「復活を信じる恵」
説教集
更新日:2026年04月04日
2026年4月5日(日)復活節第1主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 牧師 髙橋 潤
ヨハネによる福音書20章1~10節
1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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本日は十字架上で息を引き取られた主イエスが三日目に復活したことを覚えるイースター礼拝です。主イエスが復活したことを信じる信仰がキリスト教の中心です。この中心は揺らぐことはありません。復活した主イエスと出会った経験が世界に広まり、世界中にキリストの教会が生けるキリストと共に生きているのです。
世界のほとんどのキリスト教会は毎週日曜日の午前に礼拝を献げます。なぜ日曜日の午前にこだわるのでしょうか。それは、主イエスが日曜日の朝復活したからです。最初の教会は、復活の主イエスに出会った人々が、ユダヤ教の安息日である土曜日ではなく、日曜日に集まるようになりました。日曜日の朝には、復活した主イエスとの再会を思い出し、その記念として復活の主イエスと出会った喜びを分かち合って来たのが教会です。そして、その喜びが一人でも多くの人々に伝えたいという伝道する力につながっていきました。この復活の主イエスとの出会いが福音という喜びの知らせとなり広がって、世界に教会が建てられているのです。
金曜日に十字架に架けられた主イエスは、苦しみの中で十字架の下にいる一人一人のために祈り、息を引き取られました。主イエスは、十字架から下ろされ、議員であったアリマタヤのヨセフの墓に納められました。しかし、安息日(土曜日)が明けた日曜日の朝早く、この墓に行ったマグダラのマリアたちは、墓の中にいるはずの主イエスがいない、空の墓を見たのです。この空の墓は、信じるものにとっては復活の主イエスが歩き始めた場所であり、主イエスが復活の第一歩を踏んだ場になりました。空の墓が世界の教会にとって、死から復活へ、絶望から希望へ、闇から光へという大きな分岐点になったのです。私たちが主イエスの復活の知らせを聞き、信仰をもって主イエスと出会うという、信仰の原点が空の墓なのです。この聖書の御言葉は私たちの信仰の原点を指し示しているのです。
世界のキリスト教会が日曜日の朝、礼拝を献げるようになるためには、ローマ帝国の迫害の時代を乗り越えなければなりませんでした。紀元 1 世紀から 4 世紀まで長く困難な迫害の時代を生き抜いたのが初代教会です。迫害から新しい時代に転換していくのは、紀元4 世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌス 1 世の時代でした。西暦 321 年 コンスタンティヌス帝が「太陽の日(日曜日)」を休養日とする勅令を出しました。この勅令により、それまで仕事をしながら早朝や夜に密かに集まっていたキリスト教徒たちが、堂々と日中に集まって礼拝を行うことができるようになりました。キリスト教会が迫害されていた時代が終わり、復活のキリストを隠れることなく公に、声高らかに御言葉を読み、賛美を歌い、祈ることが出来るという、現在では当たり前のことがようやくできるようになりました。復活の主イエスを覚えて喜び祈るための社会的基盤は 4 世紀になって整ったのです。
迫害されていた初代教会は、主イエスの十字架の苦しみを覚えて耐えることができました。初代教会は迫害中に受けたあらゆる苦しみの中で十字架の主イエスを見つめ、十字架の向こうに復活の主が姿を現されたように、この迫害のあとも必ず公の礼拝が出来ると信じて、信仰の力で乗り越えたのです。初代教会は迫害の苦しみや死で全てが終わるのではなく、苦しみの向こうに、死の向こうに復活の主イエスがおられることを確信して耐えることができたのです。福音書に記されているように、復活の主イエスは十字架の傷痕を指し示しながら 40 日の間、その姿を弟子たちはじめ、多くの方々に現しました。この復活の主イエスとの出会いが厳しい迫害をも乗り越える信仰の力になりました。
「主が墓から取り去られました。」
主イエスが納められているはずの墓の中には、主イエスの遺体がありませんでした。この時点では、主イエスが復活したことを信じた者は一人もいませんでした。誰かがマリアより一足先に墓の中に入って、主イエスの遺体を取り去ったと考えていました。
しかし、その後復活の主イエスと出会った人々は、空の墓こそキリストの復活を信じる信仰の原点、印であると確信するようになりました。主イエスのご遺体を復活させた神の御業、死の向こうに命があることが明らかになりました。人間の限界の向こうに新しい神の御業を見て、信じる者に変えられました。マグダラのマリア、主イエスの12弟子の一人ペトロ、十字架上の主イエスが母マリアに「あなたの子です」と紹介した「愛する弟子」が復活の主イエスに出会いました。この三人は、最初に見た虚しい空の墓を主イエス・キリストの復活の場として、復活の主イエスをそこに見ることができるように変えられたのです。
「復活されることになっているという聖書の言葉」
本日の御言葉は復活の主イエスにまだ会う前、主イエスにお会いする直前の出来事です。主イエスの十字架と復活の間の出来事です。御言葉に登場した三人は、日常的に主イエスの言葉を聞いて過ごしていました。主イエスは十字架に磔(はりつけ)になる前に、何度もご自身が十字架に架けられることと三日目に復活することを弟子たちに告げ知らせていました。しかし、主イエスが十字架に磔になった後、この三人は主イエスがお語りなったこの大切な言葉を思い起こすことが出来ませんでした。十字架の出来事を前に、ほとんどの言葉を忘れてしまったようです。主イエスの言葉よりも、墓の中の主イエスの遺体にだけ心を奪われていました。神さまは、三人が主イエスの遺体だけに目を奪われている状態から、遺体ではなく生ける主イエスへ目を向けさせようとしているのです。
そのために、神は空っぽの墓を見せます。最初に空の墓を見たのはマリアでした。マリアからそのことを聞いたペトロと愛弟子は、空の墓を「見て、信じた」とあります。
「見て信じた」とは、まだ主イエスの復活を理解していませんが、神さまに心を開いたということではないでしょうか。見て信じたということは、主イエスの遺体がないのを見て、十字架の主イエスが生きていることを信じる方へ、導かれているということではないでしょうか。
このあとマリアは、復活の主イエスから声をかけられ「わたしは主を見ました」と告げ知らせるようになりました。そして、すべての弟子たちも復活の主イエスに出会いました。「見て、信じた」ことが「信じて見た」ことになったのです。
主イエスは復活しました。キリスト教会は復活の主イエスとの出会いから、新しい命と力を与えられました。この新しい命と力は、主イエスが弟子たちを愛し抜いてくださった愛の力です。主イエスの復活を通して神は、私たちを見捨てることなく、永遠に愛して下さるお方であることを証明しているのです。
キリスト教の「信仰」は、単に「ある事実を正しいと認める」という知的な作業だけではありません。キリスト教信仰は、目に見えない神との「信頼関係」を与えられることです。なぜ、人が神を信じることができるのでしょうか。キリスト教信仰は、根拠も土台もなく、とにかく信じなさいということではありません。
キリスト教音楽や芸術のように、数千年にわたって人類の文化・倫理・芸術を支えてきたという「実績」が、復活信仰の根拠になることがあります。聖書が、歴史的な矛盾を含みながらも、人間の本質や苦悩を鋭く突いていることに驚き、そこに惹かれる人も少なくありません。
私たちは変化が激しく、将来の予測が困難な世界の中で生きています。激動の時代の中で生きるために人は何らかの「変わらない確かさ」を必要とします。自分の能力や他人の評価は常に変わりますが、神の評価は変わりません。キリスト教信仰は、変わらない十字架と復活を土台としています。「神の愛は無条件に不変」であり、変わらない確かさを与えます。この「絶対に揺るがない一点」を私たちの人生の錨(いかり)とすることで、どんな荒波の中でも精神的な平安、安定、信頼を保ち、信仰によって守られて生きるのです。主イエスの復活を信じることは、100%の証明ができるから信じるのではなく、不確かな要素があることを承知の上で、「この道を歩もうと」と一歩踏み出す決断です。「信じるからわかる」というように、信頼して飛び込んでみることで、後から意味が繋がってくるということが信仰の世界にはあります。一人で頭を抱えて信じるのではなく、他者との関わりの中で信仰が育まれることが少なくありません。誰かを温かく迎えたり、誰かのために祈ることを繰り返す中で、目に見えない愛や繋がりを実感するようになります。
歴史の中で守られてきた礼拝に身を置くことで、個人の感情を超えた大きな流れの一部であることを感じ取り、それが信じる力を支えることもあります。
復活を信じるということは、疑いを完全に消し去ることではなく、疑いや不安を抱えたままで信頼に値するお方に向かって歩き続けることなのです。