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銀座の鐘

全世界を救う力

説教集

更新日:2023年09月10日

2023年9月10日(日)聖霊降臨後第15主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

ローマの信徒の手紙1章16~17節

 本日私たちに与えられました御言葉は、ローマの信徒への手紙の1章16節から17節であります。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 正しい者とは、信仰によって生きる人である。そのように語るのです。人間の最大の問題として、信仰こそがもっとも大切な事柄であると語るのです。なぜなら、神を信じて生きる。そこにこそ人間の生まれてきた意味。死を突き抜けて与えられる永遠の命の大きな、無限に広がる素晴らしい世界の扉が開かれていくからであります。
 この世界には、信仰のあるなしにかかわらず、平和を求め、そのために命を賭して戦う人たちがおります。彼らは神を信じてはいなくとも、人間の命の尊さを知っているのです。人間を信じているのです。そしてその正義を信じ、平和の大切さを知っているのです。しかし、どんなに平和のために戦っても、この世界のどこかで、理不尽な殺され方をして、そのままの人がいる。逆に、極悪非道なことをして、裁かれない人間がかならずいつの時代にもいる。正義を求めても、その正義が悪によって踏みにじられることがある。そこでなおなぜ人間だけを信じられるのだろうか。そういう状況の中での本当の頼みの綱。それこそが神ではないだろうか。神がおられると信じるからこそ、この世界の全ての理不尽を。虐げられて死んでいった人々の魂が安らぐことのできる世界を、求めていかなければならないのではないだろうか。そういう意味で、実は人間は、気付いていなくとも皆、正義がなることを。もっとも究極的な意味で、神がこの残酷な世界において、その正義を成し遂げてくださることを、切に切にその心の奥において誰もが求めているのではないだろうか、と思います。聖書が語っている、神の義、とはまさにそのような神の正義。神が神らしく、この世界に本当の平和をもたらしてくださり、苦しむ人々を救い取ってくださるということです。しかしそこでわたしたちは、このことにも 気づかされます。私という一人の人間がまず救われなければならないということ。それはわたしという人間において、そのうちにある矛盾が打ち砕かれなければならないということです。わたしたちは完全ではありません。多くの失敗をしてきました。多くの人を傷つけてきました。また、だれかに、傷つけられた。その傷がいえずに、引きずりながら生きていることもあります。わたしたちが持っている価値観や考えがときに間違っていることに気付かされることがあります。自分には偏見などない。差別などしない。そう思っていたけれども、あらゆる人々とのかかわりの中で、自分には偏見で人を見ることも、他人を差別していたことも。また関係のない人がどれほど苦しんでいても、無関心でいることもできることに気付かされることがあります。そういうところで、自分が罪人であるということに気付かされることがあります。 あるいは、罪、という言葉にはなお違和感があったとしても、自分のこうありたいと願う心と、そうでない自分の内に葛藤を抱えて生きていることが誰にもあるのではないでしょうか。そのような、理想と現実に、どう折り合いをつけて生きればよいのでしょうか。開き直ることでしょうか。それともあきらめることでしょうか。それとも、日々、学び、反省していく中で、よりよい自分になれると信じているでしょうか。いつか、自分の内にある葛藤や矛盾は消えるでしょうか。おそらく、わたしたちは100歳になっても、そういう葛藤や矛盾。苦しみや悲しみと全く無縁で生きることなどは不可能であるといえます。そして、そのような現実の内にも、わたしたちが救われるべき者であり、救いを求めている者であることがわかってくるのではないでしょうか。ここに、全ての人間が実はその心の内に願っている、本当の救いがあるのです。ここにちゃんと開かれているのです。そして、それは、全世界の全ての理不尽に対する正義が貫かれるという、大規模な救いだけで はなく、今、ここに生きて、自分のその人生の中で悩んでいるそのあなたの悩み、苦しみからの救いとして実現していくのです。そしてそれはまさに「福音には神の義が啓示されています」という、この神の義。全世界 を救う、神の義。神の大きな正義が、わたしたちに示されているということです。福音。聖書は良き知らせという意味で、聖書の語っております使信の全体をこう呼びます。この良き知らせという意味をもつ福音。それはイエス・キリストの十字架と復活です。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」聖書全体を要約する言葉。ヨハネの3章16節の御言葉です。この聖書の福音についてくわしく伝えようとするなら、何時間もかかってしまいます。ただ今日は、この神の義という言葉にだけ少し集中したいのです。聖書は断固として語ります。人間とはみな、誰もが罪を持っている。それこそが人間の生きる世界の悲惨であり、わたしたち自身の重荷、苦しみ、死の原因であると。だから、わたしたちが世界を変えようとしても、自分自身の中の問題を変えようとしても、変えることができない。わたしたちは自分を救うことも、世界を救うこともできない。しかし神こそがこの世界を救いとってくださる。わたしたち一人一人を救い取ってくださる。私たちのために主イエスが死んで、よみがえってくださった。そのことを信じる者はすべて、罪を赦されて死から命へと移るからです。永遠の命を与えられるからです。神の義とは、このように罪人を憐み、救おうとする神の愛とひとつなのです。だからこそ神の義という言葉は、慰めであり、力なのです。戦争や、災害や、いろんな悲しいことがこの世界にはあるけれども、この世界を支配してくださる神様はとても良い神様なのだ。正しく愛に満ちた神様の御手にこの世界はあるのだ。そう信頼することができるのです。イエス・キリストという方が、この神の義を指し示してくださったからです。
 この手紙の中で、使徒パウロはまず自分がその復活されたキリストと出会い、生まれ変わった者として、その恵みにあずかったものとして、喜んでこの手紙を書くのです。そしてここで記された主題を、ここから順序だてて、私たちに語っていくのです。ある人が、この神の義こそが本当に力のあるものであることをこのように語っております。世界会議があったとして、絶対的な優位に立つ国の主権者の代表である外交官が、地上に、一挙にして平和を保証するような案を持ってきたとしたら、どうだろうか。あるいは、この会議に、すばらしい研究者が、あらゆる武器を一切破壊できるような力を持つものを発明して、紹介したらどうだろうか。あるいは、医学者が、結核やがんはおろか、あらゆる病気を一気に直してしまう血清を報告したらどうだろうか。あるいは、誰かある教育家が、人間の愚かさの原因を見つけ、しかも、その薬を提供し、会議の出席者がまずそれを自分に試してみるということになったらどうだろうか。こういうたとえを語ってみて、それは夢物語だと誰もが思うでしょうが、もしそういうオールマイティーな、全ての人々を救うような力をもつものが存在するなら、それこそが最も巨大な力だと言います。なぜなら、そのような力があるなら世界が変わるからです。 このたとえを通してこの人が言いたいことは、神だけがそのような世界を変える力。人間を救う力をお持ちだということです。しかしその力はまずもって、信仰を通して実現されるとパウロは申します。一人の人が、キリストを信じて、洗礼を受けるということ。そのとき、神の力が必ず働いているというのです。ここで語られている、力という言葉のギリシャ語の原文はデュナミスといいます。これはダイナマイトというあの爆薬の語源となった言葉です。ダイナマイトは戦争で多くの人を殺した殺戮兵器となりましたが、神のダイナマイトは、私たちの魂を救う力なのです。神が福音をもって私たちに迫って来られるとき、どんな言い逃れも、どんな理屈も打ち砕かれ、罪を示されていきます。わたしたちの心は大きな壁によってふさがれ、自分の罪を認めない頑固さで満ちています。しかし主はその頑固な壁を打ち砕くのです。第二次大戦中のヒットラー政権のもとアウシュビッツで、何万人ものユダヤ人をガス室に送り込んだ人の中にアイヒマンという人がいたそうです。彼は最期まで自分の罪を認めなかった。自分は役人として上からの命令に従っただけだというのです。自分がたくさんの命を奪ったことを認めると人格が崩壊する。なくなってしまう。自分は正義だと信じなければ立っていけない。そういう恐怖があったのだと思います。アイヒマンを見て強情で独善的な人だと誰もが思うでしょう。しかしこと自分のことになると、実は私たちの内にも、そういう冷酷さと強情さの砦があるのではないだろうか、と思います。主イエスはそのようなわたしたちの心にダイナマイトを置かれるのです。わたしたちの心の壁を壊してくださるのです。それはわたしたちを罪から救うためです。神は私たちを救うために、わたしたちの心の壁を打ち壊します。あなたの罪が、あの神の御子を殺したのだ。あなたのその罪のために、主イエスが苦しみぬかれたのだ。あの御血潮はあなたのために流されたのだ!
 この迫りの中で、どうしたって、神様の御前に、わたしの罪が示され、わたしは罪人ですとこうべをたれずにおれなくなるのです。パウロはそのように、壁を壊された人の一人でした。だからこそパウロは、「わたしは福音を恥じない」とはっきりと言えたのです。ユダヤ人にとっても、ギリシャ人にとっても、十字架の福音は ナンセンスでばかばかしいお話にすぎませんでした。ユダヤ人には、神の律法こそが大いなる知恵と力として 与えられていましたし、ギリシャ人には優れた哲学的教えが、彼らをして、誰よりも賢き者だという自負心を与えていました。そういう人々がマジョリティであった時代に、十字架の福音をわたしは誇る、などとなかなか言えないのです。しかし、パウロは世間の中で、黙ってはおりません。キリストの十字架と復活の福音は、多くの宗教的教えの中のひとつ、ではないからです。全てのユダヤ人にとっても、ギリシャ人にとっても信じる者すべてに救いをもたらすものだからです。言い換えれば、この福音が必要でない人間などどこにも存在しないからです。パウロはこの十字架の偉大さをよくわかっていました。十字架による救いは、この宇宙全体を救う、それほどに巨大な世界の救いであることを知らされていました。そのような大きな十字架を、パウロは伝えるのです。わたしたちも、このパウロと同じところに立つことが許されているのです。世界の持つ罪は相変わらず恐ろしく大きいかもしれません。しかし今、この私のところに、主イエス・キリストが救い主として来てくださっている。私の内において起こっている救いの出来事は本当で、決して否定できない。キリストにあってわたしが生かされているのです。そのわたしの内に来てくださった神。イエス・キリストはこの世界よりもはるかに大いなる方であるという事実。この偉大さを本当に悟っていくとき、わたしたちも、福音を恥じることなく、本当に誇る者とされていくのです。わたしたちの内に、もっと深く、もっと大きく、主イエスの 十字架が迫ってくることを、心から願っていきたいのです。お祈りをいたします。

 天の父なる御神様。日々、あなたの十字架の福音を新しい心で聞く者とならせてください。パウロの信仰を、私たちの信仰とさせてください。この世界を変えてくださる神の力が、わたしたちに信仰を通して今与えられていることを厳かに、喜びと感謝をもって受け止めさせてください。この御堂に集う方々をあなたがとらえ、あなたの義と、力によって救い取ってください。恵みと祝福の下に置いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン