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銀座の鐘

「子に良い物を与える父に」

説教集

更新日:2026年04月25日

2026年4月26日(日)復活節第4主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 副牧師 岩田 真紗美

マタイによる福音書7章7~12節

復活節第四の主の日を迎えました。
今年度も福音主義教会連合のスケジュールに沿って、共に御言葉に聞き主を知る喜びに溢れた日々を重ねていきたいと願います。その中で今年度は「主の祈り」、「使徒信条」、「十戒」の順番で、主日毎に三要文を一行ずつ学びながら、与えられた聖書箇所をご一緒に開きます。 「三要文(さんようもん)」という言葉を初めて聞かれる方があるかも分かりません。私たちが毎月第一主日に告白している「日本基督教団信仰告白」を元にお話ししますと、旧新約聖書こそが「信仰と生活との誤りなき規範」です。しかし昨年度ご一緒に旧約聖書を聞き続けて感じましたように、「旧新約聖書」と一言で申しましても、非常に大きな大海のような恵みの海に私たちは船出することになります。神の民である教会へと招かれた私たち一人一人に、父なる神さまが何をしてくださったのか、本日の御言葉で申し上げるのならば神が子に対してお与えになった「良い物」(マタイ 7:11)とは何なのか、父から一方的に注がれた愛を、この幼い子である「私」は知るのに右往左往する時があるのです。そこで、より簡潔に私たちに聖書が告げる三位一体の神を指し示してくれるもの、前述の船旅に譬えるならば「羅針盤」にあたる言葉、 「三要文」が必要になってきます。どんなに深い闇の中でも風雨に負けない船の中で、他者の言葉にも左右されない「羅針盤」となる「主の祈り・使徒信条・十戒」という三要文の存在は、いつの世も三位一体の神を指し示してきました。特に、私たちが良く耳にする宗教改革時代の代表的な信仰告白文書のルターによる『大小教理問答』や、カルヴァンの『信仰の手引き』、『ジュネーヴ教会信仰問答』等を思い浮かべますと、三要文を学ぶ大切さが手に取るように分かります。これらの文書が、いずれもこの三要文を教えることから神を語り始めているからです。ですから私たちも、気兼ねなく三要文を日々の生活に携帯するように持ち歩き、諳んじたいと思います。教会学校の子どもたちがしているように、エレベーターの待ち時間にも、信号待ちの時間にも、声に出して唱えながら、この羅針盤を身に携えて一年を過ごしてまいりたいと願います。
  
 始めに今日は「主の祈り」の「天にまします我らの父よ」という神への呼びかけをマタイ福音書を元に考えます。イエスさまは、どのように祈ったら良いのかと考えあぐねる弟子たちに「主の祈り」をお示しになりました。これはルカによる福音書の11章でも語られている御言葉ですが、いつも主イエスが祈っておられるお姿を近くで見ていた弟子たちが、 「祈ることそのものを教えてください。私たちにも。」(ルカ福音書11:1、私訳。)と師である主に、子どものようにせがむのです。洗礼者ヨハネの弟子たちがヨハネから教えてもらっているように、私たちにも是非、と主の弟子たちは主に身を寄せて願います。そこで与えられた御言葉が、「父よ、」(同11:2)と始まる「主の祈り」でした。
 「父」と聞いて皆さんは何を思い浮かべられるでしょうか。私たちにとって、この祈りの最初に呼びかける「父」は地上の肉の父親とは全く異なる「父」であると言えます。例えば私の父はワンマンでしたし、商売をしていましたから「天に宝を積む」という事には関心がない様子でした。教会にも一緒に行ったことが何度もありましたが、礼拝中にはいつも、この礼拝の場がコンビニエンスストアの上に在ったら、どんなに良いかという想像を巡らしていたようなのです。社会的には、当時百円で販売する生ケーキの収益を、世に施し、社会福祉施設で働く子どもたちとの交わりを喜んでもいました。戦後の貧しさのゆえに、ズボンの裾の長さが異なっている服を着るより他なかった自分の幼少時代の写真を、いつも机上に置き、自分が味わったこのような思いを子どもたちには味わわせたくない、と言って社会のためにも家族のためにも一生懸命働きました。町の商工会議所から表彰された時などは、幼い私も子どもながらに父に尊敬の眼差しを向けたものです。けれども父が自分の子どもや社会に対して遺した「良い物」というのは、今日の福音書が語る「良い物」(マタイ 7:11)とは漂ってくる香りが、些か違いました。肉の父が遺した「良い物」には、勿論父だけでなく母もそうでありましたが、常にばらつきがありました。そこが「天の父」がお与えになる「良い物」の放つ香りと些か違うと私が感じた点です。けれども後に私は、洗礼を受けるための学びの集いに教会で招かれた時に、自分が幼い頃に覚えた「些か違う」という程度の違いが、実は神の国の物差しに照らしてみれば非常に大きな違いなのではないか、と思うようになりました。先ほど少し触れました信仰告白文書の、例には挙げませんでしたが『ハイデルベルク信仰問答』と出会った時のことです。その中の問いの26で問答書は「わたしは父である神が全能者、天地の創造者であると信じます」と言い表す時、あなたはどのようなことを信じているのですか?と問いかけてきました。問答書は、こう答えていました。「私は、この神に信頼しているので自分の身体と魂に必要なすべての物を備えてくださることを、疑いません。また神が、心の休まらないこの世に於いて、私に与えるどのような物をも苦痛をも、私に役立つように変えてくださることを疑いません。」と。なぜなら、天の父が与えてくださった「良い物」には必ず聖霊が働いておられるからなのです。さらにこの日の学びでは皆で使徒パウロが記したロマ書8章の御言葉を聞きました。それは、このようなものでした。 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(8:14-15)と。 「アッバ、父よ、お父さん、お父ちゃん」と私たちが親しく呼びかけて良いように主の教会に招いてくださった神の霊が、確かに天の父と私の間に生きて働いてくださっているからこそ、私たちは教会に導かれ、洗礼を受けることを望み、求め、父なる神との親密な交わりに入れられたのです。洗礼によって神の子とされたという大きな恵みによる赦しが、この天の父と私たちとの関係の中心に、確かにあるのです。古代教父のアウグスティヌスはこの神の霊、つまり聖霊を「父なる神と子なる神を結ぶ愛の絆」と表現しましたが、まさに聖霊の働きによって「天の父」(マタイ 7:11)は洗礼を受けた私を「神の愛する子」と認め、親子の親しい絆を結んでくださいました。そこが、肉の父との大きな違いであり、親が子を思って与える「良い物」と、天の父が子に惜しみなく与える「良い物」との香りの違いになっていたのではないか、と私は思いました。そうであるならば「天の父である神さま」とは、どのようなお方なのでしょうか。それをマタイは具体的な例を挙げて語ります。11節のところですが天の父は「求める者に良い物をくださるにちがいない」恵みの神だと言うのです。この神は私たちのように、「それはちょっと無理かも知れません。試みますけれども駄目だったらごめんなさいね」とは言われません。どんな時も、どんな願いであっても父の愛する子としてのあなたが求める求めであれば、お与えくださるというのです。ご自分の愛する御子を私たちの罪からの赦しのために、惜しみなくお与えくださったほどにこの世を愛された「父」が、私たち皆の「アッバ」なのですから、 「父」は主を信じるすべての民に対して普遍的な父であられ、あらゆる求めを「求め続けなさい」(7:7、直訳)と命じられると同時に、その多種多様な求めを受けてくださる父です。だから、と12節に御言葉は続きます。「人にしてもらいたい」とあなたが思うことは何でもあなたがたも人にしなさい、つまり与えなさい、と。肉の父のように、自分の都合の良い時や機嫌の良い時に自分の采配で良いと思う分だけを与えるのではないのです。天の父である神が、その限りなく広く、深い慈しみに満ちた心でお与えになるように、隣人にも与えよと12節ではこの事柄が、 「おすすめ」ではなく「戒め」として私たちに語られます。このように聞きますと、たちどころに私などは身が縮むのですが、そんな私の貧しさを良くご存知の主は11節のところで、まるで自分の子供に与えるように与えるのですよ、と優しく語られます。つまり、最も小さい者の一人にするように、その誰もが知っている憐みの心で素朴に与えなさいというのが主のご命令であるのです。このことを完全になさるのは「天におられる私たちの父」である神さまなのです。私たちは、自分の父親を例に見てもはっきり分かったように、天の父のように完全に与えることは出来ません。しかし主イエスが弟子たちにせがまれて祈ることをお教えになったように、どんな時も主の御赦しに感謝してその深い愛による赦しを知る者として、父なる神さまに「父よ」と呼びかけて祈ることはできるのです。だから、まず神の慈しみの中へ祈りによって入り、神が私たちに与えてくださるように隣人にもお与えくださいと祈り、神の門を叩きたいと思います。「律法と預言者」(7:12)、つまり聖書全体が語る信仰者の道は、そこにこそ備えられている道です。 (祈祷)

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