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銀座の鐘

試練と逃れる道

説教集

更新日:2023年10月03日

2023年10月1日(日)聖霊降臨後第18主日世界聖餐日・世界宣教の日 銀座教会 家庭礼拝   牧師 髙橋 潤

 コリントの信徒への手紙一10章13節

 コリントの信徒への手紙10章13節は、大変有名な聖書の御言葉の一つです。コロナ禍緊急事態宣言が発令され、教会に来ることが困難になりました。しかし、この時だからこそ、生ける神の働きから目をそらさないように、神の御前で、祈り続けるように願い、この御言葉を印刷して教会の入口に張り出しました。耐えられない試練はないという御言葉によって、生ける神と共にこの試練に耐えて乗り越えることが祈りの課題でした。
 この試練とはどのような試練でしょうか。使徒パウロが語る試練と逃れの道を理解するためには、10章1節から12節までに書かれていることを振り返りたいと思います。
 10章1節は「次のことはぜひ知っておいてほしい」という言葉ではじまります。手紙の著者使徒パウロは旧約聖書の時代とコリントの教会を結び合わせて神の働きを語ります。パウロは、過去と現在とそして未来において、どの時代でも変わることなく働かれる三位一体の神のお働きを大胆に結び合わせて語っています。
 この試練を理解するために手がかりとなると思われる御言葉に目を向けておきたいと思います。それは、ローマの信徒への手紙10章4節「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」です。律法の目標はキリストであるという言葉です。旧約聖書によって語られている律法は、ユダヤ人が最も重んじていました。しかし、律法を守ることばかりに気を取られて、律法の目標を見失いがちでした。律法の目標は何であるのか信仰生活の目標は何であるのか確認する言葉です。律法がその目的を達成するのは、律法の目標であるキリストによって完成されることなのだということです。このことを忘れてしまうと、生きている意味も見失ってしまう危険に陥ります。
 コリントの教会は、救い主を信じて礼拝しながら混乱していました。この深刻な問題の根底には、生きる目標が分からなくなってしまったからだとパウロは考えていたと思います。なぜ律法を遵守しなければならないのか、その目的も目標もその理解もバラバラになっていたのでしょう。これは言い換えれば、神の一貫性が見えないのです。律法が指し示している救い主が見えなくなっているということです。律法を重んじるためにも律法の目標に目を注ぐのです。律法はキリストによってその目的を完成するのです。この視点を明確にもっていないと旧約聖書から新約聖書への救いの道が分からなくなってしまうのです。しかし、この点を明確にするならば聖書の救いの物語を深く理解することができます。この視点を確認して、パウロが語る神の救いの物語を読んでいきたいと思います。
 
 律法が目指しているのは、律法をただ単に守れば自動的に救われるという事ではないのです。律法を守れば自然に立派な人間になるということではなく、救い主キリストによる神の救いに与ることこそ、神の働きであり、私たちを罪から解放し救い出すことが神の働きです。にもかかわらず、神の働きから目をそらしあるいは目もくれず、無視し、滅びてしまう者が少なくなかったのです。神の救いに与るために洗礼と聖餐が用意されて招かれていても、神の招きを軽んじてしまう者が旧約聖書に描かれているのです。
 私たちも洗礼を受けて、聖餐に与り、教会生活を過ごしている間に、洗礼と聖餐によって罪赦されたことの感謝を忘れ、罪赦されて神の国への道を進んでいることが分からなくなってしまうことがあると思います。このまま自動的に神の国へ到着すると思っていないでしょうか。いつの日か、マンネリ化した信仰生活の中で、このままで良いのだろうかと、信仰生活の意味、目標を見失ってしまうことがあるのではないでしょうか。聖書を読んで祈る喜びがだんだん薄れてしまうことがあるのではないでしょうか。洗礼を受けたあのころの喜びを思い出せなくなったり、神の国への道を歩むことの目標を、はっきりと自覚していなければ信仰生活の落とし穴に落ちでしまうのです。
 そのためにパウロは、旧約聖書の出エジプト記に登場する信仰の英雄モーセに目を向けさせます。10章1節以下、「海を通り抜け」「海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」、「同じ霊的な食物を食べ」とか、「霊的な岩から霊的な飲み物を飲んだ」という言葉は、モーセが奴隷であったイスラエルの神の民を助け出し、荒れ野の旅を導き、救いの道へ歩む出エジプト記の物語に出て来るいくつものシーンを思い起こさせる言葉です。あの時代、神による導きがこのように与えられたではないか、と語ります。これらの言葉は、出エジプト記の物語によって育てられたユダヤ人にとってはかけがえのない神の救いの物語です。そして、私たちにとっても出エジプト記で働かれた救い主が昨日も今日も明日も私たちを救うためにお働きになっていることを思い起こさせる言葉として聞かなければならないのです。現在の信仰生活と旧約聖書を結びつけて、同じ神の救いの業を遙か昔も今も同じ神が働かれていることに気付かされるのです。
 救いの御業だけでなく、神のさばきの御業もあった事を思い出させます。神の御心に適わずに荒れ野で滅ぼされた出来事です。パウロは滅びの事実を「悪をむさぼった」「偶像を礼拝した」「みだらなことをした」という言葉で語ります。これらの滅びの出来事は、やはり旧約聖書に登場する救いの物語と同時に大切な神の裁きの物語です。生きて働かれる神から目をそらし、神がお与えになった試練の意味を受け取れず、神から離れて、悪をむさぼってしまうのです。別の神々に走るのです。古代オリエントの農耕信仰の淫らな儀式によって快楽と救いを求めて、偶像を礼拝しました。
 パウロは、出エジプトの救いの物語と滅びの物語を通して、「キリストを試みないようにしよう」と語っています。キリストを試みるとは、どういうことでしょうか。それは偶像礼拝です。別の神々に救いを求めることです。旧約聖書民数記21章には神がお与えくださった天からのマナに民が不平を言った時のことが記されています。「試みる」というのは、神が日々の恵みを与えているのに、その恵みを疑い、不平不満をいうことです。マナを与えられても不平を言ったことが「キリストを試みた」と言われているのは、今も昔と同じように神の働きを疑い、神は無力であり私を満足させないと不平不満を爆発させ、神の恵みがないかのように振る舞うことです。神の恵みを疑い、もっと良いものを与えてくれないと信じないという態度です。もっと幸せにしてくれなければ、別の神さまに乗り換えるという姿勢が、「キリストを試みる」ことです。律法の目標である神を見失ってしまっているのです。
 出エジプトの民は、当初は神を信じていたけれども、このような悪をむさぼったために滅ぼされてしまいました。それは現在の私たちへの警告だと語るのが11節です。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」。時の終わりとは、この世の終わり、神が全ての者を裁く終末です。私たちはその終わりに直面しているのです。それは、主イエス・キリストが十字架にお架かりになり、復活したことによって終わりに直面しているのです。この世の終わりが始まり、神の裁きの時が来ているのです。それゆえに私たちはこの警告を真剣に聞かなければなりません。悪をむさぼって、せっかくの救いの恵みから落ちてしまうことがないように信仰生活を続けなければならないのです。12節には「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と記されています。今は立っていても、すぐに倒れてしまうかもしれない、自分は何をしても自動的に救われると考えて油断しているならば倒れてしまうかもしれないのだということです。だから、倒れないように神の御前に立ち続けなさいと警告しているのです。その上で、13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」 とパウロは語ったのです。神は無力になったり働かなくなったりしたことはないのです。私たちが勝手に神を神とすることをやめて、上から目線で神を評価して、神を神としない姿勢を取ってしまうのです。神がお与えになった信仰の試練は耐えられるのです。耐えられない試練はないのです。この信仰のための試練は、私たちが神の導きの中で受ける試練です。神に従う途上、信仰生活の試練です。この試練は、神が私たちを試み、鍛えるための試練でもあるのです。神の御救いの途上での試練です。救われるための試練です。
 耐えられない試練はないということはどういうことでしょうか。神がお与えになる信仰生活の途上での試練は、その試練のただ中にキリストがおられるということです。キリスト不在の試練はないのです。試練の中で私たちはキリスト救い主が見えなくなるかもしれません。神は今何をしているのだろうか。神のお働きが分からなくなるのです。
 しかし、主イエスの弟子たちが十字架の主イエスの苦しみを経験しなかったように、私たちのために救い主は受難を受けているのです。私たちの身代わりとなって、試練に耐えておられるのです。十字架の主イエスを見上げる時、耐えられない試練はないことが明らかにされるのです。十字架の主イエスを見捨ててしまった弟子たちが、復活の主に招かれたように逃れの道を備えて下さったのです。
 信仰生活の途上で、神を疑い、神から離れてしまいそうになる時、滅びの道への警告として、御言葉に立ち帰りたいと願います。