銀座教会
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銀座の鐘

愛の預言者

説教集

更新日:2023年03月03日

2023年3月5日(日)受難節第2主日 銀座教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ホセア書11章1~11節

 本日与えられた御言葉は旧約聖書のホセア書です。預言者ホセアを通して神の愛が語られています。ホセアは神の愛を生き伝えた預言者です。ホセアが活動した紀元前8世紀は、北イスラエル王国が繁栄から滅亡へ至る時期です。北イスラエル王国は経済的には繁栄していました。しかし、北イスラエル王国の繁栄の陰には、色濃く闇が支配していました。この繁栄は近隣諸国との交流が活発になることから、近隣諸国との貿易による繁栄でした。この貿易によって、関係国から農耕宗教が導入されました。いつの間にか、北イスラエル王国の神殿には、聖書の神の横にアッシリアなど貿易関係国の神々がまつられるようになりました。神殿において、聖書の神ではなく、農耕文化の国々による、五穀豊穣を祈願する祭りが活発に行われるようになりました。神殿において男性の娼夫と女性の娼婦による性的な関係が儀式として繰り広げられ、雨が大地にしみ通り、豊かな実りが与えられることを大胆に願うようになりました。神殿での祭りは、北イスラエル王国の人々の礼拝生活も日常生活も徐々に狂わせてしまいました。北イスラエル王国も国王であったヤロブアム2世の死後、王位を巡る混乱も続いていました。預言者ホセアが生きた時代は、王不在による政治的な不安定と異教の神々が導入されたる時代でした。そして、北イスラエル王国は南ユダ王国より先に滅びてしまう、滅亡への道を転がり落ちる時代でした。
 北イスラエル王国の人々は、元来、荒れ野を導いた神ヤーウェこそが大地に雨を降らせ、日々の命を支える神であることを信じて礼拝していました。しかし、諸外国から導入されたバアルの神々を同時に拝むようになってしまいました。そして、バアルこそ雨を降らせ大地を潤し豊穣を約束してくれるのではないかと祈り願うように変わったのです。北イスラエル王国の礼拝は聖書の神とバアルと両方を並べて礼拝するようになりました。
 アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセと共に神の民を導いた神との経験が忘れ去られそうになりました。聖書の神もバアルも両方の神を礼拝するということは宗教混交ということになります。どちらが真の神であるのか、だれに祈ればよいのか分からなくなってしまいました。宗教混交状態の礼拝では、律法の朗読や祈りはかき消され、人々のうめきや神殿劇場の舞台演技によってバアルに支配されてしまいました。そして、北イスラエル王国は、迫り来るアッシリア帝国に滅ぼされてしまうのです。
 このような北イスラエル王国が繁栄から堕落、滅亡へ向かう時代、ホセアは召命を与えられ遣わされ、神によるホセアへの命令を与えられました。
 1章2節、主なる神は、預言者ホセアに「淫行の女をめとり、淫行の子らを受け入れよ」と命じました。3章において、神はホセアに、「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」と命じました。そこでホセアは、「銀15シェケルと大麦1ホメルと1レテクを払って、その女を買い取った。」と記されています。ホセアは神の命令によって、神殿娼婦である妻を赦し愛せよと命じられました。神の愛の命令は、バアルを愛しなさいということではなく、バアルに取り込まれた妻を愛しなさいというご命令です。本日与えられた11章では、神はホセアに対して親が子を愛するように神がイスラエルを愛されていると神の愛を語っています。親が子を愛するように神はその誕生の瞬間より、イスラエルを深く愛されたのです。それにもかかわらず、イスラエルは、神からの愛を拒絶したのです。
 11章1から2節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。」「わたしが彼らを呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに彼らはわたしから去って行き、バアルに香をたいた。」
 申命記21章18以下申命記の法典によって、親がどうにも手に負えない子どもを法廷に連れてくることを要求されているように、神は愛されているが手に負えない子どもであるイスラエルを法廷に連れ出していると理解することができます。そして、次に神がいかに愛したのか、幼かった時から愛し、彼らの腕を支えて歩くことを教え、愛の絆で導き、身をかがめて食べさせたと語り続けます。しかし、イスラエルは神の愛を拒絶したというのです。今や、イスラエルはアッシリアによって支配される直前です。北イスラエル王国は滅亡する直前なのです。
 滅亡するイスラエルに対して神の愛が語られ、神がイスラエルを愛に呼び入れようとすればするほど、イスラエルはかたくなに偽りの信仰と空しい祭儀を慕い求めるのです。それでも依然として神はイスラエルを愛し続けるのです。
4節「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き彼らの顎から軛を取り去り身をかがめて食べさせた。」 「この顎から軛を取り去り」というのは、イスラエルが奴隷として、家畜の首に軛をかけられていることが語られているように読めるのですが、ある旧約 学者はこのように翻訳しました。
「わたしは、彼らに対しては、頬ずりするために赤子を抱き上げる者のようであり、わたしは彼に身をかがめて食物を与えた」神のわが子に対する愛がよく伝わってくる翻訳だと思います。
 しかし、5-6節、神の愛に対するイスラエルの頑なな拒否が大惨事をもたらすのです。この国は戦争に敗れ、神の民は故郷を追われ異国の地へ追いやられるのです。
 イスラエルが神に背を向けたことによる結果であるにもかかわらず、イスラエルの不幸は神の心に苦悩を引き起こしているのです。神はご自分の民を見捨てられないのです。8節のアドマとツェボイムは、創世記19章、申命記29章に登場する町で、神の怒りによって滅ぼされた罪の町々です。しかし、神はイスラエルに対して同じことをするのではなく、神は御自身の怒りを御自身の愛によって押さえているのです。神の愛の物語は、怒りと裁きで終わるのではなく、神の怒りと裁きの後、神の憐れみとして神の愛が残っていることを告げ知らせているのです。預言者ホセアは、神の御心に最後に残る神の愛を語るために遣わされたのです。イスラエルが滅亡しようとも最後まで神に愛された者として、神の愛が聖書を貫いていることを伝えているのです。
 神はイスラエルをかつて愛され、今も愛し、未来においても愛し続けられるのです。しかし、この不滅の愛は、選ばれた神の民イスラエルによって報われることはないのです。神の愛の歴史は悲劇の歴史です。深く愛したお方だけが、真実の愛の結果である悲劇を経験するのです。深く愛した者が拒絶された愛の悲痛を知っているのです。私たちはホセア書を通して、神は人類を愛し続けるという希望を受け取る一方で、本当に大切な事は、神の愛の物語は神の苦しみの物語であることを知らなければならないのです。
 私たちキリスト者は、「神は愛である」と語る時、神の苦しみがないかのように軽々と語っていないでしょうか。神が愛であると語るとき、神の悲劇、苦しみがあることを意識しないまま語っているのではないかと反省します。神が愛であるということは、神は繰り返し裏切られ背を向けられ、報われない苦しみを重ねているのです。
 「8 ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよお前を引 き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。9 わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。」
 聖書における契約の法は、法的に裏切り者を罰する必要を認めることがあります。しかし、神の心の内は「激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」とあるように、神の愛はこの世の法を破ってまでも法を越えて、神の民を見捨てることが出来ないのです。神は裁きを思いとどまるのです。それは神が私たちを愛することをやめることが出来ないからです。神は愛であるということは、神の本質であり、神が神であり続ける限り、神が愛を貫かれるのです。
 主イエス・キリストはルカによる福音書 15 章において「放蕩息子のたとえ」を話されました。ある父親が、次男から将来遺産として受け取る分を求められました。父親は財産を渡しました。次男はその財産をもって旅に出て、旅先で全財産を浪費し、使い果たしてしまいました。父親を見捨てて去った次男は命をつなぐために帰郷しました。父親は、毎日次男の帰りを待っていました。とうとう、哀れな姿で帰郷する息子を遠くに見つけ、駆け寄って抱きしめ、祝いの宴会をして喜んだのです。父親に背を向け、反逆した次男を父は見放しませんでした。財産を渡すとき、次男が去って行ったとき、毎日、帰郷を待つ父の心に神の愛の本質が隠されているのです。聖書の神の本質は愛することをやめることが出来ないのです。預言者ホセアは神の愛を身をもって現すことを求められ、どんなに裏切られても妻を受け入れ、背を向けられても子を抱きしめる、神の愛の命令を実行したのです。自ら愛することの葛藤の苦しみを通して、神の愛を受け取ることが出来ました。
 私たち神に愛されている者は、その神をどのように愛したら良いのでしょうか。