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銀座の鐘

むなしい生活からの脱出

説教集

更新日:2023年11月26日

2023年11月26(日)聖霊降臨後第26主日 銀座教会 終末主日・謝恩日 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一1章17~19節

 今朝の聖書には、「生活」という言葉が二度出て来ます。18 節には「先祖伝来のむなしい生活から贖われた」とあり、17 節には「その方を畏れて生活すべきです」とあります。かつての生活から贖い出され、新しい生活に変えられた、それがキリスト者だと言うのです。キリスト者の新しい生活は、前回の箇所では「心の腰に帯を締め、身を慎んで、主イエスの再臨における救いに希望をかける」生活と言われ、また「生活の全体にわたって聖なる者となれ」とも言われました。
 今朝は、それに続いて、主イエスを信じる者の生活の変化は、「先祖伝来のむなしい生活」から贖われたのだと言われます。かつては共にいてくださる主イエス・キリストを知らず、神に信頼を置くことを知りませんでした。その生活はむなしかった。しかし今はそのむなしさから解き放たれて、救いの中に入れられています。それは「贖われたのだ」と言います。「贖われた」とは、身代金を支払って買い戻されたのです。
  救いとは贖われることです。贖われることによって新しい生活に入れられます。この生活の変化は、奴隷が贖われる様子で、ありありと理解されます。聖書の時代には、厳しい生活の中で負債を負い、返済ができず、奴隷に身を落とす人がいました。また戦争の捕虜として奴隷になった人もいました。そこから再び自由になり、自由な自分を取り戻すには賠償金や身代金を払って自分を買い戻さなければなりませんでした。金や銀が必要だったわけです。奴隷状態はまた、個々人が経験するだけではありませんでした。民全体が奴隷状態になることもありました。イスラエルの民の出エジプトの経験、またバビロン捕囚の経験です。神の救いの出来事は、奴隷状態からの贖いの出来事と理解されました。
 「先祖伝来のむなしい生活から贖われた」と言われます。「先祖伝来の生活」は、元来の言葉の使用法から言いますと、自分勝手な気ままな生活でなく、むしろ先祖伝来の名誉ある、誇らしく、高貴な生活を語る語り方でした。日本語でも「先祖伝来の生き方」を守ることが誇らしく語られる場合があるでしょう。しかしここでは価値が逆転して、かつてはむしろ「むなしい生活」で、そこから解放されなければならないと言われます。通常の言葉の用法が逆転されています。ペトロの手紙によって出現した稀な用法と言われます。主イエス・キリストの十字架とそこに示された神の愛、主の復活に示された神の力が、私たちを新しい生活へと連れ出し、むなしい生活から希望のある生活へと転換させます。先祖伝来の生活は、異教的な神々によるむなしい生活で、この「むなしさ」には、「誤った」とか、「ばかばかしい」という形容詞がいっしょに付くと言われます。
 そこから贖われるには、奴隷の場合、金や銀で身代金が支払われなくてはなりません。買い戻しには、筋のとおった手順が踏まれ、払われるべき相応のものが支払われなければなりません。そうでなければ、逃亡奴隷になって、正々堂々たる解放でなく、もし見つかったらまた奴隷に逆戻りすることになります。救いといっても、盗みのような救いでは、確かな救いになりません。法を満たす救いが必要です。
  イザヤ書 52 章にバビロン捕囚からの贖いが預言が記されています。そこに「銀によらずに買い戻される」(イザヤ52・3)という言葉が出て来ます。イスラエルは「ただで買い戻される」という預言でした。なぜなら「ただ同然で売られたから」だというのです。それがバビロニアによって滅ぼされ、捕囚とされたみじめな生活でした。その預言を踏まえながら、しかし主イエスにあっては「ただで買い戻される」のでなく、正当な手続きを経て、しかも「金や銀のような朽ち果てるものによらず、キリストの尊い血によって」買い戻されたと語られます。むなしい生活に陥ったのは、私たちに何の落ち度もなかったのにとは言えません。そのとき主イエスは、道理を満たし、踏まえるべき手順をしっかり踏まえ、しかも遥かにそれを越えた値を払い、それ以上ない確かな、堂々たる救済を遂行してくださったのです。きずや汚れのない、そして朽ちることのないキリストの尊い血が支払われたのはそのめです。尊い血は、主の尊い命そのものです。キリストの尊い命が代償として支払われたことで、私たちはそれまでのむなしい生活から贖い出され、その結果、新しい生き方、キリストのものとされた人生に変えられたのです。神の偉大な救いの業が正当な手続きを尽くして実行されました。
 こうしてキリストの尊い命の代償により、キリストのものとされて、キリスト者の新しい人生が始まりました。17 節で語っている生活がそれです。「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を『父』と呼びかけている」。この文章は、「父よ、と呼びかけている」が先頭に来ています。ですから「父よ」とあなたがたは神に呼び掛けている、それがすでにキリスト者の新しい生活です。しかも公平に裁かれる神にそう呼び掛けていると言うのです。
 「父よと呼ぶ」のは本来、主イエス・キリストだけがなさったことでした。私たち
もそう呼ぶのは、主イエス・キリストの尊い血による贖いの業に基づき、主イエスと
共にあり、その主から御霊を受けてです。主イエスは私たちを御自分と同じく神の子
の位置に置いてくださって、神を「父よと呼べ」とおっしゃってくださいます。神と
人間を親と子の関係になぞらえ、神を父とするのは多くの宗教にあることです。旧約
聖書の中にも神との関係を父と子の関係で語ることはありました。しかし主イエスが
神を「アッバ」と呼んだのは、ただ父と子の一般的な関係で呼んだのではありません。「アッバ」は、きわめて親密な父への呼びかけで、主イエス以外の誰もその呼びかけで神を呼んだ人はいなかったのです。神は主イエスのこの上なく親密な慈愛の父です。イエス・キリストがその尊い血によって贖いを果たされたのは、私たちを神の子として、主イエスが呼ぶのと同じ呼びかけで、親しく「父よ」と信頼を込めて呼ぶことができようにしてくださったのです。主イエス・キリストにあっては神の愛から何ものも私たちを引き離せないものとされました。
 しかも父である神は、神として「公平に裁く方」であることを少しも損なっていません。「公平に」という言葉には「顔」という言葉と否定語の「無」という言葉が合わされています。顔によらない、例外なしの裁きです。信仰のない人は信仰のない人として裁かれますし、信仰のある者も信仰のある者、罪を赦された者として裁かれます。
 キリスト者は「神を畏れて生活すべきだ」と言われます。これが「新しい生活」です。主イエスの尊い血による贖いを受けた者が、罪を赦された者として、神に「父よ」と呼びかけるとき、赦された者だけが懐く神への畏れ、畏敬をもって神の御前にあります。詩編 130 編に「主よ、あなたが罪をすべて心に留めるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(4節)と言います。罪を赦された者こそが神を深く畏れ敬うと言えるでしょう。罪を赦されず、救いを知らなかったら、公平に例外なく裁かれる神を、ただ恐怖する以外にないのではないでしょうか。御そばに近づけません。しかし主の尊い血によって贖われ、罪を赦された者が知る恐れは、震えおののく恐怖ではありません。深い畏敬の中に揺るぎない信頼と大きな喜びが含まれます。そして感謝が懐かれます。赦された者だけが知る神への畏敬があるのです。その神への畏敬は、信仰の人生を生きる真面目さ、誠実をもたらすでしょう。罪赦されて知る神への畏敬の中で、信仰は試練を潜り、雑り気のない純粋な信仰になるのではないでしょか。そしてまた罪赦された者として知る神への畏敬の中で、どんな時にもその赦された人生を生き抜く勇気が湧くでしょう。主イエスの尊い血、尊い命が支払われることで、神への畏敬による新しい生活に変えられのです。主イエスの尊い血によって贖われたキリスト者の新しい生活は、罪赦された者だからこそ知る神への畏敬の生活であることを深く覚えたいと思います。

天の父なる神様
 御子主イエス・キリストの尊い血によって贖われ、罪赦された者として聖前(みまえ)にあることを感謝いたします。聖なる御神の御稜威(みいつ)を畏(かしこ)み、御栄光を拝し、御力に服して、御栄のために生きることができますように。主イエスにあって聖なる神の愛と慈しみを証しすることができますように、御子主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。