銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

心の目を開いてください

説教集

更新日:2023年11月05日

2023年11月5日(日)聖霊降臨後第23主日 銀座教会 召天者記念 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

エフェソの信徒への手紙1章15~23節

 聖徒の日、召天者記念礼拝です。教会全体で天国にお送りした愛する神の家族を覚
えて祈る日です。
 そもそも私たちが祈るということは、どういう意味があるのでしょうか。祈りは、
キリスト教に限らず、人間は祈ってきました。人間は祈る動物という言葉もあります。誰でも祈ることがあると思います。「苦しい時の神頼み」といわれるように、ふだんは祈らない人、特別な信仰心を持たない人であっても、病気や災難で途方に暮れた時は、神や仏を探して祈って助けを求めようとします。小さなことでも大きなことでもお祈りして助けてくださいと自分の限界を感じた時、助けてもらいたい一心で祈ります。しかし、もう一方で、私たちは簡単には祈らないものです。限界を感じない時には祈ることを忘れ、成り行きに任せて諦めて生きることもあります。祈ることの意味も考えずに生きています。祈ることの大切さを失っている現代社会があります。祈っても無駄ではないかと考え、祈らない人間になってしまいます。日常生活で祈ることがあっても、自分中心の祈りになって、私の欲望を叶えてくれる神なら祈るが叶えてくれなければ祈らないという姿勢をとることもあるでしょう。
 そのような真実の祈りを失ったような時代の中でキリストを信じる教会、私たちは、なぜ祈るのでしょうか。一言で答えるならば、私たちはキリストに結ばれているから祈るのです。私たちが祈る理由は、私たちの願いや心配があるから祈るのではなく、キリストに結びあわされているからです。私たちが満足しないから祈るのではなく、キリストと結び合わされているから祈るのです。祈りの出発点は私たち人間ではなく救い主であるキリストの祈りこそが祈りの出発点なのです。
 私たちが祈る時、忘れてはならないことがあります。それは私たちに先立って、私
たちのために祈っておられる救い主がおられることです。聖書には主イエス・キリス
トが祈りの人であったことが記されています。主イエスの弟子たちは祈る主イエスを
見て「私たちにも祈りを教えてください」と願いました。祈る主イエスの姿を見てい
たのが弟子たちです。主イエスはシナゴーグの集会で祈りました。独り寂しい所で祈
られました。山に登り徹夜の祈りをささげました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ 22:32)主イエスが弟子たちのために祈っていたことが分かります。主イエスは弟子たちだけでなくそれ以外の多くの人々のために祈っています。会食をする時、賛美の祈りをささげました。最後の晩餐の席でも感謝の祈りをささげました。
 主イエスは祈りを教えました。神を「アッバ」すなわちお父さんと呼び、父なる神
に祈ることを教えました。人々に気を落とさず絶えず祈りなさいと教えました。私た
ちが祈りたいから祈るのではなく、神の祈りの交わりに積極的に加わって、いつでも
どこででも祈ることができることを教えられています。アッバ父よと祈る主イエスは、神への信頼の祈りのなかに弟子たちを迎え入れ、主イエスの祈りの交わりに弟子たちが加えられました。キリスト教会の祈りは、この弟子たちに続いて、祈る主イエスに迎えられているから祈るのです。主イエスの愛のご命令として、主イエスの祈りに感謝して私たちは祈るのです。主イエスが私たちのために信仰がなくならないように、祈ってくださるということは、言葉に尽くせない恵みではないでしょうか。私たちは神に祈られているのです。昨日も今日も明日も、私たちの祈りに先立って、主イエスが熱心に祈っておられることから明かです。
 礼拝の奉仕をする前に必ず祈ります。その時、思い起こさなければならないことは、あの私たちの祈りの前に主イエスが祈ってくださっているということです。私たちの祈りの前にいつでも主イエスが先立って祈っていてくださるのです。寝る時も朝起きる時もこのことを覚えて、神様に感謝し、祈りたいものです。
 本日与えられた聖書の御言葉は、使徒パウロの祈りです。パウロは牢獄の中で熱心
に祈りました。牢獄の中ですから、独りで祈っていました。隣に祈りの友はいません。しかし、熱心に祈るのです。キリストに結び合わされているからです。救い主なる主イエスに祈られていることを信頼し確信しているからです。15 節でパウロはこう祈っています。「15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18 心の目を開いてくださるように。」
 パウロはエフェソの教会が主イエスを信じる群れであることを感謝して、神が知恵
と啓示と霊を与えて、エフェソの教会の人々の心の目を開いてくださるように祈って
います。
 エフェソの信徒への手紙は、牢獄の中に閉じ込められているパウロを心配している
人々に宛てて送られた手紙です。教会の指導者であるパウロが牢獄に入れられたこと
によって、エフェソの教会の人々は動揺したり、信仰を捨ててしまう人で揺れ動いた
と思われます。パウロを失い、同時に希望も失ってしまいました。しかし、パウロは
牢獄の独房からエフェソの教会の人々へ、手紙をとおしてキリストに結び合わされて
いることを確認し、エフェソの教会のために祈り、離れていても信仰によって繋がっ
ていることを伝えています。
 牢獄の中でのパウロの祈りは、私たちに大切な事を教えています。私たちはたとえ
牢獄の中にあっても、祈ることが出来るということです。神を信じる信仰によって、
たとえ牢獄でもキリストに結び合わされているということです。キリスト教の祈りは
一人隠れて祈る祈りでもあるのです。たった一人で祈っていても私たちは決して孤独
ではありません。主イエスに祈られています。信仰の友、教会の祈りに支えられてい
るのです。エフェソの信徒への手紙を通してパウロの祈りが獄中からの祈りであった
ことはほとんど気がつかないのではないでしょうか。「独りの祈りは、共同体の祈り
に基盤を持つ」(近藤勝彦)、パウロの祈りはエフェソ教会の祈りに土台をもって繋
がっているのです。共同体の祈りとは礼拝の祈りです。主イエスの祈りによって祈ら
れている教会は、父子聖霊なる三位一体の神の祈祷会に招かれ加えられているのです。獄中にいてもこの世の権力者を恐れず、神のみを恐れて祈るのです。この世の権力者がもつことの出来ない、死から命へ、復活の力をもっているからです。22 節「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」使徒パウロは、「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(1テサ 5:17)と書き記しました。「6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」 (フィリピ 4:6)
 パウロの祈りは感謝を土台として、神を信頼して何でも神に打ち明けなさいと教え
ています。
 宗教改革者ジャン・カルヴァンはキリスト教の祈りの特質を語りました。第 1 は全神経と全努力を注入して祈ること。第 2 は自分自身の貧しさと求めるべきものの必要性を真剣に考えること。第 3 は祈りの中でへりくだり、罪の告白と赦しを願うこと。第 4 は祈りは聞き届けられるとの確信を持つこと。この4つを心に覚えて、祈り続けたいと願います。
 召天者記念礼拝において、先に天に召された方々の名前を通して、全ての人が教会
の信仰の交わりにあること、神の家族の信仰によって繋がっているお一人お一人であ
ることを覚えたいと思います。この方々も私たちも、主イエスの祈りによって覚えら
れている一人一人であることを感謝して覚え続けたいと願います。