銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘
  3. 永遠に変わらない神の愛に基づいて


銀座の鐘

永遠に変わらない神の愛に基づいて

説教集

更新日:2024年01月27日

2024年1月28日(日)公現後第4主日 銀座教会 礼拝 伝道師 山森 風花

ヘブライ人への手紙 13章1~8節

 本日私たちに与えられている聖書箇所は、ヘブライ人への手紙 13章1-8節です。この手紙の終わりの部分において、キリスト者として生きるとは、神に喜ばれる生き方とは、一体どのようなものであるかということについての具体的な倫理的勧告、勧めの言葉がいくつか記されています。
 さて、今、勧告と私は言いましたが、この勧告というものは、このヘブライ人への手紙を読むとき、非常に重要です。なぜなら、私たちはこのヘブライ人への手紙を読むとき、この手紙が手紙の中で、何度も長い勧告の言葉を記していることを見ることができるからです。そのため、ある人たちはこの手紙を勧告ないし説教、それも、いくつかの説教が集められた説教集として教会に送られたものであると考えています。いずれにせよ、私たちは、この手紙が勧告に重きを置いて書かれている、少なくとも、パウロの手紙に比べると、勧告に関して大きな特色をもった手紙であるということができると思います。確かに、私たちキリスト者がこの地上での信仰生活を生きていくために、神に喜ばれる生き方、信仰者として相応しいあり方についての勧告というのは、必要不可欠なものです。なぜなら、私たちキリスト者の本国はこの世界にあるのではなく、天にあるからです。ですから私たちは、私たちの本国である天におられる父なる神様に喜んでいただける生き方をこの地上においてするために、それに相応しい倫理を知り、身につける必要があるのです。
 しかし、ヘブライ人への手紙は、勧告の言葉に重きが置かれている手紙であると聞くと、この手紙の受取先である教会に何か特別に倫理的な問題があったのだろうかと思ってしまう人もいるかもしれません。ですから、私たちはこの手紙を読むとき、このヘブライ人への手紙がどのような時代の、どのような教会に当てて書かれた手紙であるのかということを少し確認したいと思います。
 このヘブライ人への手紙は、1世紀末のローマの教会に当てて書かれた手紙だと考えられています。この成立年代から、この手紙が書かれた教会が今まさに、迫害のある時代の中に置かれ、この恐怖の中で、教会から、信仰から離れてしまう、そのような誘惑と戦っていたということが分かります。また手紙の成立年代からだけではなく、この教会がかつて迫害を経験し、また、今も迫害の恐怖に晒されていた時代に置かれた教会であったということは、10章32-36 節にこのように記されていることからも私たちは窺い知ることができます。
 10:32 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。33 あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。34 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。35 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
 今お読みしました聖書箇所において語られているのは、迫害への恐怖の中にある教会に対して、それでも忍耐を持って終末の時を、報いが与えられるそのときを待つように、信仰から離れないようにという勧告の言葉です。この言葉からも明らかなように、ヘブライ人への手紙の著者は、今まさに不安と恐れの中に置かれている教会に対して、信仰から離れないようにと、慰めと励ましを勧告の言葉を通して語っているのです。このように、この手紙の著者は勧告の言葉を通して、慰めと励ましを、危機的困難の中で信仰が揺るがされそうな教会に対して語っているということを頭の片隅におきつつ、本日の聖書箇所に記されたいくつかの勧告の言葉を見ていきたいと思います。
 さて、本日私たちに与えられている聖書箇所の直前、12章 28節には「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」という言葉が記されています。私たちはこの言葉を受けて、神に喜ばれる生き方とは、どのようなものかということが、この 13章に記されていると考えることができると思います。そして、この神に喜ばれる生き方として、最初に取り上げられているもの、それが「兄弟としていつも愛し合いなさい。」と 1節に記されているように、兄弟愛です。この1節を直訳すると「兄弟愛に留まれ」となりますが、兄弟愛と訳されている原文のギリシャ語はフィラデルフィアという言葉です。皆さんもアメリカの都市の名前としてこの言葉を聞いたことがあるかと思います。このフィラデルフィア、兄弟愛という言葉は、古代の一般社会において重要視されていたものでした。しかし、新約聖書においてこのフィラデルフィア、兄弟愛が語られるとき、それは、神の愛によって神の子とされ、信仰によって結ばれた、教会の兄弟姉妹への愛のことを指しています。つまり、神の愛に基づく兄弟愛のことを指しているのです。このような教会においての、キリスト者同士の、互いに慰め、励まし合う兄弟愛というのは、迫害の中に置かれていた教会において、信仰に固く立つために非常に重要なものでした。
 しかし、神に愛された者として、互いに愛し合い、互いに思いやるこの兄弟愛というのは、いうまでもなく、現代の私たちの教会にとっても重要なものです。ですから、この手紙を直接に受け取ったローマの教会だけではなく、今この手紙を読んでいる私たちも、この兄弟愛を身につけるようにと勧められているのです。この兄弟愛は、一回愛したことがあるからそれで良いと言うものではありません。いつも、いつまでも、この兄弟姉妹の愛の関係に留まるようにと私たちは言われているのです。そして、この兄弟愛が具体的な形となったものとして、2節で旅人をもてなすことが挙げられています。この旅人をもてなすと言うのも、教会だけではなく、古代の世界において一般的に美徳とされていたものでした。ですが、おそらく、この 2節で特に言われているのは、同じ信仰を持った旅人のもてなしのことだと考えることができると思います。
 私たちの銀座教会にも、どこか遠方の教会からやってきた同じ信仰を持つ兄弟姉妹が旅の途中に来られることがあります。私たちはこの兄弟姉妹を喜んで迎え入れます。そして、普段は遠く離れた場所で礼拝を捧げている兄弟姉妹と共に、銀座教会の礼拝堂において、共に礼拝をささげる恵みにあずかり、時には礼拝後にそれぞれの教会について互いに話し、教会で起きた喜びの出来事、また、苦難や困難について聞き、慰め励ましあう、そのような交わりの時が恵として与えられることがあります。
 このように旅人をもてなすということは教会同士の交わりにとっても重要なものですが、手紙の著者は旅人をもてなすことによって、「ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」と続けて言うのです。これは天使、つまり、主の御使いと知らずに旅人をもてなした創世記のアブラハム、あるいはロトのことを指していると考えられます。このような信仰の先達たちの姿を見て、私たちも彼らのように旅人をもてなすことを忘れてはならないと著者は言うのです。そして、このように、自分の教会の中の兄弟姉妹だけでなく、旅人である兄弟姉妹をも、兄弟愛を持ってもてなすように1-2 節で語られた後、この兄弟愛はさらに獄中の兄弟姉妹にまで届くのです。
 それは3 節に「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」と記されているとおりです。
 先程、この手紙は迫害のあった時代に書かれたものであり、引用した10章 32節以下にも、この教会がかつて迫害を経験し、苦しみの中でも、耐え忍んだことが記されていました。おそらく、この手紙を読んでいた時、この教会には、牢に捕らえられるなどの直接の迫害はなかったのかもしれません。しかし、今まさに、他の教会では、同じ信仰をもった兄弟姉妹の中から、牢に捕らわれ、体を痛めつられ、虐待されている人たちがいたのです。この手紙を読んでいる人たちにとっても、それは他人事でありませんでした。次は自分たちの番かもしれないのです。ですから、この迫害への恐怖から教会から離れ、信仰から離れたいという誘惑との戦いがこの教会にはあったのです。
 しかし、手紙の著者はそのような迫害への恐怖と不安の中で逃げるのではなく、むしろ、今まさに、牢に捕らわれ、虐待されている人たちから目を背けるなと言うのです。そして、自分も一緒に捕われているつもりで、兄弟姉妹がどのような苦しみの中にいま置かれているかを想像して、思いやりなさいと言うのです。当然これは祈りをもって、共にこの苦しみにあずかることだったと思います。また、それは使徒パウロが牢に捕らわれている時でも、交わりを持つことをやめず、時にはこのパウロに奉仕するために彼のもとへと行き、奉仕した初代教会の人々のような思いやりだったかもしれません。
 このような兄弟愛は決して私たち人間の愛からは出ません。私たち自身の力では迫害を前にして逃げないでいることも、ましてや、捕らわれた人たちへの思いやりを実践することなど決してできないからです。でも、初代教会は、私たちの信仰の先達は、このような迫害の中にあっても、信仰を守り続けたのです。兄弟愛を実践し、互いにこの迫害の中、支え合い、励まし合いながら耐え忍んだのです。それは私たち信仰者の兄弟愛の根底にあるものが、永遠に変わることのないお方、神の愛に他ならないからです。
わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と私たちに約束してくださるこのお方の愛に基づいた兄弟愛、それが私たちの兄弟愛なのです。6節以下の言葉は、まことに真実であり、輝いています。そして、著者は最後 8節で、このように記します。
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
 きのうも今日も、永遠に変わることなく、私たちを愛し、私たちのために祈り、いつも私たちと共にいてくださる神の御子、イエス・キリスト。この方こそが私たちの主であられるのです。この方によって示された神の愛に基づいて、私たちは私たち罪人が本来抱くことのできないような兄弟愛を神によって抱くことが許されているのです。またそればかりか、隣人を愛することさえも許されているのです。このような大いなる恵みが私たちに今、すでに与えられていることを覚え、感謝しつつ、愛を持って祈り合いながら、新しい一週間も皆様と共に歩んでまいりたいと願います。