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銀座の鐘

与えられた沈黙

説教集

更新日:2023年12月03日

2023年12月3日(日)待降節第1主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

ルカによる福音書1章5~25節

 世界のキリスト教会は、主の年 2023 年待降節を迎えました。キリスト教会の暦では、先週の日曜日が終末主日一年の終わりの日曜日でした。そして、本日より新しい一年がはじまります。本日より、主イエスの御降誕を共に喜び祝うクリスマスを迎えるために救い主を待ち望む待降節・アドヴェントの季節を過ごします。私たち一人一人が救い主を迎える準備の時として、大切な祈りの日々を過ごします。
 クリスマスに備える沈黙について、聖書の御言葉にお聞きしたいと思います。与えられた御言葉はルカによる福音書です。ルカによる福音書は、人間の準備の前に、神の先手があったことを伝えています。降誕節は、私たちの準備ではじまるのではなく、神の先手、神の御業からはじまっているのです。この神の先手は、救い主なる主イエスをお迎えするに際して、洗礼者ヨハネを遣わすことでした。洗礼者ヨハネについては、4つの福音書が記していますが、ヨハネの誕生については、ルカによる福音書だけが私たちに伝えています。洗礼者ヨハネの誕生物語を読むために大切なことを確認しておきたいと思います。それは、どうしてクリスマスに関するマタイによる福音書とルカによる福音書の主イエスの御降誕についての物語がこれほど大きく違うのかという事です。この二つの福音書を読み比べると、救い主の誕生について、大きく違っていることに誰もが気付きます。
 マタイによる福音書とルカによる福音書には、主イエス・キリストの降誕を記していますが、二つの福音書は主イエスの降誕への道を二通り記していることになります。この違いをどのように受け止めたら良いのでしょうか。
 マタイによる福音書は、マリアはダビデ家に属するヨセフと結婚し聖霊によって子を宿し、その子は神の御子でありイエスと名づけられます。主の天使が登場し、2章では占星術の学者たちが救い主にお会いすること、ヘロデ王の不安、ヘロデ王による二歳以下の男の子の殺害命令、ヨセフとマリアが主イエスとともにエジプトへ避難したことなどが書き記されています。そして3章で洗礼者ヨハネが登場します。
 ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生の知らせ、天使ガブリエルのマリアへの告知、マリアのエリサベト訪問、マリアの賛歌(マニフィカート)が歌われ、祭司ザカリヤの賛歌(ベネディクトゥス)が歌われます。そして主の天使が羊飼いたちに救い主の誕生を知らせます。このようにマタイとルカでは登場人物も違っています。
 このようにクリスマスに向けて読む二つの福音書の違いは大きいように見えますが、実はとても大切な所で一致しているのです。この点に注目して福音書を読み進めたいと思います。マタイ福音書の系図は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ」という言葉ではじまり、イエス・キリストの起源を語ります。イスラエルに対する神の働きかけの物語として伝えています。マタイのヨセフへの告知には旧約聖書の族長アブラハムの物語と主イエス誕生は深い関係があるのだと語られています。そして主イエスはダビデ家の出身であるだけにとどまることなく、救い主が私たちの間にお生まれになった、今日救い主がここにおられるという驚きと喜びが伝えられているのです。このことを信じる人が正しい人ヨセフです。ヨセフは初めて驚きと喜び、すなわち福音を聞いて信じたユダヤ人です。ヨセフはユダヤ人たちが救い主を信じる信仰と律法への忠実さを両立させる人なのです。このマタイによる福音書のアブラハムから救い主誕生への筋道を大切にしていることは、実はルカによる福音書においても大切にされているのです。
 私たちがクリスマスの物語を二つの福音書から読み始める時、二つの福音書の違いにつまずくことなく、ヨセフへの告知もマリアへの告知も、救い主の降誕は、旧約聖書のアブラハムから救い主の物語が始まっていたことを受け止め、二つの福音書を一つの物語として受け止めたいと思います。マタイとルカだけでなく、マルコによる福音書もヨハネによる福音書も、主イエス・キリストの誕生と伝道の道備えとして、洗礼者ヨハネの洗礼運動が行われていたことを伝えています。マタイによる福音書は第 1 章の系図で「アブラハム」ではじまり、ルカによる福音書でも洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアをアブラハムに似ていることに注目させてここに神の救いの先手があることを伝えているのです。二つの福音書の登場人物やいきさつの違いが目に付きやすいのですが、イスラエルの救いの歴史が大きく前進している、真の救い主をお迎えする決定的な出来事がここに起こったこと、すなわち神の救いの物語としてアブラハムから洗礼者ヨハネを通して主イエス・キリストの誕生を伝えているのです。これが神の救いの筋道であると二通りの仕方で伝えているのです。
 本日与えられたルカによる福音書1章5節以下では、洗礼者ヨハネの誕生が予告されています。ヨハネは母の胎内にいるときから聖霊に満たされていました。すなわち、神に選ばれた人なのです。そして、ヨハネは「イスラエルの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」働きをするのです。洗礼者ヨハネは悔い改めを語って活動しました。洗礼者ヨハネはすべての人が悔い改めて、身も心も神へ向き直ることによって救い主を迎える姿勢を整え、洗礼運動を行いました。
 悔い改めるということは、私たちが清く正しい人間になることではありません。そうではなく、私たちが罪深いものであることを認め、神に心を向け、神を仰ぐことです。そこに救い主が来てくださるのです。
 祭司ザカリヤはエルサレム神殿の祭司でした。妻はエリサベト、二人とも神の前に正しい人でした。妻エリサベトは子どもがありませんでした。すでに二人とも年をとっていました。イスラエルにおいて子どもがないということは、神の祝福から遠いと判断し、大きな悲しみ苦しみでした。創世記のアブラハムとサラに似ています。神の先手は祭司ザカリヤに対して悔い改めを求めました。13から16節、主の天使が現れて、エリサベトは男の子を産むヨハネと名付けなさいとのお告げを聞きました。
 アブラハム夫妻とおなじように祭司ザカリヤ夫妻も、主の天使の言葉を聞いて信じることが出来ませんでした。アブラハムの妻サラは、神の言葉を聞いて笑いました。ザカリヤは祭司として神殿に仕え香を焚く者でありながら、アブラハム夫妻と同じように、いくら神さまでも出来ない事があると思い、神より自分のことは自分がよく理解していると理解し、自分を神より上においていたのです。
 祭司ザカリヤこそ悔い改めて神の御前に立たなければならないことが神によって指摘されているのです。神を信じ、神に従っていると誰もが思う祭司こそが神を疑い神を笑っていることを神はご存じなのです。そして20節、ザカリヤは沈黙の時を与えられました。
この沈黙は神の恵みを知らされても信じることが出来なかった罰を受けたのでしょうか。そうではありません。御言葉を聞き沈黙する時を経て、1章64節でザカリヤの口は開かれ、神を賛美します。神の救いの御業に関わる者として真実に神を賛美するための時間が与えられたのです。神の御前に悔い改める沈黙の時間は貴重な時間です。ザカリヤは話すことができない日々、沈黙し神のみ声を聞き続けたのです。
私たちは沈黙の時が必要です。神の言葉と人間の言葉を聞き分ける訓練をしたいと思います。待降節の日々、自らの思いを語ることよりも、まず第 1 に神のみ声を聞くことを大切にしたいと思います。神のみ声を聞くということは、礼拝において与えられている基本姿勢です。神の御前に立つように招かれていることを感謝し、神のみ声を聞くために沈黙して過ごしたいと思います。待降節、時与えられて主の御前にしっかり立つことができるように神の御前に立つ姿勢を整えたいと思います。