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銀座の鐘

ダニエルの信仰告白

説教集

更新日:2023年03月03日

2023年2月26日(日)受難節第1主日 銀座教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ダニエル書6章19~28節

 ダニエル書1章から6章にはダニエルの伝記的な物語が記されています。ダニエル 書の舞台は、私たちが時代劇を見ているような設定になっています。ダニエル書の舞 台とされている時代とダニエル書が書かれた時代が異なっているのです。この文書が 描いている時代はバビロニア帝国による捕囚時代の初期、紀元前6世紀です。バビロ ニア帝国の王であるネブカドネザルに仕えたユダヤ人エリートがダニエルです。しか し、この伝記物語が記された時代は紀元前2世紀、ローマ帝国によるユダヤ人迫害の 社会状況が反映されているといわれています。
 紀元前2世紀は、イスラエルの歴史上最も激しい迫害が行われた時代です。多くの殉教者が出ました。深い闇が支配した試練の時代です。この試練の中で信仰を告白し続けて、とうとう殉教した人々の信じる姿勢に光が当てられています。厳しい迫害の闇の中、神を信じ続けた信仰者の告白は大きな希望となって今日まで伝えられています。ダニエル書12章には、殉教者の復活が記されています。最も厳しい迫害の時代、 神を信じる信仰者の群れに与えられたのは、殉教者の復活という希望です。神を信じる者は、死んでも生きるという希望です。迫害のただ中での信仰告白は、驚くべき力となってダニエルはじめ多くの人々を奮い立たせました。死を越えて生きる希望がここに明らかにされたのです。迫害に勝る信仰の力が証しされています。
 ダニエルたちが「賢い者」「多くの人を義に導く者」と紹介されているのは、律法を知り、迫害の中で律法に留まり、これを行う人だからです。律法に留まる信仰を告白するがゆえに命を奪われます。主の御心によって殉教者が死で終わるということはあり得ないと信じる信仰が広まっていったのです。
 迫害するローマ帝国の皇帝をはじめとする迫害者はどのような心を持っているのでしょうか。迫害者は地上の権力を手中におさめたと思い込んでいる人です。人間は権力を手に入れると傲慢になります。傲慢になると、聖なる方と戦い、地位を失うというのが歴史の常です。ローマ帝国の皇帝が傲慢になり、権威を自分の力で得たと思い込み、自分自身の弱さを隠しながら、後に引けない道を走っているのです。真の支配者である神から委ねられているかどうか等考えることすら出来なくなるのです。
 地上の権威を委ねて下さる神の御心に忠実であるかどうかが最も大切なことです。 しかし、神の御心を求めることをやめたとき、傲慢の罪から抜け出せなくなるのです。
 ダニエル書6章では、ダレイオスが王国を受け継いだ矢先の出来事でした。王はダニエルを大臣の一人に就けました。しかし他の大臣がダニエルを陥れようと口実を探 しました。ダニエルは政務に忠実で何の汚点もなく、だれ一人彼を陥れる口実を見つ けることが出来ませんでした。そこで、他の大臣たちはダニエルを陥れるには、ダニ エルが信じている神について言いがかりをつけることではないかと話し合いました。
そして彼らはダニエルを陥れる策略を立て、ダレイオス王に具体的な礼拝に関する命 令を定める提案をします。「向こう30日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い 事をするものは、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」という提案でした。ダレイ オス王は、深く考えることも無く、この提案を受け入れる署名をしてしまいました。
 ダニエルは王様が礼拝禁止の命令を出したことを知っていましたが、家に帰るといつものように2階に上がり、いつものようにエルサレムに向かって窓際にひざまづき、一日3回の祈りと賛美を神さまに献げました。役人たちは現職の大臣であるダニエルを逮捕しました。彼らの策略通り、ダニエルは獅子の穴に落とされてしまいました。ダレイオス王はダニエルを失ってはじめて自分の浅はかさを知りました。時既に遅しその時、ダニエルは獅子の穴に落とされてしまっていました。王はダニエルを救出す力もないのです。無力な王はこういうのです。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救って下さるように」と獅子の洞窟にいるダニエルを案じ願っていました。
 夜が明けるやいなや王は急いで獅子の洞窟へ行きました。洞窟のダニエルに向かって、お前の神は獅子からお前を救い出す力があったかと呼びかけました。穴の中からダニエルは答えました。「神さまが天使を送って獅子の口を閉ざして下さいました。」ダニエルは、獅子の餌食にならずに生きていました。ダニエルは守られました。ダニエル書はダニエルが何の危害も受けなかった理由をダニエルが「神を信頼していたからである」と記しています。ダニエルの信仰告白が信仰者の命の輝きを指し示しています。ダニエル書の信仰は、初代教会において殉教者を復活の希望に導いた信仰告白です。
 ダニエル書の後に世界信条の一つである使徒信条が生まれました。使徒信条の告白の中に、主イエスがローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けたと記されています。ダニエルの信仰告白を思い起こすとき、私たちは使徒信条によって、ピラトの下で十字架の主イエスが苦しまれ、大切な信仰を与えてくださったことに目を向けたいと思います。そして、主イエスに従う道を指し示す出来事としてダニエル書の御言葉を受け取ることが出来ると思います。
 与えられた信仰に忠実であったがゆえに、罪なきダニエルが自分自身の保身に走らず、誠の神に従い続けました。処刑されることを予想しながら、神を信じ続けた姿勢は、紀元前2世紀の信仰者の模範として語られ、その原動力である信仰告白の力を証明しているのがダニエル書です。
 ダニエルを獅子の穴に落としたのは、王をだました大臣たちでした。主イエスを十字架刑に処す判決を下したのはポンテオ・ピラトです。主イエスは十字架上で弟子たちの罪を引き受けて苦しみましたが、同時にピラトの罪を引き受けて苦しんでいるのです。弟子たちの罪に対する神の怒りを引き受けておられますが、同時にピラトの罪に対する神の怒りを十字架上の主イエスは引き受けておられるのです。そのことが使徒信条の告白である「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という言葉が示している信仰です。
 ピラトの罪とは、ピラトが主イエスを十字架につけろと群衆に迫られ、それに屈して判決を下しました。ピラトは主イエスの罪を見いだせなかったにも関わらず十字架刑の判決を出してしまったのです。ピラトの権威は借り物の権威であることが明らかになりました。彼は中間管理職のような立場でローマ帝国にもユダヤ人にも妻からも迫られ、自分自身の決断を明らかに出来なかったのです。主イエスを殺すことに関わりたくないという思いをもっていました。そのような状況を考えるとき、「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」という信仰告白は、主イエスがピラトを通して多くの人々の罪を引き受け、身代わりとなって神の怒りを引き受けていることが伝わってくるのではないでしょうか。
 私たちの身代わりとなって神の怒りを担う主イエス・キリストが十字架に付けられました。神の眼差しから見えるピラトは小さな人間です。神の御子の前に裁判官として立たされています。主イエスに対して判決を言い渡さなければならない責任を負った人間です。ピラトは主イエスを裁くことによって自分自身を裁くことになりました。ピラトはユダヤ人ではなくローマ人であり異邦人であり諸民族の代表者として立っています。主イエスを十字架刑に処する判決はユダヤ人がしたのではなく異邦人がしたのです。主イエスの死に対して罪を負うのはユダヤ人だけではないのです。そして、同時に救いもイスラエル民族に留まるのではなく地上の諸民族へ広がっていくのです。
 主イエスは罪なくして苦しみ、罪なくして処刑され死なれました。つまり、主イエスは罪人である他者のために罪なくして死なれ、苦しみつつ私たちの罪を担ったのです。主イエスはピラトの前で自己弁護することなく沈黙を守り続けました。主イエスは有罪になることを求めていると思われるほど積極的に罪を引き受けています。その際、主イエスは神の御子であり、イスラエルのメシア救い主であるという信仰告白に基づいて有罪とされたのです。その告白のために主イエスは処刑され、そのことのために自覚的に死なれるのです。この主イエスの苦しみをしっかりと受け止めながら信仰告白を告白したいと願います。
 私たちキリスト者は、今後も苦難の道を歩まなければならないでしょう。しかし、この道は、世界のために最大の救いの約束としてまことの命を与える道なのです。