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銀座の鐘

変貌のキリスト

説教集

更新日:2023年03月18日

2023年3月19日(日)受難節第4主日 主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

マタイによる福音書17章1~9節

受難節の礼拝日に当たって、当然、読まれるべき聖書の箇所がいくつかあります。しかしその箇所がなかなか説教に取り上げにくくて、牧師として何十年も説教してきたのに、扱えずにきたという箇所もあるものです。今朝の箇所、主イエスの山上の変貌を告げる箇所は、わたしにはそういう箇所の一つでした。
この個所が受難節の箇所だということは冒頭の「六日の後」とあることによって明らかです。「六日の後、イエスはペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」とあります。「六日の後」というのは、この個所の直前の出来事から六日の後ということです。直前の出来事というのは、バプテスマのヨハネが獄中で殺された後、主イエスは弟子たちと共にフィリポ・カイサリアの地方、つまりガリラヤの湖のはるか北方の地、異邦人の地に身を寄せました。そしてそこで「人々は、人の子のことを何者だと言ってるか」、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになったというのです。そしてその日ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」との告白を言い表しました。すると主イエスは御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者た ちから多くの苦しみを受けて、殺され、三日目に復活することになっていると語り出すわけです。ペトロはできず、それを止めようとして叱責されます。そういう事件めいたことがありました。つまり、ペトロの信仰告白の日は、主イエスの最初の受難予告の日になりました。その後主イエスは何度も弟子たちに受難予告をなさいましたが、最初の受難予告のあった日、その日から数えて「六日の後」のことが、今朝の箇所に記されているわけです。今朝の箇所が受難節の重大な箇所になっていることは明らかです。
主はその日、三人の弟子を伴って高い山に上られました。2節を見ますと「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と言われます。主イエスの偉大な変貌の記述です。栄光のキリストと言ってもよく、苦しみをお受けになる主イエスが光輝く太陽のような威光の姿で現れたと言うのです。一体どういうことでしょうか。そもそも事実として根拠のかることなのか、そしてどういう事実を伝えているのでしょうか。この出来事の意味は何でしょうか。それらが今朝のテーマです。
「主イエスの変貌」とは一体何のことで、どういう事実や真実を語り、このことが私たちにどういう関わりを持ち、意味を持つのでしょうか。変貌の記事が受難予告と結びついているということは、主の変貌なしのただ普通の人間の受難ではないということでしょう。偉大な主イエスの威光ある姿によって、受難の意味はペトロが止めるようなことではなく、それとはガラっと変わって、神の重大な出来事であることが分かるのではないでしょうか。主の受難節に当たってこの「偉大な変貌のキリスト」に目と心を注意深く注がなければなりません。そうでなければ、主イエスの御受難を全く理解しないで、あのペトロのように「あなたはメシア、生ける神の子」と信仰告白をしながら、自分自身で告白した内容を理解していないで、「神のことを思わず、ただひとのことだけを考えて」「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言い出すのではないでしょうか。
主イエス・キリストに偉大な変貌が起きたことが重大な意味を持つことは、第一に、この記述が共観福音書のどれにも出てくることから推測できます。マルコ、マタイ、ルカによる福音書のどれでも受難予告とペトロの無理解の後に必ず変貌のキリストが記されます。第二に、栄光に輝く変貌のキリストの傍らには、どの福音書の証言によっても、モーセとエリアが登場し、イエスの受難のことを、ルカではイエスの最期について話し合ったとあります。そしてモーセとエリヤはやがて消え去り、主イエスだけが残ったと言われます。そしてイエスがどなたであるかが、雲の中からの声によって語られます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と。ですから「あなたはメシア、生ける神の子」は人間からの信仰告白ですが、それに対して神からの声が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの、これに聞け」と響きわたったと言うのです。
聖書が語っているこの意味は明らかでしょう。イエスはエリヤだという人がいたし、預言者の一人と言う人もいた。そして「あなたはメシア、生ける神の子です」と応えた弟子たちも自らの信仰告白の意味を知らず、「仮小屋を三つ建てましょう」と、訳の分からないことを言ったのです。「一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのため」と。主イエスをモーセとエリアに並べてどうする気ですか。弟子たちはそれによって主イエスを重んじた理解したでしょう。主イエスの位置はその程度のものと思ったのです。これが「弟子の無理解」と言われた問題でした。これは、弟子たちが本当の主イエスの威光を知らないことを意味し、従って主の苦難の意味も知らなかったことを意味しました。私たちも信仰の中で本当の主イエスの威光を知らず、その真実のお姿を知っていないのではないでしょうか。しかし本当の主イエスの威光を知らずしては、主が受けた苦難とその死の意味、そして救いは分からないでしょう。復活も理解できないことになります。変貌のキリストは、主イエス・キリストの真実の姿、謙遜と受難によって隠された主イエス・キリストの本当の威光、神の子であり、神の心に適うお方である主の真実を示しています。この方が苦しみを受け、死に、そして復活された。それはわたしたちの理解をはるかに越えて、この世界の全現実をつつむ大きな苦難、そして巨大な死、万人の死を取り込む巨大な死、そして偉大な復活、主を信じる者たちを生かす偉大な復活なのです。
説教がなされることの決して多くない、むしろ少ないこの個所が、実は、聖書中欠くことのできない重大箇所と言うべきではないでしょうか。エリヤは言うまでもなく預言者の代表で、イスラエルの誇りでした。「イスラエルの戦車」と言われました。彼は死んだのでなく、「嵐の中を天に上っていった」とも言われれます。モーセはシナイの山で神と語り、降りてきたときの顔は光を放っていたと言われます。それで人々に語るときモーセは 顔におおいをかけていたと言われるのです。しかしそのエリヤもモーセも主イエスと暫し共にいた後で姿を消します。あとにはただ主イエスのみが残り、「これに聞け」と雲の中からの声がいいます。キリスト教信仰はエリヤやモーセ、預言者や律法との関連を深く持っています。しかしキリスト教信仰はエリヤの宗教でもモーセの宗教でもありません。キリスト教礼拝は、神が「わたしの愛する子、心に適うもの」と言われ、「これに聞け」と言われた主イエス・キリストのみに聞きます。主イエスだけが神の御子であり、神の心に適うものです。
高い山は祈りの場です。そして神の啓示の場です。雲の中からの声は神御自身の啓示、神からの声でしょう。エリヤはカルメル山で神の火の奇跡を起こし、モーセはシナイ山で律法を与えました。しかし高い山で弟子たちにその御威光を示された主イエスは、エルサレムで苦難を受け、そして死に、そして復活されます。「神の愛する子」「心に適う者」、つまり御子なる神、苦難の僕として苦しみと死を受けます。エリヤやモーセの比ではありません。しかしイエス・キリストの威光と栄光を示す変貌の出来事は、「イエスのほかにはだれもいなかった」という経験で、それが私たちの祈りと礼拝の経験です。ただ主イエスだけ、主イエスだけが神の御子、御子なる神であり、神の心に適う苦難の僕です。
主イエスは弟子たちを伴って、高い山に登られ、祈りの場にして神の啓示の場に伴いました。弟子たちは主イエスと共になす祈りの中で、主イエスの実在の深みに主の威光に触れました。主イエスその人の実在の秘義がこの物語の中核をなしています。主イエスは唯一なる神の御子、神の心の具体です。この方の苦難は、神が苦難を負うことであり、苦難の中に主イエスの御威光を仰ぐことは、苦難の中に臨在する神を発見することです。苦難という救いのない状態に、神がおられるということは、救いのないところになお神がおられ、そこを神の救いの場とすることです。
わたしたちの礼拝も「これに聞け」との御声を聞きます。その声を聞いて弟子たちは「ひれ伏して、非常に恐れま」した。恐れと同時に主イエスの言葉を聞きます。「起きなさい。おそれることはない」。変貌のキリストはそのままに私たちの礼拝の中の主イエス・キリストであり、私たちの祈りの中での主イエス・キリストと言ってよいでしょう。

天の父なる神様、受難節の礼拝にあずかることができて感謝いたします。あなたの栄光を身に帯び、あなたの威光に満たされた主イエス・キリストを仰ぐことができました。その栄光のキリストが苦難と死に向かい、その上で復活して私たちと共にいてくださることを覚えて、感謝いたします。世にあるすべての罪と苦難が、御子なる神キリストの偉大なる苦難と死の中に受け止められていることも覚えます。どうか主イエスにひたすら聞く礼拝と祈りの生活に生かされることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン