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銀座の鐘

今日を生きるための祈り

説教集

更新日:2023年05月13日

2023年5月14日(日)復活節第6主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

マタイによる福音書 6章25節~33節

1,神の大いなる御摂理
 本日は主の祈りの「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」という祈りについて、マタイの 6章25節から33節の主イエスの山上の説教の御言葉を通して聞いていきたいと思います。主の祈りの、父よ、という呼びかけの後、願いがいくつあるかを数えてみますと、全部で六つあるということがわかります。そしてその前半の三つは、神様に関する事柄でした。そして後半の三つはわたしたち自身のことであります。本日取り上げるわれらの日用の糧をきょうも与えたまえ、という祈りを学ぶにあたって、山上の説教のこの箇所が示されているのは意味深いことであると思います。なぜならまさにこの主イエスの空の鳥、野の花についての説教は、この祈り願いと響き合っているように思うからです。この山上の説教で主イエスは私たちに語りかける。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」そのように述べたあと、主イエスは空の鳥について。野の花について語ってくださいます。確かに空の鳥は、種も蒔きません。刈り入れも、倉に納めることもしません。しないというよりも、できないのです。空の鳥たちは、大自然の中で、その恵みを受けて日々を過ごします。神様は鳥たちを愛し、必要な糧を与えてくださっております。野の花はもっと小さな命です。植物ですから自分で動くこともありません。「明日は炉に投げ込まれる」とありますように、簡単に摘まれてなくなる命であるかもしれません。しかしそのような野の花も、神様が命を与えているからこそ道端に生えて、花を咲かせ、そこから種をとばし、命が受け継がれていくのです。そこにも神様の恵みがあります。大自然のもっとも小さなところにまで神様の御摂理が働いているのです。空の鳥にせよ、野の花にせよ、彼らは神に与えられた命を一生懸命に生きております。神が鳥も野の花も養っているのです。そこに十全的な神の御業が働いているのです。空の鳥、野の花の共通点は、全てを神様に任せてその命を精一杯生きていることです。種がどこに行くかもわかりません。明日には炉に投げ込まれるかもしれません。しかしそれでも神様に与えられた命を精一杯生きるのです。でも人間はどうでしょうか。衣食住のことだけでなく、明日のこと。十年後のこと、死ぬ間際のことにまで悩みは尽きません。どうしようかと考えて憂い、悩みます。そのようなわたしたちに主は言われます。「あなた方は鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」この御言葉はわたしたちに二つのことを伝えます。一つは神がわたしたち人間を鳥よりも価値あるものとして、すべての被造物の中で最も大切なものとして、最も深い配慮と摂理の中に生かしてくださっているということ。もう一つは、神がわたしたちの命の時を定めてくださっているということです。私たちは自分の命を、自分の努力によって延ばせないのです。健康のためにわたしたちはさまざまな努力をします。それで健康寿命が延びることもあるでしょう。しかしそれは神がわたしたちにそのような志を与えてくださらなければ健康に気を遣うこともありません。どんなに健康に見えても、明日死なないという保証はないのです。神様なしに、わたしたちの心臓の鼓動は一時たりとも動き続けることはありません。全ては神の恵みによる命であり、人生なのです。しかしそうであるならば、たとえ病気になっても、あるいは体が慢性的に弱くとも、主が支えてくださる限りわたしたちは生き続けるのです。神に与えられた人生の使命を果たすまでは決して死なないのです。

・神の国と神の義を求めなさい。そうすれば
 そして主イエスはここで慰め深い御言葉を語ってくださいます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」衣食住の全てを、わたしたちがどうしても必要であることを主はご存じであり、必要に応じてちゃんと与えてくださるということをわたしたちは信頼しきってよいのです。このことを信頼しきれないために、私たちは日々、心配ごとのあれこれを、いつも思いめぐらしてはため息をつくのではないでしょうか。 しかしわたしたちの命を司るのは主なる神であり、神はわたしたちの人生の主人なのです。そして最も大切なもの。罪の赦しによる、魂の救いを、主は、十字架において私たちに与えてくださっているのです。だからこそ「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と主はおっしゃる。本日与えられた主の祈りの言葉。「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」という 願いも、神の国と神の義を求める中で、主なる神にしっかりとつながっている中で、初めて信 頼して祈ることができるのです。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。日毎の糧も、加えて与えられるのです。

・わたしたちの必要をご存じである神
 そこでまたこのことを信頼しなければなりません。わたしたちが心から願うことを主はご存じであり、そしてそれ以上のものを主は与えることが可能であるし、与えようとしてくださっているということを。神の御摂理は、わたしたちに最高の道を与えようという愛から来るものだからです。わたしたちはその御摂理の中にいるのです。わたしたちはさまざまな願いを持ちますが、それはわたしたちにとってあまりよくないものであることもあります。時にわたしたちは無駄遣いをして後悔したり、良かれと思ってしたことが、自分のためにも人のためにもならなかったということがあります。わたしたちの人生の主人はいつも、私たちにとって最も良い道をご存じであり、そのときに必要なものをご存じである。そうであるなら、主なる神を信頼してゆだねることによって、一番良い道を歩むことができるのです。そのことを信頼できずに実にしばしばわたしたちは、寄り道をしながらたどたどしい歩みをし、ときに道を見失ったり、迷ったりしながら、主イエスに見つけられて、主の道を歩む羊なのです。

・今日を生きるために
 そのような神の深いご配慮。愛の眼差しを知らされていくならば、今日、わたしに必要を与えてくださっている主は明日も必要を与えてくださり、その最後まで必ず共にいて、確かな道を歩ませてくださるに違いないと信頼できるようにされていくでしょう。主は、わたしたちの人生に日々伴ってくださる。そのことを信頼するだけで十分なのです。主は鳥観図のように、人生の道のりの全体をわたしたちに知らせることはありません。そんなことをするなら、わたしたちは自分の人生をあとは自分でやろうとするでしょうし、日々、信頼して一歩一歩歩むことができなくなります。厳しい試練が待っていることを知るならば、その道をあえて回避しようとするかもしれません。それは神を信頼することにならないのです。主が私たちに求められるのは私たちが神を信頼することです。だから、私たちは今日という日に集中し、今日見える景 色だけを楽しむことを許されているのです。一歩一歩歩むたびに景色は変わります。その時、その時の出来事に、主は共にいて助けてくださるのです。だから主イエスはわたしたちに日毎の糧を求めなさいと語られるのです。毎日毎日、わたしたちは主の御前に出て、今日の必要を祈り願うことが求められるのです。

・私の祈り わたしたちの祈り
 最後に、この祈りが、わたしの祈りではなく、わたしたちの祈りであるということに注目したいと思います。わたしたちは実にしばしば、私の悩み、私の必要、私の願いを一所懸命に祈りがちであります。もちろん、わたしだけの悩み。誰にも言えず、誰にもわかってもらえず、ただ神だけに告白できるようなことが人生にはあります。まさにそういうところにおいて神が私と伴ってくださるのです。だからわたしたちは密室で、奥まったところで祈ることも大切です。しかし祈るとき、それは私だけにとどまりません。私を愛し、助け導いてくださる神は、わたしの家族。私の友人。わたしの世界を共に生きる人々。教会の人々。教会の外にいる人々。困窮している世界。罪に満ちた世界も含めて、わたしたちの救いを願い求めていくようにされていきます。この祈りは、教会の祈りであり、全世界のための祈りであります。わたしたち教会が世界に先立って主の祈りを祈るとき、わたしたちから、神のご支配がはじまっているのです。

お祈り
 天の神様。あなたが私たちを心から愛し、すべての必要を与えてくださることを信頼しきって歩むことができますように。わたしの願いを越えて、本当に必要なものをお与えください。あなたが私たちに願っていることを悟り、その御心に生きる者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン