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銀座の鐘

「神の恵みを無にはしない」

説教集

更新日:2023年10月29日

2023年10月29日(日)聖霊降臨後第22主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝)伝道師 山森 風花

ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

本日私たちに与えられている聖書箇所の冒頭、ガラテヤの信徒への手紙2 章15節で、パウロは「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と記しています。さて、この「わたしたち」とはいったい誰のことでしょうか。また、どうしてパウロはわざわざユダヤ人と異邦人を区別、いや、異邦人を見下し、まるで差別するかのような発言をここでしているのでしょうか。このパウロの発言を理解するために、ガラテヤの信徒への手紙を初めから読み進めていくと、1章から2章に渡って、パウロが自分自身のことを語っている姿を私たちは目撃することができます。そこには、主なる神様によってキリスト者とされ、使徒とされる前までのパウロがどのようにふるまっていたかについて記されています。
パウロはかつて、自分が先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心であり、同世代の多くの人たちと比べてユダヤ教に徹しようとしていたこと、また、自分がユダヤ教徒として徹底的に教会を迫害し、滅ぼそうとしていたということをはっきりと記しています。パウロはこのような自分のかつての姿について、他の手紙では「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピの信徒への手紙 3章5-6 節)とも書いています。
このように、パウロ自身の手紙、また、使徒言行録 9章などで明らかにされているパウロのかつての姿を、私たちはこのガラテヤの信徒への手紙を読むとき、しっかりと受け止め、頭の片隅においておかねばなりません。なぜなら、ユダヤ教に熱心で、律法に関して最も厳格なファリサイ派の一員であったあのパウロが、キリスト者とされ、しかも異邦人の使徒とされたということは、彼がかつて熱心に守ってきた先祖からの伝承を破り、律法を違反するということなしには決して成し遂げられないことだったからです。パウロがキリスト者とされ、また、異邦人の使徒とされたことで、破ることを避けることができなかった戒め。それはユダヤ人は割礼を受けていない者、つまり、異邦人とは食事をしてはならないという戒めでした。この割礼を受けていない異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者が食卓を共にするという問題は、初代教会において非常に大きな問題でした。なぜなら、食事を共に守ることができないということは、主の食卓に、つまり、聖餐の恵みに共に与ることができないということをも意味していたからです。そして、このユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者と食卓を、聖餐を共に守れないという問題が大変な事件へと発展したということが、本日与えられた聖書箇所の直前、2章11-14節に記されているのです。
2章11-14節には、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が区別なく、一緒に礼拝を守っていたアンティオキア教会にケファ、つまり、ペトロがやって来たことについて書かれています。ペトロは、アンティオキア教会にやってきた当初、割礼を受けていない異邦人キリスト者と食事を、聖餐を共にしていました。しかし、律法を守ることを重視し、割礼を受けていない者と食事を共にすることを問題視していた人たちがアンティオキア教会にやってきてから事態は一転しました。ペトロは彼らを恐れて尻込みし、割礼を受けていない異邦人キリスト者たちと食事を共にすることをやめてしまったのです。使徒ペトロのこの行動は、彼個人の問題だけに留まりませんでした。なんとアンティオキア教会にいた他のユダヤ人キリスト者もペトロと同じように異邦人キリスト者たちとの食事から身をひいてしまったのです。つまり、アンティオキア教会での聖餐の食卓が皆で守ることができなくなったということですから、これは大変な事件です。そのため、パウロは 14 節でペトロに向かって「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」と非難したのでした。
このように、アンティオキア教会での事件について 11-14節で記した後に、パウロは「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と15 節で言うのです。つまり、この「わたしたち」とは、パウロとペトロのことです。二人は確かに生まれながらのユダヤ人であり、割礼をうけている者です。そして、ユダヤ人から見れば、律法を知らず、また律法を守っていない異邦人のような罪人ではなく、律法を与えられた特別な選ばれた民、神様との特別な関係に置かれている者たちでした。
このような差別的な、自分たちは特別であるという自負を、パウロは回心の前、キリスト者とされる前、抱いていたことだとおもいます。律法主義者で、なんといってもファリサイ派の一員だったのですから、その思いは人一倍あったといっても過言ではないでしょう。しかし、そのような過去を持つパウロが、16節でこのように言うのです。
(16)けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
パウロのこの言葉は、当時、異邦人キリスト者たちに対して、割礼を受け、律法を守る者にならなければ、食事を、聖餐を共にしないという差別的な態度をとっていたユダヤ人キリスト者たちにとって衝撃的な言葉だったと思います。なぜなら、このパウロの言葉は、彼らの今まで築き上げてきた「私たちは異邦人のような罪人とは違う、私たちは神に愛され、神との特別な関係に置かれている」という彼らの自負や誇りを打ち砕く言葉だったからです。
しかし、私たちはこの箇所を読むとき、パウロがこのユダヤ人としての、民族の誇りを打ち砕かれる衝撃というのを、誰よりも知っていたということを覚えたいのです。パウロは何も、「自分は律法を守ることができない」という思いから挫折し、それからキリスト者となったという訳ではありませんでした。それは、パウロがフィリピの信徒への手紙3章7-8節で「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらをちりあくたと見なしています」と書いていることからも明らかです。
このようにパウロが記しているように、私たちはまずなによりも、キリストと出会い、キリストを知ることがなければ、キリストを信じる者へ変えられることはないのです。そもそも私たちは自分が罪人であり、この罪を贖ってくださる救い主が私たちに必要であるということすら、キリストと出会う前は知らなかったのです。ですが、私たちは、イエス・キリストと出会い、ユダヤ人も異邦人も、すべての人間は例外なく罪人であるということを知りました。この罪人というのは、神の目から見ての罪人、神との関係においての罪人ということです。つまり、私たちは神の裁きの前では、有罪判決を受け、裁かれ、滅び行く罪人であるということをイエス・キリストを通して知ったのです。それはイエス・キリストの苦難と十字架の死、つまり、神の御子という尊い代価が支払われなければならなかったという驚くべき事実が明らかにしているとおりです。
このように、私たちは自らの罪の大きさを、神の裁きの前で決して立つことができない罪人であるということをキリストを通してのみ、知ることができるのです。しかし、キリストによって自らが罪人であると知るとき、それは同時に、私たちがキリストによって救いに与ることができる罪人であるということをも知ることがゆるされているのです。だからこそ、私たちはイエス・キリストと出会い、イエス・キリストを知るとき、キリスト・イエスを信じる者へと変えられるのです。また、それゆえに、パウロは「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と言うのです。神の御前において、罪人ではなく、義と認められるということは、神の裁きにおいて無罪判決を得るということです。つまり、他ならぬ私たちの救い主によってのみ、私たちはこの義を、神の裁きの前で無罪判決を得ることができるのです。
今朝の聖書箇所を通して、私たちが決して忘れてはならないことがあります。それはこのように愛すべき独り子を尊い対価として支払ったとしてでも、私たちを贖ってくださる方がおられ、その方こそが、私たちの天の父なる神様であるということです。私たちを罪人としてではなく、罪赦された者、義を得て、聖なる者として御前に立つことができるようにすることこそが、神様の御心なのです。それはパウロが、「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」とこの手紙の冒頭1章 4節で記されていることからも明らかです。
これが神の恵みでなく、いったい何でしょうか。神の御子という尊い代価を、私たちを救うために、主なる神様が支払ってくださったのです。また、神の御子イエス・キリストご自身がその御心に従い、苦しみと死をその身に受けてくださったのです。
このような大いなる神の恵みを与えられていながら、どうして私たちは神の恵みが、罪の赦しが、何か不足があるかのように、何か私たち人間の手で補完されなければならないかのように振る舞うことができるでしょうか。いや、決してそんなことはできないのです。だからこそ、パウロは21 節で、「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」と叫ぶのです。
現代に生きる私たちも、自分たちの手で何か補完しなければ、これを守らなければ、義と認められないのではないかと思ってしまうことがあります。ですが、私たちは神の恵みが私たちに示されたことを、あのイエス・キリストの十字架と復活という救いの出来事が、他ならぬ私たちのために与えられたということを、いつも覚え感謝し、神の愛と神の恵みに全てを委ねて、安心して歩んで参りたいと願います。