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銀座の鐘

神に喜ばれる生活

説教集

更新日:2023年09月24日

2023年9月24日(日)聖霊降臨後第17主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

2023年9月24日(日)聖霊降臨後第17主日 銀座教会 家庭礼拝

 本日与えられた聖書の御言葉は、ローマの信徒への手紙12章です。ここには、洗礼を受けてキリストの救いに与った者の生き方が語られています。
 世の中の人々から私たちキリスト者はどのような人と思われているでしょうか。キリスト者ではない家族や親戚から、皆さんはどのように見られているでしょうか。
 一般的には、洗礼を受けたキリスト者のイメージは、温厚で、いつも笑顔を絶やさず、 誰にでも親切で、全てのことに熱心で、間違っても悪口や暴言を吐く事や意地悪などしない人というイメージで見られているのではないかと思います。そして、そのような人々の集まる教会は、困った時にはいつでも、助けてくれると思われていたり、困った人を助けないのは、偽のキリスト者だと思われたりします。
 教会に行って、教会生活を続けると、教会にはいろいろな人がいる事に気付くのではないでしょうか。洗礼を受けたキリスト者の方々と出会い、理想的なキリスト者はどこにいるのだろうかと思う事があるのではないでしょうか。マザーテレサのような人とは教会でお目にかかれないということが分かってくるのではないでしょうか。
 聖書は、洗礼を受けたキリスト者はどういう人であると書かれているのでしょうか。 本日の御言葉は「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と記されています。「こういうわけで」とは、ローマの信徒への手紙の11章までに語ってきた事を指しています。これまでに語ってきた事とは、使徒パウロが滅びるしかない神に逆らう罪人のために、神が御子イエス・キリストを遣わして、十字架と復活によって、罪を赦し、新しい命を与えてくださったこと。罪人は神の前で神のテストに合格したから救われたのではなく、主イエスを私の救い主と信じる信仰によって救われ、洗礼によってキリストと一つにされ、聖霊の働きによって神の愛する子とされたことが語られてきました。ローマの信徒への手紙の1章から11章までで、私たちの力や努力ではなく神の恵みによって救われたことが語られてきたのです。その上で「こういうわけで、兄弟たち」と続いているのです。「兄弟たち」とは、洗礼を受けて主イエス・キリストと結びあわされて、神の家族の一員になった皆さんという意味が込められています。これは、この手紙の著者パウロが、ローマの人々と信仰の家族であるというだけでなく、時と空間を越えてこの聖書 を読む私たちも主イエスを救い主と信じる信仰によって家族である事を伝えているのです。私たちが兄弟であるという事は、誰かに親切にされたから家族なのではなく、キリストに結ばれているということによって家族なのです。お互いに知らない者であってもキリストに結ばれていることで家族なのです。これから洗礼を受けようとしている人も、これ からキリストに結ばれて神の家族に加わるのです。趣味が同じだからとか親切だからでは なく、主イエス・キリストを通して、信仰によって家族とされているという事なのです。 神の家族としての教会は、信仰によって結ばれていることが土台です。信仰以外の思想や 特別な政治思想や考え方で一致しているからではありません。信仰以外の事では一つになれなくても信仰による一致があればキリストによる家族なのです。信仰以外の事でどれだけ共感していても、信仰による一致がなければ家族とはいえないのです。
 「神の憐れみによって」と続いている言葉が大切です。私たちが一致したのは、人間同士の話し合いの結果だとか、どこかで折り合いを付けて一致したという話しではないのです。そうではなく、「神の憐れみによって」私たちは兄弟となるのです。誰か人に認められて兄弟になるのでもありません。誰か隣人に赦されたから兄弟なのでもありません。そうではなく、神の愛、神の赦し、神の恵みによって、すなわち、神の憐れみによって、私たちは洗礼を受けて神の家族にされて救われたのです。これは神の憐れみによるのです。 使徒パウロは元々神の民であったユダヤ人が主イエス・キリストの救いを拒んで、救いからもれてしまっている現実に直面しました。同時にユダヤ人を差し置いてユダヤ人以外の 人々、すなわち異邦人たちが主イエス・キリストの救いを信じて救われ、教会に加えられているのが現実でした。ユダヤ人が救われて異邦人が救われていないはずが、その逆になっている現実のなかで、パウロは悩み苦しみ問い続けました。
 その結果、パウロに与えられた答えは、今異邦人が救われているのは、ただ神の憐れみによってであって、救われるに価する資格があるからではないということでした。そして、ユダヤ人も神の選民であるから自動的に救われるのではなく、ユダヤ人もただ神の憐れみによらなければ救われないということを示されたのでした。神の憐れみによる救いによってのみ、異邦人もユダヤ人も救われると語っています。神の憐れみなくして神の救いはないのです。
 洗礼を受けたキリスト者の土台は、私たちの行い、資質、知識、教養ではなく、神の憐れみによるのです。神の憐れみによって支えられた生活がキリスト者の生活です。神の憐れみを感謝して神の御前に生きるのがキリスト者の生活なのです。
 「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」というのは、単なる「お勧め」ではありません。「勧めます」は、ギリシャ語の「パラクレーシス」の翻訳です。この語は、もちろん「勧めます」と訳すことができるのですが、他の翻訳の可能性が大きい言葉です。
 パウロが「パラクレーシス」を用いる時、人間の危機的状況の中で与えられる神からの豊かな支援を示していると理解できます。「警告、勧め、慰め、励まし」と広く訳されています。神の憐れみがなければ、滅んでしまう危機的な私たちに、神の憐れみによって救いの恵みが与えられました。罪にまみれて自力では罪の世界から抜け出ることができなかった私たちへ、神の警告、慰め、励ましが与えられようとしています。罪にまみれた、救われなくても仕方ない私たちに神は目を向け、手を差し伸べ、救い出してくださるのです。 豊かな支援が伝えられてるのです。その喜びの知らせを聞きましょうというのが、このパラクレーシス(勧め)です。私たちにとっての奇跡的な救いの物語が神の憐れみによって、明らかにされていくのです。
 滅びるしかない私たちを神の御手の中に置いて、神の赦しによって、神に献げるにふさわしい「聖なるいけにえ」にして下さると書かれています。神が私たちを喜んで受け取って、「聖なるいけにえ」に変えてくださると約束されているのです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 私たちは、ありのままでは「聖なるいけにえ」ではないはずです。しかし、にもかかわらず、神の憐れみによって「聖なるいけにえ」に変えてくださったのは主イエスの十字架です。神の憐れみによって私たちは、神に喜ばれる者にされるのです。この私を喜んで受け取って下さるのです。神にささげるものは、最高のものでなければなりません。
 罪にまみれた私たちが最高のものでしょうか。決してそんなことないのです。しかし、にもかかわらず、私たちを神の御前にふさわしい者として整えて下さり、礼拝を捧げる者にして下さるのです。滅びるばかりの私たちが神の御前に出る者にされるのです。感謝するしかない大きな恵みの出来事がここに語られているのです。
 「献げなさい」とは、私たちのすべてを神に自由に用いていただくことです。神の御心によって、生かされるということです。私たちが罪の思いに支配されて生きるのではなく、神の憐れみと愛によって生かされることこそ最高の幸せ、最高の道なのです。
 この身を神に献げることを「献身」といいます。献身して生きるということは、神学校に行き牧師になるという道だけでなく、信徒として生きることも献身の生活です。
 献身者は、自分のわがままや人の言葉に振り回されて生きるのではなく、神の憐れみと恵みによって生きる生活です。献身の生活は、いつでもどこでも神に祈りつつ、御言葉によって励まされ、神に赦され愛されていることを感謝して生きる生活です。神への感謝と 喜びに満たされて、自分自身を献げて生きるのです。礼拝に出席して生きるのが献身者です。献身して生きるということは、具体的には礼拝に出席して、神の御前に悔い改め、洗礼を受け、聖餐にあずかり、罪の赦しをいつも感謝して生かされる道を歩くことです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
 私たちは再び、罪の奴隷にならないように、「この世に倣ってはなりません」と愛の命令を聞きながら生活します。そして、献身者の生き方の基準は「神に喜ばれ」るかどうかです。
 私たちの日常生活で、進路で悩むことがあります。その時は、まず第一に熱心に祈ることです。そして、冷静に祈り続け、神に喜ばれる道を選ぶのです。「完全なこと」とは神のご支配が完全であることを信頼して従うことです。罪の支配ではなく神の御支配の道を神の喜びを求めて歩むのです。
 信仰生活は、素晴らしい生活です。感謝の生活です。神に赦され、愛され、神の声を聞き続ける道です。皆さんとご一緒に神の憐れみによって神と共に、本当の喜びを分かち合 う道を歩みたいと願います。