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銀座の鐘

偽りのない兄弟愛

説教集

更新日:2024年01月21日

2024 年1月21日(日)公現後第3主日 銀座教会 新年家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一1章22~25節

 イエス・キリストを信じる信仰者たちには、聖霊によるいろいろな賜物が与えられると約束されています。そのうちでも大きな賜物は、信仰と希望と愛であって、なかでも愛は「最も大いなるもの」と言われます。ですから御霊による信仰生活は、神を信頼し、また究極の希望を神によせる生活ですが、とりわけ愛のある生活なのだと言ってよいでしょう。ですが、それが私たち自身の信仰生活の中でどれだけ身についているでしょうか。通り一遍な言い方としてでなく、愛の生活が分かっているか、分かっているだけでなく、そのように生きているかと問われるのではないでしょうか。
 今朝の御言葉の直前には、「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」とありました。あなたがたは神を究極的に信頼し、神に究極の希望を置くでしょう。そのあなたがたが愛を生きているか。それが今朝の問題です。22 節に言われます。「あなたがたは真理を受け容れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」、と。だから、「清い心で深く愛し合いなさい」と言われます。信仰と希望に次いで、愛が語られ、それも特に「偽りのない兄弟愛」が語られて、「互いに愛し合いなさい」と命じられます。それが信仰生活のあり方でしょう。今朝はこの「偽りのない兄弟愛」に思いを向けたいと思います。
 「兄弟愛」は、家族のような一つの群、同じ共同体に属していることを前提にしています。血縁は繋がっていなくとも、同じ共同体のメンバーとして兄弟、姉妹たちであって、その間にある相互の愛が「兄弟愛」(フィラデルフィア)と言われます。聖書の中には「兄弟愛」だけでなく、例えば「隣り人」を愛する「隣人愛」も語られている箇所があります。それも信仰生活の愛にはあることでしょう。主イエスは「隣り人」を愛するように人々に語られました。すると「隣り人とは誰か」と訊く人もいて、そのとき主は「よきサマリア人」の話をされたと言われます。サマリア人は、当時、地域的にはユダヤ人と接して生活していましたが、民族的、そして宗教的に対立していました。そのサマリア人の旅人が、傷ついたユダヤ人の隣り人になったという話です。そして「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ 10・37)と主イエスは言われとあります。「隣人愛」は集団的には敵対している部族や人種をも越えた愛で、同一の共同体に属している者同士の「兄弟愛」をある意味では越えているところがありました。さらに言えば、主イエスは「敵を愛しなさい」(マタイ 5・44)とも語って、主の弟子として生きる者の愛には「愛敵」さえも含まれるわけです。「隣人愛」の極みは敵である者の隣り人にもなって、「愛敵」に生きることにもなるわけです。愛を色々と比較するのもおかしなことですが、「兄弟愛」以上の愛もあると言えなくはないかもしれません。しかしまたその主イエスも、弟子たちに対し、「互いに愛し合いなさい」と語っています。つまり「兄弟愛」を語って、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ 15・12 以下)とも言われました。「友のために命を捨てる」というのは、同一の共同体にいる兄弟である友のためにということだと考えられます。
 ペトロの手紙を読んでいて著しい特徴があることに気付きます。それは、今朝のこの箇所を最初にしてですが、何度も「兄弟愛」を語ることです。計 4 回くらいに及ぶでしょう。そしてこの手紙は「兄弟愛」しか語りません。例えば敵への愛とか隣人愛を語りません。その他に愛を語っているのは、1章 8 節の「あなたががたは、キリストを見たことがないのに愛している」というキリストへの愛の箇所だけです。あなたがたは見えないキリストを愛している。そしてその同じキリストを愛している者同士、つまり主の弟子たちであり、それゆえ兄弟になった者同士が互いに愛しなさいと言うのです。それは教会における兄弟姉妹の愛を語っています。兄弟を「清い心で深く愛し合いなさい」と命じます。なぜでしょうか。
 教会の中に内輪争いがあったからでしょうか。そのように読むことは不可能です。内輪争いはここには出て来ません。そうでなくて、外からの圧迫が増し加わるのに教会が直面し、教会生活が脅かされていることが明らかだったからです。「各地に離散し仮住まい」(1・1)している教会の群は、この世の困難や危険にさらされています。「敵である悪魔が、ほえたける獅子のようにだれかを食い尽くそうと探し回っている」(5・8)と言う文章がこの手紙の後の方で記されます。そうした悩み多き状況の中で「偽りのない兄弟愛」こそが支えになります。迫害状況下にあって個々人がばらばらに試練に遭うのでは耐えられません。しかし教会の交わりが偽りのない兄弟愛によってしっかりと結ばれていたらどうでしょうか。どの一人一人も支えられるのではないでしょうか。ですから「教会形成」と言われますが、本当の教会形成はこの「偽りのない兄弟愛」による団結ということを含むでしょう。ペトロの手紙、全体で 5 章のこの短い手紙に4度にわたって兄弟愛が語られることは、重視しないわけにいかないでしょう。
「偽りのない」といのは偽善的でないことです。ここには「役者」とか「舞台俳優」という言葉が含まれ、それが否定されています。教会の兄弟愛は「ふり」をしたり、「演じている」のとは違う、「真理に従っての心からの愛」と言われます。
 そういう相互の愛が一体、可能なのでしょうか。偽りのない兄弟愛を抱き、清い心で愛す。そういう愛の交わりの教会形成が現実に可能でしょうか。ペトロの手紙は可能だといいます。それには理由があり、根拠があるからです。そう言って 23 節でその理由や根拠を語ります。ですからここには「なぜならば」と補って、読んでよいと思います。なぜなら「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのだからです」と言います。
 この意味は、あなたがたは人間なのだから兄弟愛が可能なのだと言っていません。そうでなく、信仰によって再生した者たち、「新たに生まれさせられた」からだと語っています。生まれながらの人間ということで兄弟愛が可能とは言えないことは、聖書は最初の罪の表現をカインとアベルの物語でよく知っています。しかし「新たに生まれ」、あるいは「再生」について、すでに 1 章 3 節にも語られていました。「神の憐み」と「主イエス・キリストの復活」によって新生させられたと言われました。23 節では「神の変わることのない生きた言葉」によって「新たに生まれたのです」と語られます。「神の変わることのない生きた言葉」とは、神の命と恒久性をもった信頼できる言葉であり、その神の語りかけが私たちを新たに生かし、いつまでも生かし続けると言うのです。信仰者のうちに新しく産み出される命は「神の子とされた命」です。神の子とされた者たちの兄弟姉妹の交わりが生き続けます。神の生きた持続的な言葉が兄弟愛を産み出すと言うのです。
 ペトロはこれをさらにイザヤ書 40 章の言葉と結び合わせました。「草は枯れ、花は散る」。よく知られたバビロン捕囚の時代の預言者の言葉です。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ」。祖国の崩壊と敵国の支配下に生きた預言者の目に、人は皆、その華やかさもろともに枯れる草と見えます。エルサレムはすでに灰塵に帰し、イスラエルは心身共に荒廃の中におかれました。しかもそこには神の審判も意味されていて、「主の風が吹きつけた」のだとも言われました。しかしそのなかで「神の言葉は永遠に変わることがない」と預言者は伝えます。「神の変わることのない生きた真実の言葉」が生かす、新しく生き返らす。この「言葉」がここでは、神がその息遣いとともに語りかける言葉(レーマ)として訳され、神の命の息と共に語りかけられる言葉は「福音」だと言われます。福音とは神の贖いの御業の告知です。それは神がキリストを死者の中から復活させて、栄光をお与えになった大いなる御業の知らせです。ですから、ある解釈者は福音というのは、「苦難から栄光に変えられる」という知らせだと言います。神の生きた言葉、生かす福音が、あなたがたを新たに生まれさせ、その同じ神によって生き変えらされた者たちとして兄弟と共にあることができる。神の御業の福音が、兄弟愛を生きることを可能にするでしょう。「偽りのない兄弟愛」が与えられます。そしてたとえ小さくとも、支え合う教会の交わりが、迫害状況下にあっても、神の御業による成長力を示すでしょう。福音によって生かされることは、「偽りのない兄弟愛」を生じさせます。だから、「清い心でしっかりと愛し合いなさい」。

 天の父よ、あなたの福音の息吹によって「偽りのない兄弟愛」の中に生かされていることを感謝します。それぞれに試練を受け、迫害状況下に置かれる私たちです。それゆえに御言葉の真実に生かされ、わたくしたちも偽りのない兄弟愛に、清い心でしっかりと主にあって生きる者とさせてください。世界各地の主の教会のうえに、とくに重い試練を負っている被災地の教会や侵略戦争の中に置かれた教会、その兄弟姉妹のうえに、あなたの福音が伝えられ、苦難から栄光に変えるあなたの大いなる御業を信じて、兄弟愛に生きることができますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。