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銀座の鐘

信仰と希望と愛

説教集

更新日:2023年10月08日

2023年10月8日(日)聖霊降臨後第19主日 銀座教会 主日礼拝 副牧師 川村満

コリントの信徒への手紙一 12章31節~13章13節

本日与えられました御言葉は、コリントの信徒への手紙一の13章の愛の讃歌と呼ばれる御言葉であります。とても有名な箇所であります。結婚式などでも、よく語られます箇所であると思います。
しかし、この、愛という言葉は、インフレを起こした言葉だとよく言われます。つまり、巷では、愛という言葉はどこにでも語られる。小説やドラマの中でも。ゴシップ雑誌の中でも愛という言葉はあふれている。しかし、そのようにして語られる愛という言葉は、聖書が語る愛といかにかけ離れていることか、ということです。本物の愛ではないということです。その、本物ではない愛に慣れきってしまって、それを愛だというものだから、聖書が語っております愛について牧師が語ろうとしても、ああ、愛と言っても、大したものではないでしょう、と考えて世間は聞く耳を持たない、ということが起こっているというのです。ある牧師が、高校で聖書の講義の中で、愛という言葉について語ろうとしたら、前にいた女子高生がクスクスと笑ったというのです。なぜ笑ったか。男女間の、恋愛とか性的なものを思い浮かべたからなのかもしれません。本来秘められるべき、赤裸々な話をしだすのかと思ったのかもしれません。ラブソングや、愛がテーマの小説やドラマはいつの時代にも人気があります。それだけ、どの時代であっても人々は愛し合うことを求めているし、そこで本当に心を赦し合う関係を願っていると思います。男女間の愛。結婚における夫婦の愛。あるいは、一生続く、友達としての友情。家族の絆。しかしまさにそこにおいて人々は、愛し合うことができず、お互いに自己主張をして、不満をもって、傷つけあい、とうとうその愛の絆が破綻してしまうと言う経験をしております。それゆえに、愛という言葉を聞いても、ああ、愛なんて、本当の愛なんてどこにもないんだわと、ニヒリスティックになってしまっている。そういう世間の、愛に冷えた世界を垣間見ている中で、わたしたちも愛、という言葉をあまり喜んで語ることができないのではないでしょうか。しかしそうであるがゆえに、本当の愛を求めている人は現代においてもたくさんいるに違いないのです。聖書が語る愛とは、まさにそのような、本当の愛であります。真実の愛であります。それが、主イエス・キリストを通して表された十字架の愛。ギリシャ語でアガペーという、神の愛なのです。その、真実の愛を知った者として、使徒パウロは、この愛こそが、最高の道なのだと、わたしたちに教えてくれるのです。 
パウロは、12章の後半からこのように語り始めます。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」
わたしたちの人生はいわば、道であります。人間には人それぞれ、生きる道が与えられております。生まれ持った身分や体のハンデのゆえに道が決まっている、などということもありますけれども、そういう運命のようなものを越えて、自分で道を選ぶこともできると思います。わたしはこの道を歩くと決めた、といって何か、職を選んで、そこに生きることもできるでしょう。結婚するという選択もあれば結婚しないという選択もあります。そういう風に私たちはそれぞれの道を歩みそこで、自分の生き方を定めていきます。その道に生きる人それぞれの考え方も全く異なっていきます。芸術の世界に生きる人々の価値観と、実業家として会社を立ち上げた人の考え方はまるで違うかもしれません。しかし、そういう人間的な価値感を越えて、みな、愛に生きなさいとパウロは語ります。どんな道であっても、愛が人間の根本にないと、意味がないのだ、と言います。わたしたちは、生きている限り、その人生に目的と意味を見いだし、あるいは見いだしたいと願いながら歩んでいると思います。
しかし、その目的と意味が、ただ自分のためだけの人生と考えて生きるならば、自分では納得できる人生であったとしても、それは無に等しいのだ。益はないのだ、とパウロは言うのです。しかし、誰かを愛し、その人のために生きた時間。そのために費やした心。努力。思い。それこそが人生のもつ意味となるのだということです。私たちは、どれだけのことができたか。どれだけ良い大学に入れたか。どれだけ良い仕事ができたか。良い生活ができたか。そういう自己実現的なところで自分の人生の価値や生き甲斐を判断してしまうようなところがあると思います。
以前、ある有名な芸能人が世間で評判を落とすようなことをしてしまい、引退を宣言しました。そのとき彼が、引退会見の中でこういったのですね。私はこの芸能界で頂点に立った。だからもう思い起こすことはない。そのように告白したのを覚えておりますが、なんだかとても世的な価値観だなと思ったのが印象的でした。でもそういう価値観を、もしかするとわたしたちも少なからず持っているのではないだろうかと思います。しかし世の終わりの審判の日にわたしたちがこの地上でどう生きたかということで評価されるのはそういうことではないのです。どれだけ有名になったか。人より秀でることができたかではない。そうではなく、どれだけ愛をもって生きたか、ということなのです。
 
しかし、そうであるならば、なおさら、事柄は厳しいのではないでしょうか。私たちの内にどれだけの愛があるのか。どれだけ隣人を愛したのか。そこで最後に神様に裁かれ、計られるなら、ほとんど何も残らないなどということにはならないでしょうか。いったい、どれだけの人が、神様の御前に、「わたしは地上において多くの人を愛し、大切にした」などと胸を張って言える人がいるでしょうか。しかし、この13章全体で語られております愛は、罪人であるわたしたちがその内から振り絞って出さなければならないような愛ではありません。そうではなく、アガペーの愛です。神から注がれる愛なのです。1節から3節は、わたしが、愛がなければ、という語り口でありましたが、4節からは、愛そのものが主語と変わっております。そしてこの箇所全体の愛は、アガペー。すなわち、人間同士の愛ではなく、神の愛にだけ使われる言葉なのです。わたしたちが、ここにある愛は~という言葉を自分の名前を入れてみたらよい。そうすればいかに自分が愛から程遠いかわかる、と言った人がおりました。
わたしは忍耐強い。わたしは情け深い。私は自慢せず、高ぶらない。……そんな風には決して言えないのではないでしょうか。しかし、この愛を、主イエスというお名前にしてみるのです。主イエスは忍耐強い。主イエスは、情け深い。そのように、愛という言葉を、主イエスに代える。そこに、主イエスが私たち罪びとのために成し遂げてくださった十字架の御業を思い起こすのです。まさに、主イエスだけが、私たちが敵であったときに、私たちを忍び、信じ、全てを望み、全てに耐えてくださった方であるからです。そしてその主イエスの、無私の愛。御自身を捨てて、私たちを滅びから救うために苦しみぬいて十字架で身代わりとなって死んでくださった。その愛のゆえに、私たちは、滅びをまぬがれて主の命にあずかっているのです。
この、主イエス・キリストの十字架を通して示された神の愛を信じるとき、わたしたちは死から命へと移るのです。その信仰は、神が聖霊を通して与えてくださるからです。そして、その、主イエスの愛が今も私たちに注がれているからこそ、私たちは信仰を与えられてこの御堂に集うのです。ローマの信徒への手紙の5章5節にこのようにあります。「希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 
わたしたちには、確かに神の愛が注がれております。聖霊が私たちの内に来てくださっているからです。では、どうすれば、聖霊が私たちの内に来てくださっていることがわかるのか。この、13章の前に12章の3節でパウロはこのようにも語っております。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」この御言葉から確かに示されていることは、イエスは主であると信じて告白する私たちの内に、確かに聖霊が来てくださっていることです。聖霊によらなければ誰もイエス・キリストを、わたしたちの主として信じて、従う心にはならないからです。だから私たちの内にはいつ、いかなる時にも神の愛が注がれているのです。わたしたちはいつも神の愛の下にあるのです。
そして、そうであるからこそ、この御言葉もまたわたしたちの生活の中に実現しているのです。ペトロの手紙一の、1章8節の御言葉です。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
キリストの愛にとらえられている!そうでなければ御言葉に慰めを受けることはありません。礼拝説教を聞いて、一緒にアーメンと祈ることはできません。聖霊によって神様の愛の内にあるのです。そしてそれこそがわたしたちの人生にとって最も大切で喜ばしい事実なのです。 私たちの、人間としての愛情には常に欠けがあります。破れがあります。しかしがっかりしなくてもよい。わたしたちは神の愛にとらえられているからです。そして、その神の愛に応答して、礼拝をささげていく中で、少しずつ少しずつ、霊的に成長し、神を愛し、隣人をも、真心をもって愛する者へと変えられていくのではないでしょうか。 

わたしが以前仕えていた諏訪教会の属しておりました東海教区の、8年ほど前の伝道方針の中に、「礼拝をさかんに」という言葉がありました。
しかし南信分区のある牧師は、意味が分からない、と言っておりました。すでに礼拝を大切にしているではないか。これ以上、どうさかんにするというのか。礼拝回数を増やすことでもないのに、さかんにすると言う言葉が当てはまるのか。教会の教勢が伸びるという以外に、さかんになるということがあるのか。そういう疑問がわいたのかもしれません。意味が分からない、と言った牧師はおそらく、もっと具体的な伝道方針を打ち立てるべきだと思ったのかもしれません。
少し私自身の偏見があるかもしれませんが、敬虔主義の信仰に立つ教会や福音派的な信仰の教会の人々は、「礼拝をさかんに」という言葉はあまりよくわからないのではないだろうかと思います。なぜならメソジストや、ホーリネス系の人たちは、むしろ礼拝をささげて、そこで受けた恵みを、そのあとどのように神様に応答していくかということに重点を置く傾向があるからです。しかし私たちのそのような信仰から押し出されていく行為。生き方がどれほどに立派なものに見えてもなお多くの欠けがあり、欺瞞があり、ときにそれは独善や律法主義に傾いてしまっていることもあります。そのようにどこまでいっても罪深い私たちがなお、神の恵みによって招かれ続けているのです。その、礼拝の内にある神の愛の完全性の中に。
神の愛の確かさの中に毎週私たちは招かれているのです。私たちは今、そのままで、罪を赦されて、主に招かれているのです。愛そのものであるイエス・キリストと毎週、この御堂において出会っているのです。その、主の愛の確かさに勝るものはありません。だからこそ、その礼拝にこそ集中していこうということです。それが「礼拝をさかんに」という言葉の意味であるとわたしはとらえています。教派によって霊性や伝統が違うので、良き行いを通して、私たちの信仰を証ししようとする教会もあれば、ひたすらに礼拝に集い、神様の恵みに信頼する教会もある。どちらも大切でありますが、礼拝の中で、神の愛。完全なるアガペーの愛を注がれ、愛されて、守られていることを信頼する。御言葉を通して神様の愛が私たちの内に注がれる。そこでこそ私たちは、人生の生き甲斐と喜びを確かにしていくことができるのではないでしょうか。その意味で、わたしたちもまた礼拝をさかんに、礼拝に集中して、ささげていく心をもっていきたいのです。礼拝に集うことのできない方々をも、共に生きる一人一人として覚えていきたいのです。
最後に、13節の御言葉を聞きます。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」私たちが、この地上においてすでに、イエス・キリストを信じて、礼拝をささげているということ。これは、永遠の命を与えられているということであります。イエス・キリストを信じて与えられる命は、神にささげて、栄光を帰すものとされた新しい命です。神の愛を受けて、神の愛に応答する命であります。神の愛にとどまり、愛に応えるということは、わたしたちの人生においてすでに始まっておりますが、死を越えて永遠に続くものとなりました。神の国は、永遠に神をほめたたえ、神の愛を受けて神を愛するという歩みとなるからです。この愛の永遠性の中に今すでにあるのだということ。そのことを、わたしたちは礼拝をささげるたびに、深く受け止めていきたいのです。信仰と希望と、愛の中にわたしたちは生かされています。だからこそ、わたしたちは永遠に生きるのです。お祈りをいたします。

教会の頭であられる主イエス・キリストの父なる御神様。わたしたちに、天から愛を注いでくださり、わたしたちはイエス・キリストの十字架の愛を信じて神の子とされ、あなたを愛するものとされました。礼拝にこそ生きる者とされました。その幸いを心より感謝申し上げます。礼拝をさかんに、心から喜びをもってささげていく者とならせてください。そして礼拝の中で、私たちに愛を注いでください。あなたの恵みの力によって支えられて、わたしたちも少しずつ、愛の実りをならせていくことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン