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銀座の鐘

「まことの礼拝」

説教集

更新日:2026年05月16日

2026年5月17日(日)復活節第7主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

ヨハネによる福音書4章16~26節

 キリスト者の信仰生活の中心は週の初めに行われる日曜日の礼拝にあります。礼拝を捧げることが、重要な信仰生活の道であることはどなたもご存知のことと思います。今日は礼拝の後に持たれます修養会でも「礼拝とは何か」という主題で学びますので、この礼拝でも主イエスが、「まことの礼拝」について語られた箇所に聞きたいとと思いますた。
 主イエスが「まことの礼拝」について語られたのは、ヨハネによる福音書の第4章においてです。そのとき主イエスは、サマリヤのシカルという町を通って、その町の「ヤコブの井戸」の傍らで渇きをお覚えていました。そこに水くみに来たサマリアの女に主は「水を飲ませてください」と語りかけたことから、礼拝に通じる会話がはじまります。そして水は水でも「永遠の命に到る水」があり、それが湧き出る「汲めども尽きない泉」があるという話になり、女の方から逆に「その水をください」との求めになります。しかし主イエスは「あなたの夫をここに呼んできなさい」と不思議なことをおっしゃり、この婦人の置かれている問題状況が明らかにされます。5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。そういう仕方で、その婦人の孤独な生活と、その背後にある不安な社会情況が浮き彫りにされます。そしてそれにはサマリアという地域の多民族が入り混じった状態や混乱した宗教問題があることも暗示されます。さらには先祖から受け継がれた礼拝の話になり、そしてその話の頂点として、またすべての問題の解決として「まことの礼拝」が語られる。そういう筋道になっています。
 「まことの礼拝」はですから、「生きた水」「命の水」を汲む場所であり、人間の孤独が克服される場所ですが、同時に多民族問題を解決する場所であり、さらには宗教的な対立や価値観の混乱を克服する場所として示されています。ということは、まことの礼拝なしには、人間は真に人間として安んじて生きることができない、世界の民族問題も価値観の混乱も、そして宗教間対立も「まことの礼拝」なしには解決がつかないと語られているわけです。個人としての人間だれしも、また人類全体も「まことの礼拝」を必要としているということではないでしょうか。ヨハネによる福音書は、そう語っていると思われます。人間は礼拝、それもまことの礼拝を求めている、それは一人の個人を生かす道であるが、同時に全人類の救済もそこにかかっていると語られているわけです。
 ですが、聖書はもっとそれ以上のことを語る主イエスの言葉を伝えています。それを今朝は受けとめなければならないでしょう。まことの礼拝は、確かに人間だれもが知らぬうちに、それを求め、全人類が心底必要としているものですが、その線を進めて行けば、結局、礼拝は人間が救われるため、そして全人類の問題が解決するための手段ということにならないでしょうか。結局は人間のため、世界のための礼拝なのでしょうか。
 主イエスはそうはおっしゃいませんでした。「しかしまことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」。23節の主の言葉です。主イエスが「まことの礼拝」を語るこの個所は、聖書全体の中でも特別な輝きを放っている箇所で、山々の頂のような箇所です。いくつもの深い真理が合わさっています。本当の礼拝とはどういうものか、そしてそれはなぜなければならないのか、まことの礼拝が実現するのは何時なのか、またどうしてその礼拝が可能なのか。
 これまでは、イスラエルの民の礼拝を語る特別な聖書箇所と言えば、その代表は何と言っても、申命記6章4節、5節でした。そう言われてきました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。今でもユダヤ教の礼拝はこの「聞け、イスラエルよ」から始められていると聞きます。これに対し、ヨハネによる福音書4章23節はそういう礼拝がさらにどこに根拠を持ち、どこに支えを与えられ、どうして可能になるかを語ります。
 主イエスの御言葉に従えば、まことの礼拝は、まず、人間の必要からではなく、それを越えて、神の御意志から来ています。なぜ礼拝するのか、救いを求める人間の要求よりも、またほかの何よりも、神がまことの礼拝をする者を求めておられるのだと主は言われます。この神の求めは、神の御意志であり、御自分との礼拝関係に入る人を求める神の愛の御意志です。キリスト教礼拝は人間の都合でどうにかする礼拝ではありません。礼拝成立の根拠は神の意志にあり、その愛にあります。人間は何をしていいのか、なすべきなのかが分からないかもしれない。しかし、従うべき神の御意志が示されています。人間はまことの礼拝を神に捧げなければならないのです。人間は神を礼拝する者とされ、まことに神を礼拝し、「父よ」と呼んで御栄を讃えることで、神との交わりにいれられます。そこに私たちの色々な問題からの救いがあり、解決があります。
 さらにまことの礼拝は「霊と真理」をもって「父」を礼拝すると言われます。霊とは御霊であり、聖霊です。聖霊は命の霊であり、神の創造の力です。聖霊はまた信仰と希望と愛を賜物として与える神の力です。その霊をもってとは、霊の注ぎを受け、霊を宿し、霊による命と力を受けて、「アッバ、父よ」と神を呼びます。そして信頼と希望を神に寄せ、愛をもって父なる神を礼拝します。それには洗礼を受けているという恵みの状態も、意味されているでしょう。
 「霊と真理」をもっての「真理」とは何でしょうか。主イエス・キリストのことと理解すべきでしょう。真理が主イエスのことであるのは、ヨハネが伝える主の言葉にしばしば出てきます。「わたしは道であり、真理であり、命である」(11・25)と主は言われ、また「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1・14)という証言もあります。「恵みと真理とはイエス・キリストを通して現われた」(1・17)とも語られます。神の真理であり、その御生涯に神の救いが現われ出た活けるキリストなしに、まことの礼拝を捧げることはできないでしょう。
 まことの礼拝とは、聖霊に満たされ、主イエス・キリストにあって父なる神を礼拝することです。御霊による命と信仰により、また活ける復活の主とともにあって、その主のものとされ、主イエスにあって、父よと呼んで礼拝する、神の御意志に応えて神との礼拝の交わりに入ることです。
 そういうまことの礼拝をする「時が来る」とも、主イエスは言われます。この時の問題は重大で、やがて来る時、つまり将来の礼拝、終りの時の礼拝が語られます。神の国の全き到来の中で、すべてのものの完成としてまことの礼拝が実現します。そういう世界の完成、人生の完成としての「まことの礼拝の時」が来ると主イエスは約束されました。おそらくそれは万人の礼拝、万物による礼拝と言ってもよいでしょう。神によって創造されたすべてのものが一つになって、こぞって捧げる礼拝で、生ける者も死せるものも復活の命、永遠の命にあずかって、霊と真理をもって礼拝します。あらゆるものが一つにされて礼拝する完成の時が来るでしょう。
 その世界の完成の時のまことの礼拝を覚えながら、それが活ける主イエスの語りかけとして「今がその時」であるとも言われます。今日の礼拝は、まだ万人の礼拝・万物の礼拝ではなく、選ばれた幾人かの礼拝にすぎません。また、わたしたちの目には、天の御国に入れられた人々が共に礼拝していると見えるわけではありません。しかし霊と真理、つまり命の御霊と復活の活けるキリストにあずかってする礼拝は、終りの完成の礼拝と一つに結び合わされている面があります。「今がその時である」と主キリストが言われるとおりです。御霊と活けるキリストの現臨にあって、今日の礼拝が終りの時の全き礼拝と一つに繋がって、神の御意志に応え、わたしたちの目的を実現します。わたしたちが生まれてきて、キリスト者とされたのは、このためでしょう。
 「まことの礼拝」に加わるために、わたしたちは生れてきた、と言ってよいのではないでしょうか。まことの礼拝は、何かほかのことのための手段として捧げるものではありません。そうではなくて、まことの礼拝こそが、人生の目標であり、世界の目的です。だからわたしたちは、まことの礼拝を目指して信仰生活を生き続けます。命の水に汲む礼拝、孤独な人間を孤独でなく生かす礼拝、民族問題を越え、民族宗教を越え、全人類の救済、万物の救済である礼拝。その礼拝を御霊と主イエス・キリストにあってささげ、すべての者が加えられるように、信仰者としての祈りと証の歩みを進めたいと願います。

 天の父よ、御霊の注ぎを受け、活ける主イエス・キリストにあって、あなたを父よと呼びまつることを許され感謝いたします。わたしたちの人生もまた世界のすべての営みも、霊と真理により神を礼拝する「まことの礼拝」を目的としていることを知らされ、感謝いたします。そこにわたしたちの汲むべき命の水の泉もあり、また世界の諸問題の解決もあると存じます。教会がまことの礼拝をささげ、すべてを完成へと導くあなたの御業に役立つものとなることができますよう、導いてください。活ける主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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