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銀座の鐘

「日毎の糧を祈り求めよ」

説教集

更新日:2026年05月30日

2026年5月31日(日)三位一体主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 副牧師 岩田 真紗美

マタイによる福音書』6章25~34節(新p.10)

 「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」(6:26、28)主イエスは、先々の事を心配するあまり今日いただいている恵みを喜ぶことを忘れている我々の視線を、創造主なる神の大きな御手の中へと招かれます。マタイ5章から続く「山上の説教」の中でこの御言葉を語られる主と群衆の頭上では、鳥が自由に弧を描きながら飛んでいたのかも知れません。或いはまた、野の花々がソロモン王の衣服にも勝る優れたデザインで其の身を覆い、水の少ない岩場でも心地よさそうに風に揺れていたのかも知れません。今日の御言葉の一つ前の段落では、神は「富」について語っておられますから、「神と富」(6:24)の両方に仕えることは出来ない私たちであることを、神は明確にお示しになった上で「だから、言っておく」(同25)と神の国に生かされる者の幸いを、語られるのです。
  明日の分まで富を蓄えることができない、つまり自分の倉を持つことのない鳥たちには、神が天地創造の時から食物を備られ、大自然の恵みの中に確かな位置を据えられました。更に巣作りや外敵から身を守る術などについても、空の鳥たちは神から知恵を与えられています。また野の花一本に至るまで神は、たとえそれが今日しか咲かない花であったとしても、美しさを恵み、愛されます。あらゆる被造物がその存在自体を神によって愛され、生かされています。この事実を私たちは、自然界を示されると良く分かります。しかし実際に自分の「倉」(6:26)を思い浮かべるとどうでしょうか。たとえば育ち盛りの子を抱えていた時分には、金庫はもちろん高価で買えませんでしたが、冷蔵庫が一番の「倉」でした。米櫃の残りなどを見れば、蓄えが足らぬことに不安を覚えさせられたものです。けれども主イエスは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と案じること自体が、既に「異邦人」(同32)の行いになるのだと告げておられます。つまり、明日を思い煩うことそのものが、言い換えれば、偶像崇拝を行っている民のすることに等しい行いだと言われるのです。衣食住に心を揺らす時、神のお与えになる今日の恵みを喜ぶ思いが私たちの中から消えていきます。そして知らず知らずのうちに神よりも富に仕える姿になっていくことを、主は案じておられます。神と結ばれた神の子である「あなたがた」(同)には、まず何よりも「神の国」に現される神の完全な御支配に気づいて欲しい、そして「神の義」という神の判決によって正しい者とされることを望んで欲しい、と主は言われるのです。それは、私たちの「幸い」を誰よりも神が優先的にお求めになっていて、「天の父」として不足なく恵まれることが確実であるからです。ここに、神の愛があります。神はその自由な愛によって、父、子、聖霊なる三位一体の神として、私たちの存在そのものを永遠に愛する、たった御一人の神です。
 先ほど礼拝への招きの詞でお聞きしたように、この神こそが私たちが礼拝する「唯一の主」(申命記6:4)であり、その主が私たちの主人であると信ずる者は、不足を覚えるということがないと御言葉は証しします。たとえば詩編の詩人は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(23:1)と歌いましたが、まさにキリスト者はそのような恵みを受けて満ち足りる者です。本日は「三位一体主日」を迎えていますが、神が如何に私たちが礼拝すべき、たった御一人の神であられるか、被造物への配慮に満ちたご計画を知る度に私たちは感じるのです。神が三人も四人も、偶像のように大勢おられるわけではなく、唯一であられるからこそ、神はまず「神の国とその義を求めよ」と今日の福音書で言われるのです。神が唯一であるということは、神の国も、神の義も、一つなのです。そして神の国と神の義さえ求め続けていれば、すべては調えられ、終末の「終わりの時」に至るまで私たちには、「何も欠けることがない」(詩編23:1)のです。
 さきの日曜日は聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝で洗礼式が執り行われました。教会は洗礼式において、受洗者の氏名に続いて「父と、子と、聖霊の御名によって」と述べて、三位一体の神の名によるバプテスマであることを公けに宣言します。聖霊によって自らの罪を告白する者へと変えられた受洗者は、先ほど歌いましたドイツの洗礼式の讃美歌198番が歌うように、「今日より御民の一人」とされました。そしてこの「今日」を境に更にいよいよ私たちは、神の国(御支配)と、神による正しい判決を終わりの時にいただくに相応しい者とされることを望む、神の義を求める者になるのです。自分の氏名に続いて、三位一体の神の名が宣言されてクリスチャンになる、ということはまさに今日の御言葉に拠るならば、「神の国と神の義を求める者にされた」ということなのです。聖霊の招きによって教会に連なる大切な一枝とされた私たちは、あらゆる困難を神と共に乗り越えさせていただける大きな力を賜わっています。それは、神の国とその義をまず求めるからです。
                                                           教会学校やミッション・スクールの先生方のお働きは尊く、私が育てて頂いた先生方の多くは天に籍を移されましたが、感謝をもって語りますと、小学生の時分にキャンプで初めて 聖書』を頂いても、最初はそれが聖なる書だとは分からないのです。礼拝堂で皆で一緒に御言葉を聞き、唯一の神の御前に緊張しながら立って、立つタイミングが遅いとか早いとか叱られながらも讃美歌を歌い、祈りに声を合わせて「アーメン」と唱えるうちに、次第に礼拝が日常生活の一部になっていきました。1年生の時には6年生のお姉さんに手を引かれて早朝祈祷会の礼拝堂の冷たい椅子にちょこんと座って、初めは頂いた聖句カードだけを握りしめて、聖書は礼拝堂に忘れて帰ったこともしばしばでした。しかし、そのような中で聖霊によって福音という喜びの知らせが体に染み込んでいったように思います。更に中学では「聖書科」ならば高い評価が得られるのではないかという下心で聖書科の授業に特別気合を入れるうちに、自ずと教科書は忘れても聖書は持ち帰るようになっていきました。鞄に聖書が入っていれば、神さまが一緒に家まで帰ってくれるという安心感があったのだと思います。先週はジョン・ウェスレーの回心記念日を共に覚え祈りましたが、授業で初めてウェスレーの名を知った日の学校からの帰り道の夕日の色は、今でも忘れません。それは信仰とどう関わりがあるのか、分かりませんが、私の心のアルバムに挟まっている何にも代え難い「神、共に在る風景」なのです。その日、授業では、テキストが語るウェスレーの生涯の中で、自分が最も印象に残った場面の絵を描く課題が出ました。私は幼いウェスレーが見た自宅の火事の絵を描きました。彼には、皆さんも良くご存知のように、讃美歌を沢山世に遺した弟チャールズを含め、多くの兄弟がいました。父親が伝道のために外出している間は、母親のスザンナが子どもたちを守っていたのですが、ある日自宅で火災が起きてしまうのです。子どもたちは自分の物を取りに帰ろうとしたり、消防士の身を案じたりしました。しかしジョンだけは「火の中でも消防士たちと共に神がおられる。だから大丈夫だ。」と落ち着いていたのです。スザンナはこの時、将来この子が父の教えを継ぐ伝道者になると思い、神に感謝の祈りをささげたそうです。私はその時のジョンの目の中に炎を描き、神のことを心から信じる者が与えられる、火の粉をも防ぐような、盾のような強さに憧れました。「神、我らと共に」という言葉はウェスレーの最期の祈りにもなった言葉です。聖霊によって神の愛と救いが、苦難の中でもこの一家に与えられたように、今日も私たちの住まうこの所に、十字架の下に集まる神の国と義を求めるあらゆる民の家々に、与えられています。
 最後に、今日は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という主の祈りの第四の願いと呼ばれる一行を聞きます。私たちは神こそが全ての恵みの源だということを、「だから、明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)という御言葉から示されます。これまでお聞きしてきたように、すべてが神の国における神の慈しみ深い配慮によって、すべての愛する子に与えられるのです。ですから何も心配は要らないのです。しかしその上で今日なぜ、毎日の糧を求め、このことを祈って良いのだと主イエスは言われるのでしょうか。
 この祈りを祈る時、私たちは、曙の光に始まり、一日の糧、衣食住のみに限らず、目に見えない関係性、隣人や神との繋がりについても日毎に新たに頂いているのだという恵みに気がつきます。また自分の貧しい力に頼り、それが功を成さない時には勝手に思い煩うという罪を避けたいと思わされます。ただ神の御手の内にのみ私を置いていただくように、祈る者になります。それは神の国とその義をまず求める信仰者の姿です。この祈りを口にする時、主から賜る祝福、この礼拝こそが、私たちの命を支えている「日毎の糧」だと知らされます。そして、罪の赦しを願う第五の願いへと、この後も「主の祈り」の言葉は続くことに注目したいのです。私たちの罪を神に懺悔する「私たちの罪をお赦しください」という第五の祈りの前に、日毎の糧を祈らせてくださる神に、今日私たちは驚きます。なぜなら、本来ならば、罪を謝ってから食事を与えられるのが人の世の常であるからです。神の国の順序は、全く逆なのです。食前の祈りの時、私たちがいつも「この食事と同じくらい栄養のある食事を離れた所にいる娘や兄弟や友人が、恵まれていますように」と、世界中にいる子どもたちの食卓をも想像しながら祈るのと同じように、神は親心でまず「あなたにはパンが必要だから、与えられることを日毎に願いなさい」と命じられるのです。あのヘブライ書2章18節が語るように主イエスは「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ」我々人間の飢え渇きをご存知で、こう祈りなさいと言われるのです。罪の悔い改めも済んでいない、泥のついた足で縁側から駆け上がって来たような子に対しても食卓の主は、水を飲ませ、パンを前にする恵みへと招かれます。主の祈りを祈る度に、この祈りを祈るのに全く相応しくない、愛の足りない身勝手な自分自身が見えてまいります。ただ神にのみ救いがあり、教会にのみ救いがあることを、主の祈りは日毎に私たちに教えてくれる、宝の祈りです。

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