銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

「お帰りなさい」

説教集

更新日:2026年01月24日

2026年1月25日(日)公現後第3主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝  副牧師 岩田 真紗美 副師

列王記上12章16~20節

 主の年2026年の最初のひと月が、神さまの御手の中で過ぎ行こうとしています。年の初めの今月は特に、主の平和、シャロームがこの世に満ちますようにと基礎集団の祈祷会で祈りをささげてまいりました。また、元日礼拝を始め、成人祝福の祈りや東支区の礼拝、東京神学大学の教職セミナー、支区の研修会を通して、多くの兄弟姉妹と共に、膝を突き合わせて祈り合う恵みをいただき、神に感謝します。
 今月は『列王記上』を御一緒に読み進めています。私たちの教会生活が新年から祈りをもって支えられていることが如何に大切か、改めて思わされる御言葉が続きます。本日共にお聞きしている 12 章は、「世界史」の教科書でも大きな世界の歩みの中での分岐点として語られる、北イスラエルと南ユダに、王国が分けられて行く場面です。創造主なる神さまが、まるで親鳥のように雛であるイスラエルの民に慈しみを注ぎ続け、「神の言葉」をお与えになります。しかし民は、偶像崇拝から足を洗う事が出来ません。ここでは「自分の天幕に帰れ」(列上 12:16)というメッセージが、やがて「神の言葉」(同22節)として、悔い改めを促す目的で告げられます。
 本日の箇所の少し先のところですが、 24節で神の言葉が神の人、「シェマヤー」 (原文を直訳すれば「神を聴く者」という名である者)に主の御意思として示されます。「『主はこう言われる。攻め上ってはならない。兄弟であるイスラエルの人々と戦ってはならない。それぞれ自分の家に帰りなさい。このことは私から出たのである。』彼らは主の言葉を聞き入れ、主の言葉に従って帰っていった。」(聖書協会共同訳、同12:24)と、イスラエルの子らに対しては父親のように神が、「兄弟である人々と戦ってはならない」と命じられます。戦う思いが捨てられないのならば自分の家に帰れ、という平和の神からの勧めであります。
 ところで、ご存知の方も多いと思いますが、列王記は上下巻共に「歴史書」と呼ばれるジャンルに属するものです。しかしいわゆる「歴史小説」や世界史の 「教科書」とは異なる点もあります。それは、神の言葉がどのように告げられ、それを民がどれだけ忠実に聴けたのか、礼拝を通してどのように応答をささげたか、という面に集中して語っている部分に如実に表れています。本日の箇所で列王記は、「神の人」や神に従う民が神の言葉を聴く場、つまり「天幕」や教会に与えられている祈りの場、そのものが崩れていると嘆いています。それでも「自分の天幕に帰れ」と指示するのは何故だろうかと思い巡らしますと、新約聖書のある御言葉が浮かびます。それは、神の言葉が「両刃の剣」としてどんな時代にも生きて働くことを告げる、あの『ヘブライ人への手紙』が 4章 12節での勧告です。神の言葉は「生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」のを、 私たちは今日改めて知らされるのです。
 「自分の天幕に帰れ」と神が言われる時、私たちの 「天幕」である「教会」が何を大黒柱として建っているのかに、私たちの目は注目せざるを得ません。それは、主の御身体としての教会であり、神の言葉を大黒柱とした天幕の栄光に満ちた姿です。そして、世が騒がしい時にはそこにこそ私たちは立ち帰って、心の平安、神のシャロームをいただくのです。 教会で共に祈りを合わせ、心一つに神を讃美する礼拝をささげる私たちは、うれしいことに、神の 「宝の民」(『命命記』7:6)としてこの世に生かされている主の民です。そうであるからこそ、また 「このようにして、イスラエルはダビデの家に背きつつ、今日に至っている」(列王記上12:19、私訳)という冷静な、物語のナレーターの台詞のような御言葉も、耳が痛い思いで受け取らなくてはならないと思わされるのです。あのナチスの時代、「まずその暴走車の運転席から、ヒトラーという運転手を引きずり降ろさねばならない」と語ったボンヘッファーの熱い決断をも、思い起こすからです。列王記が語る王国の分裂は、現代にもある危機です。しかし神が示される確かな信仰の道を知っている教会は、主の御身体としての天幕の務めを「嗣業」とする限り、安らかな平安に満たされる「主に養われる羊の群れ」(詩編100:3)だと言えるでしょう。
 列王記が語る「王」は「周囲に助言を求めた上で」(聖書協会共同訳、同12:28)、とうとう二体の金の子牛(原文通りに訳せば、ささげものとして律法に適う価値ある「若牛」)を造り、「罪の源」(30 節)を残してしまいます。神は人間の小ささを良くご存知で、そうであるからこそ「主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(命命記 7:6)のでありました。ただ私たちに対する主の愛のゆえに、主は力ある御腕をもって私たちを導き、神のみが主であり「信頼すべきお方であることを」(同 7:9)イスラエルの家々に、繰り返し語られたのです。しかし、もはや人々は次から次へと祭壇に偶像を持ち込みます。しかも周囲には誰一人、恵みの神に思いを馳せる者がいなかった(列上 12:28)のです。このことによって民は、日々の平安を失う「バビロン捕囚」 という旧約時代における最大の苦悩を引き起こすのです。
 自分の天幕を自らの手で汚してしまった民の嘆きを、主はお見捨てにならなかったばかりか、さらに憐れみを深めながら私たち以上の涙をこらえて、民を愛し続けてくださいました。 新約聖書が語る主イエスを 「お言葉どおり」 この世に救い主として、贈ってくださったのです。ここに、神の愛があります。私たちが神を忘れて闇を彷徨った時代にも神は、片時も民の顔を忘れなかったのです。 心から案じて立ち帰りを待ちながら、神は愛であり続けられました。 「神は愛」(ヨハネの手紙Ⅰ4:16)そのものだからです。これが聖書の中に収められた「歴史書」が語る、神の民の歴史です。
 人はいつの世も些細な違いを主張し合って譲ることなく、しまいには神と人と闘い、天幕を崩し、神から受け継いだ嗣業を見失います。しかし使徒パウロが言うように、そのような時代に立たされてもなお、神の民は「神の霊が内に宿っている限り(中略)体は罪によって死んでいても、『霊』は義によって命となっている」(ローマの信徒への手紙 8:9-11)のです。なぜなら必ず主イエス・キリストが終わりの日に「ダビデのひこばえ、輝く明けの明星」(『ヨハネの黙示録』22:16)として、愛する私たちの教会、すなわち「〝霊″と花嫁」のもとへ「花婿」( 『マタイによる福音書』25:5)として帰って来てくださる、 私たち自身が今は神に愛されている「天幕」 だからです。その一番大事な平和に満ちあふれる恵みの瞬間、終わりの日が、 今日突然訪れても良いように、「おかえりなさい」と愛する主を心してお迎えできるように、私たちは賢いおとめたちのように壺に油を充分入れて細ることのない「ともし火」(同 25:4)を灯し、備えていたいと思います。終末の希望を遥かに望み見て、私たちも主の忍耐に倣い、神の約束の言葉を信じ、「主の言葉を聞き、主の言葉に従って」(列上 12:24)歩みたいと思います。
 私たち一人一人は神から洗礼によっていただいた聖霊が「宿ってくださる神殿(『コリントの信徒への手紙Ⅰ』6:19)です。その「内なる宮」に留まり祈りつつ、共
にこの週も平和の主をお待ちしましょう。そして、 洗礼の恵みを想いつつ多くの兄弟
姉妹が祈っていることに心を合わせて、愛である神の夢を共に垣間見ながら、その日
をお待ちしましょう。

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