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銀座の鐘

神の国を求める祈り

説教集

更新日:2023年04月30日

2023年4月30日(日)復活節第4主日 銀座教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書6章33~34節

 本日の主題は「主の祈り」の第二の祈り「御国を来たらせたまえ」です。御国とは聖書の御言葉では「神の国」、またはマタイによる福音書では「天の国」のことです。主イエス・キリストが弟子たちに、神の国、天の国が来ますように祈りなさいと教えた内容について、聖書からお聞きしたいと思います。
 マルコによる福音書1章15節にこのように記されています。主イエス・キリストが、ガリラヤにおいて神の福音を宣べ伝える時の言葉です。福音伝道の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。「神の国」とは神の王国、神の支配という意味です。「神の国は近づいた」とは、地上のどこかの国がきたということではなく、「神の支配」が近づいたと理解することが出来ます。神が力をもって御支配くださる、そのような時が来たのです。神の御支配とは具体的にどのように理解したら良いでしょうか。
 私たちの現実では神の支配ではなく、人間が支配しているように見えます。主イエスの時代でも、目に見える仕方では誰がどう見てもローマ帝国の圧倒的な力によって支配されていました。ローマ帝国の支配下で、神の国は近づいたと語る主イエスの言葉をどのように聞いたら良いのでしょうか。ローマ帝国の支配下にあって、神の支配という決定的な時の到来をどのように受け止めたら良いのでしょうか。
 現代を生きる私たちは、何に支配されているでしょうか。地上の富に支配されることがあります。自己中心に陥ってしまう時があります。私たちを支配しているものはたくさんあります。なければならないものが少なくありません。それらのものに支配されているのではないでしょうか。私たちを支配しているものを見極める物差しは、私たちが生きる上で何をよりどころとしているか、何に頼っているかを考えることではないでしょうか。神の国が近づいたということは、私たちがより所としている一切のものから自由になれるかどうか考えてみたいと思います。神の御支配に生きることは、この地上のものを決定的なものとしないことです。私たちがよりどころとしている一切のものに縛られず、それらのものから解放され自由になることが大切です。神以外のよりどころから少し離れて、神の御前に立ち、罪を悔い改めることが求められてきます。この世の力におびえたり、弱いものを支配しようとしたり、そうした罪を悔い改め、神に向かい、神の御前に立ち、自らの愚かさとみじめさを悔い改めることが神の国を仰ぐことです。神なき世界から真の神の御前に立ちます。神以外のものを神に仕立て、畏れていたことを悔い改め、神のみを神とするために悔い改めなければならないのです。神の国は近づいたことを受入れ、悔い改めて福音を信じるのです。悔い改めるとは、私たちの姿勢を神の方へ向けることです。神の御前に立ち祈る姿勢です。私たちは神のみを神と呼ぶ信仰を受け入れるのです。私たちが良いことをしたり、隣人愛に生きる決断をして実行するためには、第一に神の御前に立ち、祈ること、信仰を受け入れることが大切なのです。行いよりも信仰が大切であるということは、信仰を受け入れること、受け入れる力が求められているのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」神の国、神が神と して私たちを支配してくださることを感謝と信頼を持って受け入れ、生きることが命 じられているのです。
 マタイによる福音書5章には、伝道を開始した主イエスが語った山上の説教が記されています。ガリラヤで伝道を開始した時、山の上から弟子たちをはじめとして、集まる群衆に8つの幸いを語りました。その8つの幸いの第 1 と第 8 の幸いは「天の国はその人たちのものである」という幸いとして語られています。
 第 1 の幸いは「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」第 8 の幸いは「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」、ここに目を向けてみたいと思います。
「心の貧しい人」「義のために迫害される人々」は幸いである、天の国はその人た ちのものであると主イエスは語られました。「心の貧しい人」より「心の豊かな人」 「心の広い人」「心優しい人」が幸いだと語ってほしいと思うのが地上の営みを第一 とする私たちです。しかし、主イエスが語るのは「心の貧しい人」なのです。この御 言葉の核心を理解することが「神の国が近づいた」を心に覚えることだと思います。
 心の貧しい」というのは、高慢ではなく謙虚であることと、ひかえめですなおなことと理解してしまいがちです。「心の貧しい」と聞くと、よく分からないという印象とともに、謙遜であることではないかと推測して理解しがちです。謙虚、謙遜であることを突き詰めると、実は自己中心に陥っていくこともあるのです。ここに御言葉を勝手に解釈する落とし穴があると思います。謙遜であるということを自分らしさの美徳としたり、隣人にも謙遜であれと求めたりするのです。このような謙遜であることを自分の美徳とすることと、主イエスが語った「心の貧しい人々」とは違うといわなければなりません。謙遜に振る舞っていても、心の貧しさが何であるのか分からないからです。
 「心の貧しい人々」とは、謙遜とか心の豊かさという私たちを飾る美しさを何ひとつ持っていないことです。「心の貧しい人々」も「義のために迫害される人々」も、主イエスの御前で苦しんでいる人々です。自分自身の中には、真の幸いが見いだせない状態です。豊かに見せたくても本当は心から貧しい自分を認めなければならない、気付かなければならないのです。神の御前に立ち、自らの罪を認め、十字架の愛がなければ生きることができない者であることをしっかり認めなければならないのです。それが私たちのあるがままの姿です。私たちは誰にも説明したくない闇を持っています。そのような意味でも「義のまえに迫害される人々」であり「心の貧しい人々」なのです。そのような私たちに福音が告げられています。幸いが告げ知らされているのです。「天の国はその人たちのものである」と告げ知らされています。貧しさに生きている私たちを覚えてくださり、天の国へ招いてくださっているのです。ゆえに「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と主イエスが私たちに語ってくださっているのです。
 ルカによる福音書 14 章 15 節以下、主イエスは「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」とお語りになりました。主イエスがお語りになった「大宴会」のたとえ話しです。神が準備し開いた宴会に招かれていた人々が、土壇場で次々にキャンセルした話しです。一人一人、自己中心な理由で断りました。主人はどうしたでしょうか。主人は怒って、僕にいいます。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れてきなさい」そう言って、神の食卓に招かれるのに相応しいとまったくもって思っていなかった人々が主の食卓で食事をすることになりました。主イエスは「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と語られました。
 心の貧しい人々も義のまえに迫害される人々も、自分は神の御前に相応しくないと思っていることでしょう。逆に、私こそ神の食卓に着くのに相応しい者であると思い込んでいる人は、もう一度、御前に立ち、自らの心の貧しさ、神の御前での自分自身を神の眼差しを通して見直さなければならないのです。自分こそ、キリスト者として非の打ち所のない者であると自負している場合、再点検が求められるのです。
 主イエスが「御国が来ますように」と祈りなさいと教えてくださった理由は、裏切ることが分かっていた弟子たちを招き、最後の晩餐を共にしてくださった主イエスの苦しみと憐れみによって私たちを救ってくださるためなのです。あの弱さみじめさを思い知らされた弟子たちが使徒として立ち上がり、命をかけて復活の主イエスと生涯共に歩む決断をしました。生涯を主に仕える器に変えられたように、私たちも主の御前に相応しくない自分であることに気付きながら、主イエスの御前に何のふさわしさもないことを認めて立つのです。主イエスが私たちを憐れんでくださり、祈ってくださり、招いてくださる恵みの事実をを受け取ります。そのような一人一人を主イエスは招いてくださるのです。
 ルカ17章「20ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
 マタイ12章「28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」神の御支配は、私たちの間に私たちの所に来ているのです。神の御前に砕かれて、御国が来ますようにと祈りましょう。