銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

四方から苦しめられても

説教集

更新日:2023年10月15日

2023年10月15日(日)聖霊降臨後第20主日 銀座教会 家庭礼拝  牧師 髙橋 潤

 コリントの信徒への手紙二4章7~15節

 本日は、信徒伝道週間の主日です。教会の主日礼拝は、鹿島正安兄の証しです。この家庭礼拝のしおりは、教会の主日礼拝と違う御言葉と説教になっています。
 今朝与えられた御言葉は、コリントの信徒への手紙二4章です。1~6節でパウロは福音の光がいかに栄光に満ちたものであるかを語った後、7~12においてそれを担う者たちの弱さを対照的に比較して、神を信じて生きる者の姿が書かれています。
 「土の器」はどこにでもある安価ですぐに欠けたり割れたりする器です。土の器は修復することができないため、割れたら棄てるほかない、ほとんど価値のないものです。そのようなほとんど価値のない土の器に「宝」を納めているのです。弱く価値のない土の器に信仰という宝が納められているのです。「11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」パウロは苦難や迫害に見舞われ、いつも死と背中合わせで伝道しました。パウロは、十字架と復活の主イエスを宣べ伝え、試練の中にあって信仰を持ち続けた詩編詩人の御言葉を引用しています。詩篇116編10節「わたしは信じる「激しい苦しみに襲われている」と言うときもです。」

 今年の夏期休暇は、妻と娘と三人で山形県戸沢村古口に行きました。最上川沿いの小さな集落です。このたびの目的は、私の母の信仰のルーツを辿ることでした。93歳の母は18歳で洗礼を受けました。ある宣教師から洗礼を受けた芳賀久治兄(1910-1990)の導きで日本基督教団新庄教会の家庭集会で主イエスを救い主を知り、信仰の道を与えられました。母は20代前半で上京しているので、今回古口に行っても当時の人に会うことができるか分かりませんでしたが、私が子供の頃連れられて行った記憶を頼りに、古口駅から歩いて、祖父と祖母の家までの道を歩いてみました。すでに昔懐かしい家は姿形は何もありませんでしたが、このあたりだということは分かりました。母を覚えている人に会うことは難しいと思いつつ、田舎の町に突然現れた不審者ですが、歩いて見ました。通りを歩いている人は一人もいませんでしたが、近所の家の玄関が開いていて声が聞こえたので、外から声かけをしました。たまたまその家に来ていた高齢の方がおられ、その方は、何と私の祖父母や母のことまで覚えている90歳近い女性でした。しかも、小さな集落の中で数少ない家庭集会に母と一緒に出席したこともあるとのこと。お話しを聞くことが出来ました。気をよくして、その近くの「芳賀」という表札の家を見つけて、妻から強く背中を押されて、玄関先から「ごめん下さい」と声をかけました。家の奥の方から返事があり、待っていると笑顔が素敵な高齢の女性が現れました。自己紹介をすると、声かけした二人目のこの人もなんと母のことを知っているだけでなく、私が小さいころ姉と共にこのお宅で遊んでいったことまで覚えているほど聡明な90歳の方でした。古口で出会った二人目の人も母の知り合いであったことに驚きました。この芳賀さんは、母を導いた芳賀さんと名字は同じですが親戚ではないようでした。母からは、母を導いた芳賀久治兄の家があるから、挨拶して来てほしいといわれていましたので、芳賀宅を探しました。2往復位しても表札が見えなく、敷地の中に入って表札を確認していると、後ろから声をかけられました。この方が母を導いた芳賀久治兄の息子の芳賀欽一兄でした。
 欽一兄は、私がうろうろしているのをよく見ていたようで、このあたりでうろうろしているのは不審者か牧師しかいないと笑顔で迎えてくれました。自己紹介をすると、もちろん母のことも良く覚えていました。新庄教会の役員である芳賀欽一兄の庭には大きな石碑が置かれていました。石碑には、「我は眞の ぶどうの木 我が父は 農夫なり 藤崎盛一書」と彫られていました。藤崎盛一氏(1903-1998)は、1933年農民福音学校を設立したキリスト教社会運動家である賀川豊彦の弟子で、農民教育家として瀬戸内に豊島農民福音学校を開校した人です。藤崎は賀川豊彦と共に貧農救済を目標に「愛土・愛隣・愛神」の精神と「立体農業」(米作だけでなく、野菜果実家畜の飼育を行う)の理論を教育しました。芳賀欽一兄は80代の方ですが、大変活動的な方で、私たちを喫茶店へどうぞと、芳賀宅に寄せて頂き、新庄教会オルガニストの芳賀良子夫人のもてなしで、古口の伝道について、久治さんについて、母たちの家庭集会について詳しくお話しを聞きました。
 古口村において芳賀久治兄は、9人兄弟の末っ子でした。新庄において宣教師に出会い、洗礼を受けたことから家を出されてしまいました。芳賀家は古口でも比較的大きな地主で多くの小作人を抱えていました。久治はどんなことがあろうとも信仰を捨てることなく、厳しくとも祈り続け神に従う道を選びました。田植え、稲刈り、多くの人の手を借りて、小作人たち家族と共に生活を支えられていました。そのような地主の家からキリスト者が一人出るということは、年間行事の祭りや農業の協力を得るためにも示しがつかず、差し障りがあるという理由で、洗礼を受けた末っ子久治を家から追い出したのです。久治青年は古口の線路向こうの山の中で厳しい生活を余儀なくされました。その後、信仰を携えて北海道に行ったようです。時がたち、同年代の友人が古口の村長になりました。村長は初めてのキリスト者村長でした。この村長から呼ばれて久治は北海道から故郷に戻り、農業を営みながら村の相互扶助のために働き、新庄教会で信仰を全うしました。
 当時のこの周辺は無医村だったため村営診療所を設立するために1936年角川村健康保険組合を発足させ、1938年国民健康保険組合第1号となりました。現在、「相扶共済の碑」と「国民健康保険発祥地の由来の碑」が立てられています。キリスト者の村長と芳賀久治兄が貧農救済を祈って活動した姿が浮かび上がってきました。
 母は、芳賀久治兄の家庭集会である古口集会ではじめて聖書を読み、信仰へ導かれ、新庄教会において酒田教会から来られていた笹原周牧師から18歳のクリスマスに洗礼を受けました。今回の夏期休暇で、古口で偶然にも出会った方々が皆古口集会に出入りしておられたこと、お話しを聞くことができたことは一泊旅行の数時間に神の導きとご計画があったのではないかと深く思わせられました。
 芳賀久治兄は神を信じ信仰を守り続け、家を出されても信仰を捨てませんでした。まさに「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」との御言葉通り生きたのです。日本全国にこのような信仰者が与えられ、教会を支え、相互扶助の土台が築かれたのです。
 聖書の神は、私たちが苦難の中にいるときに、私たちを遠いところから見守っておられるというのではないのです。私たちの苦難の中に必ずそこにおられて助けて下さるのです。だから私たちは苦難の中で生きるのです。神は地上の苦難のただ中で、共にいて下さるから生きる事ができるのです。土の器である者と共にいて下さるのです。だから、四方がふさがっても生きる道があるのです。
 戦前のキリスト者の試練と現在のキリスト者の試練は、違っています。土の器の違いはあるでしょう。しかし、土の器に納められる「宝」は昔も今もそして、将来も変わらないのです。どのような時代でもどのような人であっても、この信仰という「宝」は、私たちの環境や私たちの弱さがどれだけ異なっていても、変わらない神の助け、導き、力なのです。
 「宝」は、私たちの力や強さではなく、神の恵みです。神の助けであり、働きです。私たちはこの宝を与えられていることを感謝し、祈りを通して確認することができます。
 祈りつつ、どんな困難試練があろうとも、変わらない救い主の働きを信じて歩み続けたいと思います。
 
お祈りしましょう。
天の父なる神さま。信仰の先達が信仰を与えられ、そのゆえに四方八方から苦しめられました。しかし、その生涯をあなたが伴ってくださり、信仰を全うさせてくださることは、大きな励ましです。あなたの御心を求め続け、祈り続け、十字架の主イエスを仰ぎ続ける者として下さい。私たちの祈りの生活をお支え下さい。祈る喜びをお与えください。
 主イエスの御名によってお祈りします。アーメン