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銀座の鐘

「神の訪れによる救い」

説教集

更新日:2025年12月13日

2025年12月14日(日)待降節第3主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

ルカによる福音書 1 章67~79節

誰かが来てくれることによって、わたしたちの気持ちが変わり、生活も変わることがあります。少し客足の減ったレストランでも、誰もが知る「時の人」、たとえば大谷翔平が食べに来て、サインを残していったら傾きかけた店も元気が出るのではないでしょうか。戦乱の中に生きた古代の人たちは、巨大な援軍の到来がどれほど安心と希望を与え、疲れた体に力を与えるかをよく知っていました。そうした身の回りの色々な例を遥かに越えて、神が訪れてくださる。父なる神が決定的な援軍として訪れ、また御子主イエス・キリストが深い慰めと慈しみをもって訪れてくださる。それが待降節、アドベントに聞くことができるメッセージです。そしてその神の訪れがどのようにあって、その救いがどういう力を発揮するか、そしてその時わたしたち自身はどう変えられるでしょうか。今朝の御言葉に聞きたいと思います。
お読みいただいた聖書の箇所は、主イエスの道備えとして主に先立って生まれた洗礼者ヨハネの父親、ザカリアが歌った「ザカリアの預言」の箇所です。主イエスの母マリアが謳った「マリアの讃歌」はよく知られているでしょう。「マリアの讃歌」は「(主を)崇める」という言葉から始まっているので、そのラテン語によって「マニフィカート」と呼ばれます。これに対し「ザカリアの預言」の方は最初の言葉は「ほめたたえよ」ですから、そのラテン語で「ベネディクトゥス」と呼ばれます。どちらも待降節に読まれる代表的な箇所です。今朝は、「ベネディクトゥス」による待降節のメッセージを聞きたいと思います。
「ザカリアの預言」(ベネディクトゥス)は、前半と後半とで別々の二つの歌からなっています。前半の歌は完了形で書かれ、後半は未来形で書かれています。さらに前半はイスラエルの歴史の文脈で書かれ、後半は光を中心にして、自然現象の文脈で書かれていると言ってよいでしょう。しかしその異なる二つの詩が一つのテーマで結び合わされています。この二つを貫く一つのテーマは「神の訪れ」、「神が訪れてくださる」という待降節のメッセージです。前半では、「(イスラエルの神である)主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(68 節以下)と謳います。そして後半の方は 78節で、「この憐みによって高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」と謳われます。
前半のテーマは主なる神がこの歴史の中に訪れてくださり、「救いの角」を起こしてくださった。それが「我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」と言います。敵の手、我らを憎む者の手からの救いという言葉にピンとくる方がおられるでしょうか。初代教会は、ローマ帝国の圧政のもとにありました。その中でこの言葉を聞いたわけです。21 世紀の現代でも戦乱の地にある人々、例えばウクライナの人々であったら「われらを憎む者の手」を具体的に感じているでしょう。そういう歴史の争いや敵による恐怖の中で、神の訪れがあって、歴史的現実的に「救いの角」を神は起こされたというのです。「角」は、通常、聖書の世界では雄牛や野牛の「角」です。「角」にこそその動物の戦闘的な力があります。ですから「救いの角」は神の救いが戦闘力を持った救いとして、敵を打ち負かし、追い散らし、その手からわたしたちを救い出す、そういう救いが主イエスにあって起きたと語るのです。
神がその民を訪れて解放してくださる、そして救いの角を起こしてくださった。それが主イエス・キリストの誕生だと歌います。主イエスの救いは、キリストの勝利による救いであって、そこには歴史的で政治的な救いの出来事が意味され、神の訪れが歴史を変え、政治を変えると語っているわけです。クリスマスの神の救いの御業は、世界の平和や自由や正義に適った政治と無関係ではありません。神の「救いの角」である王なるキリストが歴史を変えます。キリスト教世界で自由や人権の価値が認められ、デモクラシーが定着してきたことは、王なるキリストの救いの力と無関係ではないでしょう。
こうして前半の預言は、神がその民を訪れ、敵の圧迫に苦しむ者たちに救いの角をお与えになったと歌いました。これに対し、後半では「訪れ」てくれるのは「光」、それも「あけぼのの光」です。主イエスは「救いの角」ですが、同時にまた「あけぼのの光」として訪れます。歴史的・政治的に敵を打ち破り、その手から解放する力ある救い主が、今度は、暗闇と死の陰に座している者たちを明るく照らす光として訪れる。クリスマスには神の力と共に神からの光の訪れがあるというのです。
光の訪れを敏感に感じ取れるのは、「暗闇と死の陰」にいる人々です。光は「あけぼのの光」と言われ、それが人々を照らすと言われます。「照らす」というのですから、「あけぼのの光」は単に密やかにきらめいている「あけの明星」のような星ではなく、もっと照らし出す「太陽の光」のようでしょう。「あけぼの」ですから「朝日」の輝きのように思われます。ただし、「朝日」なら地平線の下から少しづづ上ってくるものです。それがここではいきなり「高い所からあけぼのの光が訪れる」と言われます。下から上る光ではなく、高い所から、つまり高くいます神御自身からその憐みによって光の訪れがあると言うのです。高い所からの光なら通常は真昼のことで、あとは次第に夕方に変わって、沈みます。しかしここで言われている光は、沈まぬ光です。「あけぼのの光」ですから、新しい一日の歩みが始まり、活動が開始します。「神の憐みによって」「暗闇と死の陰に座している者たち」に新しい歩みが与えられるわけです。
「暗闇と死の陰に座している者たち」とあります。「座す」、つまり「すわっている者たち」です。暗闇の中では、わたしたちは歩くことができません。本当に真っ暗な中に身を置いたことがおあありでしょうか。暗闇では、どっちに向かって進めばいいのか分かりません。方向が分かりませんし、道も分かりません。動けば何かにぶつかる、あるいは穴にでも落ち込みます。しかも「死の陰」であれば、恐れと不安の中におかれ、希望の出口が分かりません。ただじっと座っているしかないでしょう。しかしそうした人々をあけぼのの光が照らします。暗闇が終わり、進むべき方向が分かります。目標が分かり、希望が湧いて来ます。そこへと向かう道が見えてきます。
クリスマスの主イエスの誕生は、そうした神の憐みによって「高い所からあけぼぼの光の訪れ」があることだと言うのです。だから「ただ座すほかない」のでなく、歩き出せる。その方向と道とが示される。そして歩き出す勇気と希望とが湧くはずです。
神の訪れは、わたしたちを変えます。「救いの角」を起こすことによって。それがなかった時とそれが起きた後とでは人間の生活は変わってきます。74 節にある通りです。「こうしてわれらは敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」。神の訪れによって救いがもたらされたとき、わたしたちの生き方は、新しくされ、「恐れなく主に仕える」生活がはじまります。それも生涯にわたって。「主の御前に清く正しく」とあります。神との平和な関係の中で聖なる者とされ、また義なる者とされてということでしょう。恐れなく主に仕えるのですから、恐怖によって人間に仕えたり、あるいは国家に仕えるのではありません。我儘勝手に生きるのとも違います。恐れなく主に仕え、神を真の神と仰ぎ、神の民、神の子とされた者として生きるのです。
「あけぼのの光の訪れ」がわたしたちをどう変えるかも簡潔に記されています。79 節。あけぼのの光がわたしたちを照らし、「我らの歩みを平和の道に導く」というのです。ですから、わたしたちは歩み出します。それも「平和の道」を歩み出す。「あけぼのの光」である主イエス・キリストが導く道を行くわけです。
合わせて言えば、「おそれなく主に仕えて、平和の道に導かれる」。それが神の訪れを受けた者、そして救いの角に伴われた者、神の憐みによるあけぼのの光に照らされた者の生き方でしょう。恐れなく主に仕えて、平和の道に導かれて行きましょう。

憐れみに富みたもう天の父なる神様。待降節第三主日の礼拝にあずかることを許されて感謝します。あなたが主イエス・キリストを救いの角として起こしてくださり、またあけぼのの光としてわたしたちを照らすようにしてくださったことに感謝いたします。どうぞおそれなくあなたに仕えて、生涯を平和の道に歩むことができますように、また教会がこぞって主イエス・キリストにあるあなたの救いの御業を証し、あなたによる真の平和を伝えていくことができますように、御霊を注いでお導きください。御子・主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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