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銀座の鐘

「神の赦しによつて見える罪」

説教集

更新日:2026年06月06日

2026年6月7日 (日)聖霊降臨後第二主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 高橋 潤

マタイによる福音書18章21~35節

 本日の御言葉は「主の祈り」の第5の祈り「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」をより深く理解するために選ばれた聖書個所です。ここに登場する家来は、莫大な負債を背負つています。支払うべき負債があるのに、支払うことが出来ないのです。自分の力ではどうにもならない1万タラントンもの負債です。 1万タラントンを換算すると約6000億円です。6000億円の負債を背負ったら返済計画が立てられるでしょうか。聖書の時代、返済不能な負債を負った場合、自ら奴隷になるしか道はなかつたようです。返済不能な負債を背負って自由に平気でいられる人はいないでしょう。この莫大な負債を解決しなければ、人間として生きる自由も平安な日を送ることもできないのです。
 主の祈りの第4の祈りは「日毎の糧」としてのパンを求める祈りでした。もちろんパンも必要ですが、パンがいくらあつても莫大な借金を抱えていたら、楽しく食べることなど出来ないのです。生きるためには命のパンも必要ですが、魂の平安なしには健康で生きる事が出来ないのです。聖書ではこの負債は、ありのままの人間の罪としてとらえています。罪の赦しがなければ生き生きと生きる事は出来ないのが人間なのです。罪の赦しがなければ、安らかに生きる事も、平安のうちに死ぬことも出来ないのです。
 莫大な負債を負っている家来は、王の憐れみによつて、6000億 円の負債を免除されました。王はこの莫大な負債を免除し赦したのです。しかし、王はこの莫大な借金を赦された家来が王を離れてから僅か100デナリオン、約100万円の借金を返さない仲間を赦さず牢屋に入れたという話しを聞きました。神に赦された者が隣人を赦せないのです。私たち自身は、この家来を他人事といえるでしょうか。
 主イエスは、莫大な負債を赦された者が仲間を赦せない者であることを心にとめて、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と主の祈りを祈るように教えていると思います。
 宗教改革者マルチン・ルターは、この主の祈りの第5の祈りについて「キリスト者の最も難しい祈りの一つ」といいました。ルターは私たちが「神を信じる」と告白する以上に「人を赦す」ことの難しさを理解しているのです。私たちの信仰生活の中で、罪と赦しは、人間の中心問題であり、この罪の赦しを求める祈りは重要な課題なのです。
 この主の祈りを理解する難しさは「我らが赦すごとく」の「ごとく」という言葉をどのように理解するかという問題です。さらには主の祈りの罪について「我らの罪」と祈る、この罪についての理解にあると思います。
 「主の祈り」の中の「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」の「ごとく」は、普通「~のように」あるいは「~と同じように」という意味で理解される言葉です。つまり「私たちが、自分に罪を犯した人を赦したように、神よ、私たちの罪も赦してください」という意味になります。このように理解すると、私たちが誰かを赦すことが第一条件となり、その条件を満たしたので赦してくださいという順番になります。私たちが赦すか赦さないかが、その後の神の赦しを左右することになつてしまいます。具体的にいうと、私たちが100万円赦すか赦さないかが、私たちの6000億円の借金が赦されるかどうかを決めることになるということです。もしそうであればだれでも仲間を赦すに違いありません。主の祈りの「ごとく」は~のようにと、私たちの行動を条件としていると理解してはならないのです。
 「ごとく」は条件ではなく、私たちが日常生活の中で赦すことが神の赦しとつながつていることです。神の赦しと私たちの人間同士の赦しが切り離されていないようにという言葉として理解しなければなりません。
 あの家来は、莫大な負債を赦された神の赦しと、100万円を返済しない仲間の問題を切り離していることが問題なのです。王に対してはひたすら赦しを求めながら、自分は断固として赦さない態度で生きるとすれば、多額の借金を赦されながら、仲間を赦さない家来と同じことになるのです。この家来が仲間を赦さず、神に赦しを祈り求めるならば、その祈りは不誠実極まりないことになるのです。私たちが神に対して誠実に祈るのであれば、私たちが赦された者として赦しに生きることに結びついていくのではないでしょうか。神を愛することと、兄弟姉妹を愛することと切り離せなくなるのです。主の祈りの第5の祈りは、私たちの赦しが条件とされているのではなく、神の赦しを信じて神に愛され赦された者として、誠実に神に赦しを求める姿勢を求める祈りなのです。
 主の祈りは、神の恵みと赦しを受けた者の応答の祈りです。神に対して「恩知らず」な態度では祈れないのです。ゆえに、主の祈りの「ごとく」は神に愛され赦された者として、仲間を赦して生きるために教えられているのです。
 ここで重要なことは、自分は赦せないから祈れないと祈ることをあきらめないことです。「完全に赦せた人だけが祈れる」と思い込んだり誤解しないことです。私たち人間には、どうしても赦せない傷があります。裏切り、暴力、深い悲しみなど簡単には赦せないのです。にもかかわらず主の祈りは、「神よ、あなたに赦されながら、私も赦す者になりたいのです」という祈りとして、赦せない私たちを主にあつて赦せる者に造り変えてくださいという神への願いをこめて祈るのです。ゆえに、「ごとく」は、「同じ心へ導いてください」「あなたの赦しにならわせてください」という願いとして理解してよいと思います。
 「主の祈り」に出てくる「罪」とは、どのように理解したらよいのでしょうか。聖書の罪は、単に法律違反や道徳的失敗だけを意味しているのではありません。そうではなく、もつと深く、この家来が王の愛と憐れみの赦しをなかったかのように生きて「神との関係の破れ」をさらけ出していたように、神との関係の破れが罪なのです。主の祈りで、「我らの罪をも赦したまえ」(または「負い目を赦したまえ」)と祈りますが、ここで使われている「罪」「負い目」という言葉には、二つの理解があります。
 第一は「罪 (sins)」 としての理解です。ルカによる福音書11章では「わたしたちの罪を赦してください」と記されています。この「罪」は、ギリシア語で「ハマルティア」という言葉で、「的を外す」という意味があります。つまり、神が願う方向から外れて、本来あるべき愛や真実からそれてしまう姿です。罪とは、悪事をしただけでなく、神を忘れ、隣人を愛せない、自分中心になる、いわば倣慢な生き方です。この世の恐れや憎しみに支配されて、神の愛と恵みを忘れてしまうことです。罪とは「犯罪」という響きより「人間のゆがみ」なのです。神の御前に私たちは自己中心の罪を悔い改め、赦されなければならない罪人なのです。
 第二は、「負い日(debts)」 としての罪理解です。マタイによる福音書6章では「わたしたちの負い目を赦してください」と記されています。この負い目の原語は「オフェイレーマ」と発音します。「借り。負債」という意味です。これは、神と人への愛を十分に果たしていない「負債」を表します。つまり、なすべき愛の行いをしなかつた、愛する責任を怠った、神から受けた赦しに応答しなかつた、という意味が含まれています。聖書では「悪をしたこと」だけでなく、「なすべき善をしないこと」も罪と理解されます。マタイによる福音書25章45節「そこで、王は答える。『はつきり言つておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかつたことなのである。』」
 主の祈りの罪は、私個人の罪でしょうか。そうではないことを確認したいと思います。主イエスが私たち一人一人を見つめながら、私たち「共同体」の罪を見ているのです。「主の祈り」は、「わたしの罪」ではなく「我らの罪」と祈ります。ここがとても大切なのです。つまり人間を孤立した個人ではなく、人と人との関係の中、社会、共同体、世界の中で見ています。憎しみの連鎖、不正義、差別、戦争、無関心なども「我らの罪」として祈る対象になります。
 罪の中心問題は、人間が「神のようになろうとすること」です。キリスト教では、罪の根本には自分が中心になろうとすることがあります。創世記のアダムとエバの物語でも、「神のようになろう」としたことが象徴的に描かれています。つまり罪とは「神なしでも生きられる」「自分が最終的判断をする者だ」「自分だけが正しい」という、人間の自己中心性なのです。
 主の祈りで「罪の赦し」を祈るのは、「神から離れてしまう私たちを、もう一度神との交わりに戻してください」という祈りなのです。神のみ前に立ち返り、謙虚に祈り、神の赦しに応えて歩むことを求めて祈り続けたいと願います。

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