銀座教会
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銀座の鐘

神の憐れみによって

説教集

更新日:2024年01月07日

2024 年1月 7 日(日)公現後第1主日 銀座教会 新年家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

テモテへの手紙一1章12~17節

 主の年 2024 年、最初の主日、新年礼拝を共に守れる幸いを感謝いたします。
 新年与えられた聖句は、使徒パウロが伝道者テモテに宛てた手紙です。テモテへの手紙は、ローマやガラテヤなど地域の教会に宛てた手紙と区別して、特定の個人に宛てた手紙で、テトスへの手紙と共に「牧会書簡」と呼ばれます。使徒パウロがローマでの軟禁状態から釈放される頃、教会の運営やキリスト者の生き方など牧会の問題について記した手紙です。テモテはパウロの伝道活動において大切な役割を果たした伝道者です。テモテは祖母ロイスと母エウニケがユダヤ人キリスト者で、父はギリシャ人でした。ユダヤ人への伝道のため、テモテは割礼を受けたことが聖書に記されています。後にテモテはエフェソ教会の監督になったと伝えられています。
 パウロがテモテへの手紙を書いた目的は、1 章 3 節以下に記されているように「異なる教え」、「作り話や切りのない系図」、「悪霊どもの教え」など、テモテが直面していた具体的な問題に対処するためでした。しかし、パウロは具体的な問題に答える前に自らの基本姿勢について語りました。私たちもキリスト者として、様々な具体的な問題に直面します。どうしてよいのか途方に暮れることもあります。その時、一歩退き基本姿勢を整えることが必要です。テモテが直面していた問題は、2 章では祈りについて、3 章では監督、奉仕者の資格、5 章以下も具体的な教会の課題です。そのような具体的な問題に取り組む際に、最も大切なことは、テモテが伝道者としての基本姿勢を整えることだと考え勧めています。
 使徒パウロは伝道者の基本姿勢を語る時、伝道者自身の資質や研鑽などではなく、まず主イエス・キリストが強くしてくださると語りました。師匠が弟子に忍耐しろとか頑張れとか、弱さや欠点を問題にして補強せよと助言していません。そうではなく、主イエス・キリストが強くしてくださると語ります。パウロ自身の伝道者としての経験から、主イエス・キリストが強くしてくださったと証しをしています。パウロ自身、どのようにして強くしていただいたのかというと、12 節「この方がわたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」。主イエスがパウロに伝道の務めを与え、使徒に就かせてくださった。ゆえに、強くされたというのです。
 私たちは教会においても職場においても、責任ある職務に就くことに直面します。そのたびに戸惑います。そして、できればそのような重い責任は負いたくないと考えることが多いのではないでしょうか。しかし、使徒パウロは、神に用いられることによって強くされた経験を通して、職務に就き、主なる神の支え、導き、鍛えられて、主にあって強くされたというのです。キリスト者としての仕事はそういうことがあるのではないでしょうか。大切な仕事を託されること、責任を持つ与えられたすべての職務は、神によって与えられた務め、天職であると受け止めます。そして、主イエスによって強くされるのです。
 パウロは、キリストに出会う前、神を冒瀆する者でした。キリスト者迫害の先頭に立っていました。しかし、神の憐れみを受けました。使徒言行録 9 章にパウロ、当時はサウロとして、主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいた姿が記されています。しかし、神の憐れみを受けました。サウロは天からの光に照らされて、地に倒されました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」、サウロがあなたは誰ですかと問うと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」。サウロが迫害していた主の弟子たちの痛みを誰よりも主イエス・キリストが感じ取っていてくださり、声をかけたのです。
 使徒パウロは、伝道者となった後も、キリスト者を迫害していた過去によって、人一倍、多くの困難を経験しました。迫害者から伝道者へ 180 度方向転換したことにより、ユダヤ人からもキリスト者からも信頼を失い、キリストに仕える道は厳しいものでした。しかし、にもかかわらず主イエスに従うことでパウロは強くされました。パウロは悔い改め、主イエス・キリストの支え導きによって、強くされました。
 この経験は、ほとんど全てのキリスト者が経験しているのではないでしょうか。私たちの資質によるのではなく、キリストが強くしてくださるのです。
 使徒パウロは肉体のとげが与えられていました。コリントの信徒への手紙二12章7~10節「そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
 私たちが信仰を与えられて生きるということは、キリスト抜きで生きているのではありません。キリストの使命を与えられて生きているのです。キリストの働きにあずかって生きているのです。私たちに与えられた仕事や職務が何であっても、そこにはキリストが私たちをその職に就かせたという任命と使命があるのです。私たちがどんな「とげ」をもっていても、テモテへの手紙1章14節にあるように、私たちには十分な恵みが与えられているのです。「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」 キリスト者は、一人一人肉体のとげが与えられています。しかし、それに勝る主の恵み、信仰と愛があふれるほど与えられているのです。主イエスの憐れみ、溢れる恵み、その原点の一つは、主イエスが最後の晩餐の席で、主イエスが弟子たちの足を洗ってくださったことにあると思います。
 ヨハネによる福音書13章1~9節、主イエスが弟子たちの足を洗ったことが記されています。主イエスが十字架刑で殺される前の晩、弟子たちとの食事の席上で指導者である主イエスが自ら弟子たち一人一人の足を洗ったという事件です。ペトロとの対話を聞きましょう。「イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。」 14「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」
 主イエスがお与えになる憐れみ、溢れる恵みの具体的な姿は、主イエスが弟子たちの足を洗ったことによって示されています。主イエスは自ら私たちの足もとに跪いて私たち罪人の足を手で洗って、拭いてくださいました。洗礼を受けて、聖餐にあずかった一人一人は、主イエスに足を洗っていただいた恵みの経験をしている者です。主イエスが自ら奴隷のようにひざまづき、足を洗ってくださったことによって、私たちは強くされるのです。主イエスの憐れみ、溢れる恵みは、弟子たちの足もとにひざまづくことによって、互いに足を洗い合って強くされるのです。
 相手の足もとに跪くことは、相手より低い姿勢になるのです。お互いに自らを低くすること、すなわち謙遜な姿勢です。しかし、ここで主イエスが教えていることは、私たちが人間同士の関係で相手と対等であると理解し、愛し合う謙遜な姿勢を実践しなさいということを越えています。謙遜であり、更に、罪を赦す神との関係です。弟子たちの足を洗った主イエスは、翌日、十字架上で罪の赦しを祈ってくださいました。互いに足を洗い合うこと、主イエスとの関わりとは、謙遜を越えて、十字架の主イエスを通して罪の赦しを思い起こすことを教えているのです。ゆえにパウロはテモテに 15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」と語りました。使徒パウロは人間関係の問題の渦中、罪人である自分自身を救う主イエスを見上げ、自分自身こそ罪人の中で最たる者であることを認め、主イエスに赦された者として伝道者の務めに就くことこそ、基本姿勢であることを確認したのです。この姿勢から問題に取り組むのです。
 信仰者は、主イエスが罪人を救う十字架の犠牲、愛と憐れみによって現された溢れる恵みによって、罪赦されて生きています。この原点に立つことを基本姿勢として、主の年 2024年、主の赦しの力によって強くされたいと願います。祈りましょう。