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銀座の鐘

聖書の信仰

説教集

更新日:2024年01月14日

2024年1月14日(日)公現後第2主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

テモテへの手紙二 3章14~4章5節

1、聖書を通してイエス・キリストを知る

信仰生活の喜びとは、神を知る喜びであり、神に知られている喜びであります。神に愛されていることを知る喜びであるのです。そしてそれは、イエス・キリストの恵みを知り、イエス・キリストを信じることを通して知らされていく喜びであります。
 ではイエス・キリストを知るためにはどうすればよいのでしょうか。それは、聖書によって知ることができるということであります。聖書とは何か?一つには、聖書とは、イスラエルという実在の国民を通して、神が愛をもって働きかけた歴史であると言えます。それが聖書の前半部分である旧約聖書ですね。そして、新約聖書は、神の愛、神の救いが、イスラエルだけではなく、全世界の国民に及んでいることを語り伝えているものです。旧約39巻、新約27巻の書物によって成り立っているもので、一つ一つの書物が独立していながら、深い関連性を持っているのです。因みに、旧約の約も新約の約も、契約、約束、という意味でありまして、翻訳の訳ではありません。キリスト教を知らない人はそういう誤解をしている人がいると聞いたことがあります。つまり、契約とは、神様と人間との間の契約。イスラエルの、アブラハムという一人の人、そしてその子孫がイスラエル国を造ったのですが、そのアブラハムを神が人類から選び出して、祝福し、契約を立てた。イスラエルよ聞け、わたしはあなたを愛し、神であるわたしを証しする民となる、と。そういうわけで、2000年前まではイスラエルだけが、世界でただ一つの一神教として、一人の神様を信じ、信頼する国であったのです。
 イスラエルの周りにある、他の国々が多神教である中でそれはかなり奇異に映ったわけです。それは、八百万の神を拝む日本でもそういうところがあるかもしれません。だからなかなか、日本ではキリスト教の教会に入信する人が少ないのかもしれません。しかしこのような国で、それでも信じる人が興されて、教会が立っているということは、神様がこの日本を愛している証拠であると思います。
 少し話がそれてしまいましたが、旧約の神様も新約の神様も同じ神様です。しかし新約聖書において、イエス・キリストという方がはっきりと登場します。しかしそれは新約から初めて登場するのではなく、旧約聖書ですでに預言されていました。聖書とは、その全体においてこのイエス・キリストという方を人類の救い主。人間の罪からの救い主として指し示しているというわけです。

2、聖霊の導きによって御言葉を聞く

 さて、そのように、聖書はイエス・キリストという方を指し示している、と申しましたけれども、聖書を読んで、研究している人はたくさんいるのに、イエス・キリストを信じない人もおります。単なる道徳書や、歴史書の一つとして読む人もいるわけです。しかし、聖書は道徳書ではありません。道徳で人は救われないからです。いくら善行を積んでも、神様の御前に罪人でない人はいないと聖書ははっきりと書いていますから。単に善い行いをするのではなく、神様を愛し、神様に従うことが大切なのです。
 また歴史書として考えるならば、かなり不十分なものでもあります。そういう目的で書かれているものではないからです。もちろん、イエス・キリストが2000年前にナザレという町に実在し、十字架にかけられて死んだということは歴史的事実として認められていますけれども、復活して弟子たちに現れた、ということは聖書が語る事実であり、キリスト者以外はそれを信じません。では、キリスト者はなぜそれを信じているのか。普通に考えたら、どうして十字架にかかった人が死んでから三日目によみがえるなどということを真剣に信じられるのか。おかしなことであり、信じがたいことです。しかしそのおかしなこと、信じがたいことが、信じることによって大きな喜びと希望が湧くことであるからです。神が、この世界の主人として、人間を愛してくださっているということ。イエス・キリストという方が、わたしたちが、死を怖れなくて済むように、死を超える命の道を切り開いてくださったということ。神の子が、わたしたちと同じ苦しみ、悲しみ、誘惑に遭われたので、私たちは、決して独りぼっちではないということ。どんな時も神様が一緒にいてくださり、上からの助けを与えてくださること。罪を赦してくださっていること。もっといえば、主イエスの十字架を通して始まった人間の救いが、将来、この世の終わりに完成すること。憎しみも差別も殺し合いも、人間のありとあらゆる罪がなくなる日が来るということ。神様の国。神様の御支配が来るということ。それらは私たち信じる者にとって喜ばしい真実です。本当だと信じられるから、生きる力となるのです。しかし、そう信じるのは、わたしたちの力でできるものではありません。聖霊が、御言葉を通して私たちの心を照らしてくださるから、御言葉を聞くときに信じる心が与えられていくのです。
そのように聖書には、神様の霊であります聖霊の力が働く。そして聖霊は、聖書を正しく読み解く力を与えてくださり、必ず、イエス・キリストに導いてくださいます。聖書は人間が書いたものです。しかし人間の心の内に、神様の霊が働いてくださり、その御心を書物としてまとめてくださったと言えましょう。だから、人間が書いたものでありながらも、神の言葉として聞くのです。聖書は普遍的に、どの時代のどのような人が聞いても、真理が示されている書物であるからです。それゆえに、3千年前、また2千年前に書かれた書物を、現代のわたしたちが、今も礼拝のために用いるのです。ですから聖書はわたしたち教会にとって、古書ではなく、聖霊が働いてくださる、いつもわたしたちにとって新しい言葉として響く、神の御言葉なのですね。人間がその知恵だけで書いたものは、その時は新しくても、時間と共にすぐに古くなってくる。でも、聖書は、時代を超えて今も語りかける、常に新しい言葉なのです。そしてイエス・キリストは、今もいつも、新しく、生きておられるとわたしたちは信じております。

3、教会の礼拝の中で御言葉を聞く

では、わたしたちは、聖書をどこで聞くのか。それはまず第一に、教会の礼拝で聖書を聞くことが一番大切であると言えます。それは、聖書は教会の礼拝において説教されることによって、神様の言葉となるからです。今も昔も、神様は、信じる者たちが集まって礼拝する中に共におられると約束してくださっています。そこで御言葉を聞き、それを解き明かす人。すなわち、牧師や司祭が立てられ、礼拝の中で聖書の御言葉の解き明かしがなされていく。そこにこそ聖霊が豊かに働きかけ、信じる者を興してくださるのです。ですから、教会の門を通らず、教会の外で、神様はいるか、いないかを云々してみても、何も始まりません。神様は信じる者たちの内におられるからです。しかし教会の礼拝に出席し、御言葉を聞いていく中でこのような体験をすることが誰でもできるのです。
「皆が預言しているところへ信者でない人が、教会に来て間もない人が入ってきたら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなた方の内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(コリントの信徒への手紙一14章24節~25節)この御言葉にあります、「預言」というのは御言葉の解き明かしである説教と考えても良いと思います。また教会は、初めて礼拝に来られた方に、あなたは罪人だから悔い改めなさい、などと迫るような乱暴なことは決してしません。しかし聖書の御言葉を真剣に聞き、その御言葉を通して神を礼拝し、御心を知る中で、聖霊が、わたしたちの内の罪を示してくださるのです。そこで、誰に対して迷惑をかけていなくても、神様に対して、罪人であった。神様から離れて、自分中心の人生を生きていたこと。人生の意味を知らずに生きていたことを指し示され、神様の方に心を向けて生きるようにされる。それが聖書が伝える本当の悔い改め、回心です。ただ、悪に染まっていた人が、真人間になるというのではなく、神様に心を向け、神様に栄光をあらわすために生きるようにされていく。それが、聖書が伝える、人間の本当の生き方であり、そこにこそ人間の本当の喜びがあるのです。
そしてそのようにしてくださるのは、聖書の御言葉を通して、私たちの内に神様がその心に来てくださり、神様の愛を少しずつ、知っていく中で、イエス・キリストが今も生きておられること。私たちを愛してくださっていることを真実、事実として受け止めることができるようになるからです。それは、単なる歴史的史実、事実を超えた、真理です。史実や事実がどれほどはっきりしていても、それは私たちの人生を変えることはありません。しかし、聖書を通して神様が、私たちの人生に来てくださるとき、わたしたちの人生は本当に変わるのです。聖書とはそのように、私たちを本当に変えていく力のある書物であるということを信じ、聖書が伝える主イエス・キリストとの出会いを待ち望みつつ御言葉を聞いていきましょう。
お祈りいたします。

天の父なる神様。わたしたちに、真理の書物である聖書を与えてくださり、今も聖書を通してわたしたちにあなたの御心を示してくださっております幸いを心より感謝いたします。わたしたちが、聖書に親しみ、御言葉を通して生けるキリストと出会い、聖霊に導かれて歩むことができますように。御言葉を通して、聖霊がわたしたちにあなたの御心を示してくださり、日々、霊的に成長し、実を結ぶ者とならせてくださいますように。独りで御言葉を読むときも、共に礼拝の中で御言葉を聴くときにも、あなたが私たちと伴ってくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン