銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

「公同の教会を信じる」

説教集

更新日:2026年10月03日

2026年10月4日(日)聖霊降臨後第19主日 世界聖餐日・世界宣教の日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

使徒言行録2章41~47節

 本日は新約聖書、使徒言行録を通して使徒信条の「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」について御言葉から聞きます。世界信条と呼ばれる使徒信条の大切な言葉によって私たちの教会の信仰を再確認したいと思います。
 使徒言行録2章には、最初の教会の様子が記されています。驚くべきことに復活の主イエスが天に挙げられ、姿が見えなくなったにもかかわらず、ペトロの語る言葉によって、多くの人々が洗礼を受けたと書かれています。その日だけで、主イエスを救い主と信じる者が 3千人も集められました。3 千人を迎えた教会はどんなことをしていたのでしょうか。
 ペトロたちは、十字架と復活の主イエスを救い主であることを証言していました。「使徒の教え」とあるように、ペトロだけではなく使徒たちが主イエスのことを教えていました。使徒とは、生前の主イエスと共に生活した経験をもつ弟子たちです。全ての使徒たちは、主イエスの十字架刑の場から逃げてしまった過去を持っています。しかし、主イエスから一度離れてしまった弟子たちが、復活の主イエスに出会い、復活の主イエスを宣べ伝える伝道者に変えられました。あの弟子たちが使徒と呼ばれるようになり、初代教会の指導者になりました。
 使徒たちは、主イエスの福音を教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であったと記されているように、最初の教会は主イエスの救いの御業を喜びの知らせとして語っていました。現在の教会はこの「使徒の教え」を大切な伝統として主日礼拝の説教や聖書講義という形で継承しています。初代教会では「相互の交わり」が大切にされていました。パンを裂くこととは、現在の聖餐です。洗礼を受けた者が集まって、福音を聞き、相互の交わりをもち、聖餐の交わりを大切にして、祈り、復活の主イエスを思い起こしていたのです。これが最初の教会の姿を伝える貴重な証言です。初代教会のこの姿は、今日、教会が教会であるために最も大切にしなければならないことは何であるのかをこのように明確に教えているのです。
 こうして初代教会は、ローマ帝国の支配に対抗して、武力で戦うのではなく、復活の主イエス・キリストを思い起こし、主イエスの言葉によって生きる力を日々新しく与えられ、相互の交わりを続け、洗礼から聖餐への道を進めていたことが分かります。こうして神の国へ進む道を歩んでいるのです。この世がどんなに混乱していても、教会はしっかり使徒の教えを聞き続けます。相互の交わりを大切にします。聖餐を重んじ、熱心に祈り続けます。これが今も昔も変わることのない教会の姿なのです。そして使徒信条は初代教会の姿を「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信じる、と表現しているのです。
 私たちが使徒信条を通して、公同の教会を信じると告白することは、教会を神として信じるということではありません。使徒信条では「我は聖霊を信ず」に続いて「聖なる公同の教会」とあるように、私たちが教会を信じるということは聖霊を信じることの内容として、聖霊なる神が教会を聖なるものとしてくださる限りにおいて教会を信じると告白しているのです。
 地上の教会の営みは、多くの混乱を経験してきました。日本では太平洋戦争に巻き込まれた時代がありました。戦後復興の時代や学生紛争の時代において、または教会内の不幸な対立において、この世の教会は多くの不幸を経験してきました。そうした教会の姿を知りつつ、にもかかわらず教会を信じることができるのは、どんな混乱のときにも聖霊なる神の御業が失われないからです。混乱した時も嵐の中でも教会では聖霊が働いているのです。礼拝を通して使徒の教えを聞き続け、相互の交わりを通してお互いに祈り合ってきました。洗礼と聖餐を通して罪の赦しの御言葉を聞き続けます。戦時下でも教会の祈祷会が行われました。混乱した社会の中で共に集まり、聖霊の助けを信頼して絶望することなく、神から離れることなく、教会は聖霊の御業によって命をつないできました。この世の中では、教会が立派に見えなくても、聖霊なる神は教会を支えてきたのです。
 私たちは現実の教会活動を通して、聖霊なる神の御業を信じます。聖霊なる神は、人間の欠けや過ちを、教え諭し悔い改めへと導きます。私たちが戦時下や混乱期において間違えてしまったことは、使徒の教えを通して、悔い改め、正しい道へと導かれます。相互の交わりを通して、神の御前に教会の罪を告白し、聖徒の交わりが回復されるのです。
 洗礼を受けた日を思い起こして聖餐に与ります。聖餐を通して懺悔し悔い改め、罪の赦しの宣言を聞き、罪赦されて派遣されます。今日も神の御前に立ちつつ、自らの罪を告白し、深い罪にもかかわらず神の御前で祈り続けるのです。この教会の交わりは、会社や学校や地域にはない交わりです。神の御業、聖霊の働きによって実現する集会が教会なのです。どんなに教会において悩みが大きくても、魂を傷つけられても、教会を信じることを失ってはならないのです。教会を失ってキリスト者であり続けることはできないのです。キリスト者であることは教会に連なることで証明されます。どんなに不完全な教会の営みであっても、私たちが父、子、聖霊なる神を信じる信仰告白によって神に立ち帰ることができるのです。
 教会は一つにして聖なる公同の教会です。聖なる教会とは教会に集まる人々が清く正しいという意味ではなく、神の教会であるということです。神が聖なる神であるから聖なる教会なのです。ひとりの牧師による開拓伝道であっても、自分の全財産を献げて会堂を建てたとしても、その教会は本質的に神の教会であり、その牧師や信徒のものではないのです。教会は神が造り、神があがない、神が選び集められたのです。ある人が伝道を開始した時、神から召命が与えられています。神によって与えられた信仰によって伝道が開始されるのです。ゆえに、人の業ではなく神の教会というほかないのです。この世の集会ならば創立者を覚え、創立者の意思を受け継いでいくことになります。しかし、教会は人間の業績を受け継ぐのではなく、神の御業によって集められた神の教会なのです。
 「公同の教会」の「公同」とは、普遍的という意味の言葉です。公同の教会とは、人の性別によっても、職業によっても、区別されることがないという意味です。どんな人種でも、どんな民族であっても、どの国民であっても区別されないということです。どうしてでしょうか。それは人類皆平等だからでしょうか。そうではありません。人類皆平等だから教会はだれでも集まれると考えてしまうと、その集まりは人間中心の集まりになってしまいます。教会は決して人間中心ではないのです。ヒューマニズムという言葉があります。教会の根拠はヒューマニズムではありません。これはとても大切なことです。教会の本質は、人間中心ではなく神が中心なのです。神の愛と救いによって命が与えられる群れなのです。だから、罪にまみれた者が、神に立ち帰り、悔い改め、神の力によって、再び立ち上がる力、生きる希望、永遠の命へと導かれることができるのです。ヒューマニズムでは限界があります。ヒューマニズムでは、人間の力による限界に陥ってしまうのです。
 公同の教会は、真の信仰の一致によって一つの群れであり続けることが出来ます。公同の教会とは、東支区とか教区とかの個々の教会を超えた、全体教会の一体性の中に公同教会があるのです。公同の教会は「見えない教会」と説明されることがあります。「見えない教会」とは神の目には見えているが、人間の目には見えない教会という意味です。人間の目に見えている教会とは銀座教会とか新島教会とかです。これらの教会は私たちの目には見えない「公同の教会」の部分として存在しています。「公同の教会」はぶどうの木で説明されることがあります。一本のぶどうの木が、聖なる公同の教会として存在しています。この木の幹が聖書であり使徒信条です。その幹から枝が分かれています。幹につながっている枝枝が個々の教会です。私たちの教会が聖書や使徒信条という信仰の幹につながっていることで公同の教会といえるのです。しかし、聖書や使徒信条の幹につながろうとしなかったり、聖書や使徒信条を否定するならば、その教会は公同の教会とは言えないのです。歴史的には異端とされることになります。
 私たちが聖なる公同の教会であるのは、神の目に見えている幹につながっていることによって、幹から枝へ命が与えられ、日々新しい恵みを受け取っているのです。
 キリストの体なる教会という言葉があります。私たちが復活のキリストにつながっているからこそ、どんなに転んでも繰り返し悔い改め、立ち上がることができるのです。新しい力によって生き生きと命を与えられるのです。
 この聖なる公同の教会に加えられた者が聖徒です。聖徒とは、聖なる人々のことですが、大切な意味として聖徒の交わりの「交わり」には、聖なるものを分かち合うという意味があります。聖徒の交わりとは、一人ひとりが聖人と呼ばれるような清く正しい人になるために努力しなさいということではなく、聖なる信仰を分かち合うゆえに聖徒と呼ばれます。私たちは主日礼拝において使徒信条を告白することによって聖なる信仰を分かち合っているのです。私たちが分かち合う聖なるものにはもう一つ大切なものがあります。それは聖餐です。キリストの命にあずかる聖餐です。神の国の祝宴に先立って連なり、洗礼を受けて神のものとなされた交わりを思い起こしつつ、聖徒の交わりを経験します。
 本日は世界聖餐日です。世界の教会は聖餐によって聖徒の交わりとして聖餐を分かち合っているのです。父子聖霊なる三位一体の神の御名によって洗礼を受けたものが聖餐にあずかります。この聖餐ではパンとぶどう液を分かち合います。このパンはキリストの体です。ぶどう液はキリストが流した血です。聖餐にあずかるということは世界のキリスト者とともに聖霊の助けと導きによって聖徒の交わりを経験していることなのです。キリストという木につながる枝として、目に見えない公同の教会につながっていることを信じて、信仰生活を全うしたいと願います。

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