエルの人々は平和・シャロームと言いました。初代教会においてもこの平和の挨拶は重んじられました。しかしとりわけ覚えたいのは、主イエスが神との平和、神との和解を築きながら、福音を平和の福音とされたことです。平和は、和解によって争いに打ち勝った状態です。そして神との平和があるところ、罪は赦され、神とその審判を恐怖することのない平安が与えられます。真の平和には恐れのない魂の平安が伴います。ですからどんな危険の中でも守られている者の安心があります。十字架をとおして贖いを果たし、復活によって罪と死に打ち勝った主イエスは、「あなたがたに平和、平安があるように」と言われました。また主イエスはその癒しの力によって十二年の長血の病から婦人を解放し、「安心して行きなさい」とも言われました。主イエスの祝福は、私たちに安心を与えます。主の祝福は、平和と安心、そして平安を与える神の恵みの力です。手紙の最後に記され、礼拝の最後を形づくる「平和」と「愛」と「恵み」と「交わり」の祝祷は、主イエスの祝福に基づき、父である神と主イエスと聖霊の三位一体の神の働きによります。
 誰を祝福するのでしょうか。それを聞く、あなたをでしょう。アロンの祝祷もイスラエルの民に向かい、「主があなたに恵みをあたえられるようにに」と祈られます。コリント第二の手紙の祝祷も「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と祈られます。ただしエフェソの信徒への手紙の最後の祝祷は、あなたがたにでなく、「兄弟たちに」と言われます。そして「すべての人と共にあるように」です。兄弟たちとは主イエス・キリストにあって兄弟とされた人たちということであり、「すべての人と共に」というのは「わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人と共に」です。主にある兄弟である全てのキリスト者に祝福を祈る。そこにこの手紙の特徴がよく出ています。大きなキリストの祝福の中に包まれたすべてのキリスト者をこの手紙は念頭に置いています。
 手紙の最後の言葉は、祝祷でした。神の大きな祝福の中にすべてのキリスト者、キリストを愛するすべての人を含めます。そしてその祝祷の言葉に最後の言葉があります。それは「朽ちることなしに」「朽ちない中で」というのです。それがエフェソの信徒への手紙の最後の言葉になっています。「朽ちないこと・朽ちない中で」とはどういうことでしょうか。共同訳聖書は、それは主イエスを愛するわたしたちの愛を説明するとして、「朽ち ない愛」とし、「変わらぬ愛をもって」と訳しました。残念ながら適訳とは思われません。朽ちないというのは、私たちの愛の性質を語っているのではないでしょう。パウロは、「朽 ちない」というこの言葉を復活の命の特質として用いました。朽ちない命は神の命であって、それにあずかる永遠の命です。私たちの愛ではなく、神の恵み、神からの恵みが朽ちることなく、働き続けます。ですから祝祷であれかしと祈られた神からの平和、父である神と主イエス・キリストからの愛、そして恵み、神の大きな祝福が朽ちることない命と真実を持って働き続けます。口語訳聖書は「変わらない真実をもって恵みがあるように」と訳しました。
 神の恵みが朽ちることのない真実と命をもって働き続ける。それがこの手紙の最後であると理解されます。そうするとこの手紙の始めと終わりが対応します。この手紙は「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」(1・2)という言葉から開始したのです。そしてその神の恵みが秘められた神の御計画により、キリストにおける選びと救いの業によって、絶大な働きの力によって実現する次第が語られました。最後の言葉はそれに対応して、神の恵みが朽ちることのない永遠の命と真実をもって、すべてのキリスト者にあるようにと言うのです。神の恵みの働きの中に あり続ける、それは祝福してくださる神の業です。その中にあり続けることのできる幸いを感謝したいと思います。
 エフェソの信徒への手紙の最後の言葉を聞きました。これに私たちが何らかの言葉を持って応じるなら、聖書の最後の言葉に対する私たちの応答になります。何か応答の言葉があるでしょうか。礼拝の最後は祝祷で、その祝祷の言葉を受けて、私たちは「アーメン」と応答します。実は、エフェソの信徒への手紙の多くの写本の中に最後の言葉は「アーメ ン」とされている写本が多いのです。手紙そのものは祝祷で終わったに違いありません。 そして神の恵みが「朽ちることなく」続く中でという言葉で終わりました。それが礼拝で読まれた時に、多くの写本はそれを受けて応答した会衆の声を残しました。「アーメン」がそれです。この応答によって神の恵みの大きな働きに対し、その中にある感謝と確信が 表明されたに違いありません。今朝、私たちもエフェソの信徒への手紙の最後の祝祷の言 葉に「アーメン」と応えたいと思います。

 天の父なる神様、御言葉を聞きつつ礼拝し、あなたの祝福の中にあることを感謝します。 あなたの与えたもう平和と愛と恵みにあずかり、それを私たちの力として前進させてください。世に多くの試練があります。主にあるすべてのキリスト者たちがその試練の中で福音を証し続け、あなたと人々とに仕えることができますように導いてください。私たちのこの礼拝も祝祷を最後の言葉といたします。どうかあなたが主にある平安と愛と恵みを与えて下さることを信じて、アーメンと応答し、この週も喜んで生きる力にさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。