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銀座の鐘

生まれたばかりの乳飲み子のように

説教集

更新日:2024年02月18日

2024年2月18日(日)受難節第1主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一2章1~3節

 キリスト信仰者は聖書の中で「羊」に譬えられたり、「葡萄の木の枝」に譬えられたりします。それぞれの譬えは、主イエスとの関係が極めて重大で、信仰生活の特徴は主イエスとの関係にかかっています。信仰者が「羊」に譬えられるのは、主イエスが「真の羊飼い」であって、羊のために命を捨てるお方、そして迷子になった羊を捜し、見つけ出すまで探すお方であるからで、私たちは主イエスによって捜し出され、見い出された者たちであることを意味しています。「葡萄の枝」と言われるのは、主イエスが葡萄の幹であるからで、枝は幹に繋がることで豊かな実を結ぶからです。
 それでは今朝の御言葉はどうでしょうか。ここにはキリストを信じる者たちは「生まれたばかりの乳飲み子」のようにと言われます。この言い方は、聖書のここだけにある言い方で、ほかにはありません。それもキリスト者になったばかりの人たちだけでなく、キリスト者はみな「生まれたばかりの乳飲み子のよう」であれ、と言われています。この譬えは、主イエスとのどういう関係から来ているのでしょうか。
 はじめに「捨て去りなさい」と言われます。悪意とか偽りとか全部で五つの悪徳が挙げられて、これらをみな捨てよと言われます。「捨て去る」は、「脱ぎ捨てる」という言葉です。「みな」とあるのは、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」とありますが、そのうち「あらゆる」とか「すべての」と言う言葉が三つについています。あらゆる悪意、すべての偽り、一切の悪口を脱ぎ捨てなさいです。ということは私たちは、そうしたものを着ていたわけです。しかし「生まれたばかりの乳飲み子」は裸で、古い衣服を着ていません。人間はなぜ悪意や偽り、偽善、ねたみ、悪口を身に着けるのでしょうか。それらで身を守ろうとするのでしょう。なぜでしょうか。人々の間で不安があるのではないでしょうか。だから偽善で身を守り、偽りで自分をよく見せようとします。妬むのは自分が劣っていると感じる不安や不満の現れでしょう。悪口を言うのが楽しいのは、それによって自分の方を上に置いて身を守ろうとするのではないでしょうか。
 しかし福音によって新たに生まれさせられたなら、乳飲み子のようにそのままで不安はありません。古い衣を脱ぎ棄ててよい。「悪意」「偽り」「偽善」「ねたみ」「悪口」はみな古い衣で、そのどれもが兄弟愛を破壊します。しかし福音、神の救いの御業によって新しく生かされ、再生の恵みに生きとき、もはや「悪口」を言う必要はありません。「偽り」や「ねたみ」で身を守る必要はなく、みな脱ぎ捨てていい。古い衣を脱ぎ棄てれば、新しい衣を身に纏うことが言われるところですが、ここではそれに換えて、乳飲み子がしきりに乳を慕い求める姿が描かれます。そのように霊の乳を慕い求めなさいというわけです。
 悪意や悪口を「脱ぎ捨てる」に対応した新しい産着を纏うことは記されていません。しかし乳飲み子は、自分の裸の状態を不安とせず、霊の乳を慕い求めます。「これを飲んで成長し、救われるようになるためです」とあります。キリスト者が救いの中に新しく生まれさせられたのは、神の豊かな憐みとイエス・キリストの復活によってですが、また前回は「神の変わることのない生きた言葉によって」であると言われました。
 新しく生まれさせられたことは、すでに救いの中に入れられたことです。そして救いに入れられた者として、その救いの全き完成に向かって成長させられます。ですから救いは、新しく生かされた私たちの出発点であって、目標はその救いのまったき完成です。そこに向かって信仰生活は成長していくというのです。救いに始まり、救いに向かって成長する。そのために「生まれたばかりの乳飲み子」のように霊の乳を慕い求めなさいと言うのです。
 キリスト者が「生れたばかりの乳飲み子」であるのは、主イエスがどのようなお方だからでしょうか。それを記すのが 3節の御言葉です。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」とあります。「生まれたばかりの乳飲み子」であるキリスト者は、主が恵み深い方だということをすでに「味わった」のです。主イエスをすでに味わって、今も味わっています。主は乳飲み子に御自分の恵み深さを味わわせ、慕い求めさせ、成長させ、まったき救いの完成へと養い育ててくださいます。主は「恵み深い方」だからです。「恵み深い方」というのは、原語で「クレストス」と言います。「主がクレストスであることを味わった」とあるわけです。主はキリストです。クリストス(油注がれた方)です。その一文字キリストの「リ」につく「i」を「e」に変えると、「主はクレストスである」となります。「クレストス」は「親切で恵み深い方」という意味です。主はキリスト、油注がれた方ですが、そのキリストはクレストス、恵み深い方です。その恵み深い方の恵みを私たちはすでに味わったし、日々味わいます。そして満ち足りています。妬んだり悪口を言う必要はありません。主の深い恵みに満足しているからです。不安や不満は根本的にはもうありません。それが「乳飲み子」であるということであり、主が「クレストス」であることに根拠を持っています。この言葉にはもう一つの意味があって、クレストスとは素晴らしい飲み物、素晴らしい食べ物のことを言います。
 生まれたばかりの乳飲み子が、どんなふうに乳を飲むかは、誰もが知っています。霊の乳、人を生かす命の乳を求めます。「乳飲み子」が乳を慕い求める。ああいうふうに熱心に霊の乳を求めよ、熱心に求めて、主の恵み深さを味わいなさいと言うのです。そしてその恵み深さをもうすでに味わったはずだとも言います。
 主の恵み深さを慕い求めるには、どのようにしたらよいのでしょうか。主の恵み深さ、その素晴らしい飲み物をどこで、どう求めたらよいのでしょうか。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」。この言葉は、詩編34編から引用され、聖餐式に用いられます。「主の恵み深きことを味わい知れ」、「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。聖餐にあずかるとき、パンとぶどう酒をとおして主の恵み深さを味わい、それによって生かされ、成長させられます。十字架に裂かれた主の体と流された血の中に主の恵み深さがあり、聖餐をとおしてそれにあずかるとき、「霊の乳」を戴き、主の恵み深さを味わっています。
 「霊の乳」とあるのは、言葉(ロゴス)と類似の言葉が使用されています。それでその意味はむしろ「理に適った」と訳されることもあり、理に適った混じりけのないミルク、さらには「御言葉のミルク」と訳される場合もあります。聖餐において主の恵み深きを味わうと共に、主イエスが神の口から出る一つ一つの言葉によって人は生きると語られたように、私たちを生かす理に適った御言葉の乳を味わうとも理解できます。その言葉は、福音であると前の章の最後に言われていました。主の恵み深さを味わうことができるのは福音によってです。福音は主イエスを十字架の死から起こして、復活の栄光へ入れてくださった神の御業を伝える言葉だからです。それは苦難の中で常に助けてくださる神の働きです。その福音を霊の乳として味わい続けることができます。
 どうしてペトロの手紙は詩編34編を引用したのでしょうか。2章3節だけでなく、4節もそうですし、この先にも出て来ます。詩編34編は苦難から救い出してくださった神を謳った詩編だからでしょう。「苦難から常に救ってくださった」と歌い、「苦難から常に彼らを助け出される」と歌います。「主の使いは主を畏れる者の回りに陣を敷き、彼らを助け出した。」そして「味わい、見よ。主のめぐ深さを」と歌うのです。苦難から栄光に変える神の働き、それを伝える福音、その福音を味わうこと、それが救いの完成に向かって乳飲み子を成長させます。ですから、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と言われます。アーメンと答えたいと思います。

  天の父よ。あなたが苦難から常に助け出してくださることを感謝いたします。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」とおっしゃってくださり、感謝いたします。主の恵み深さに私たち満足し、あらゆる悪意、偽り、偽善、ねたみ、そしてあらゆる悪口を脱ぎ捨てることができますように。そして主の恵み深さと霊の乳、御言葉のミルクを慕い求め、救いの完成に向けて成長させていただくことができますように。特に今日も苦難の中にあって、重き荷を負っている兄弟姉妹に、苦難から常に救って下さるあなたの御業の福音が示され、恵みに満ち足りて生きることができますよう、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。