銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘


銀座の鐘

「喜びに溢れる新しい道」

説教集

更新日:2025年12月29日

2025年12月28日(日)降誕後第1主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 岩田 真紗美 副牧師

マタイによる福音書2 章1~12 節

主の年2025年が間もなく暮れようとしています。本日は今年最後の主日礼拝です。いつも「家庭礼拝のしおり」をお持ちの皆さんとは、この一年、それぞれの祈りの場で共に同じ御言葉の恵みに与れたことを、神さまに感謝いたします。また、多くの奉仕者の手によって、発送作業の一部始終が守られたことを主に感謝します。既に「週報」などによってお気づきの方が多いと思いますが、実は今週、週の半ばの木曜日が「聖書講義・祈祷会」ではなく「聖餐式のある元日礼拝」です。帰省されているご家族がおられれば是非皆さんで、教会に来ていただけたらと願います。クリスマスが終わろうと、お正月が来ようと、教会の歩みは世界中でこのように一年を通して、主を崇める礼拝と共に進められています。この恵みに溢れる道に繋げられたことを、今日は初めに心の底から喜び合いたいと思います。教会堂の随所にあるクリスマスの飾りも、『銀座の鐘』12 月号で牧師先生が書いておられたように、エピファニー(公現日/1 月 6日)まで、そのままにしておきます。今日の聖書箇所が語る「学者たち」の礼拝が、まさにキリスト公現の日、つまり主が異邦人たちの前にもそのお姿をお見せになった日です。 「公現日」の時として教会はこの時までをクリスマスシーズンとしています。
ところで、古代教父のアウグスティヌスが「祈りとは、魂の呼吸である」と言ったように、礼拝を通して祈る時、私たちは最もリラックスして日常の重荷から解き放たれます。まるで温泉に浸かっているかのように、 魂がゆっくり呼吸できるのが祈りの時です。 また、呼吸が困難になると人間の生命が危険な状態になるように、キリスト者にとって、生きる上で祈りと礼拝の生活は欠かせないものだと教父は教えます。例えば、一定の時に鐘を鳴らして修道院でささげられている「時祷」は、決められた時刻に決められた場所に額ずいて祈ることで、神の民の生活における心身の健やかさを支えているそうです。またその鐘の音が、銀座教会の礼拝が始まる時の「銀座の鐘」の音と同じように、町全体を祈りの時へと誘う、神の民への「時報」の役割も担っているようです。まさに祈りは魂の呼吸であり、信仰者の命を生き生きと生かすものであると言えます。さらにその祈りが礼拝の中で唱えられ、信仰者同士の「喜びの呼吸」となっていく時に、群れとして神を讃美し崇める恵みを感じます。この群れの支えが無ければ、祈りの言葉も絶えてしまうのではないかと思うことがあるほど、教会や支区の仲間と一緒に祈り、礼拝を守る日々は恵みに満ち、この一年も絶えずその賜物に恵まれた年でありました。感謝に堪えません。
さて、今日のマタイによる福音書が語るエピファニーの晩は、そのような群れの信仰の喜びの呼吸の音が響き始めた晩とも言える箇所です。初めはお生まれになった幼子イエスさまを拝みに行きたい一心で、「その方の星を見た」(マタイ 2:2)瞬間から「学者たち」(同2:1/7/10)はエルサレムへと駆け出しました。日常の拭いきれない疲労感や、喩えようのない虚しさが、「その方の星を見た」瞬間に、「魂の渇き」として意識され始めたのかも知れません。やがて大人になられたイエスさまが、村々を回りながら「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」(同 9:36)る時が訪れますが、人の子は、まさにこの世にお生まれになった瞬間から、魂の渇きさえ意識できなくなってしまった人間の心を揺さぶられたのです。最後に学者たちは、喜びに溢れる新しい道へと招かれますが、もはや新しい道を希望することすらしなくなってしまった私たちの石のように意固地な魂に、主は聖霊によって近づかれました。
何の不足もなく天に御座を据えておられた神の身分であられながら、「かえって自分を無にして」 (フィリピの信徒への手紙 2:7)まことに「僕の身分になり、人間と同じ者になられ」たイエスさまは、礼拝の中で私たちのことも、神に渇きを癒していただける喜びに溢れる道に、しっかりと繋げてくださいました。そして飼い葉桶に眠るイエスさまを学者たちが必死に探し出したように見えるこの晩の恵みの出来事は、神の恵みが、いつ如何なる場合に在っても先行していることを証しします。礼拝の場で跪いて祈るようにと招かれたのは、私たちを罪の中から探し出し、洗礼の恵みへと最後まで諦めずに導いてくださった、あの神の選びが先立って進まれたからです。学者たちを探され、星を動かし、招かれた神は、やがて御手によって新しいエルサレムである教会の礎をも、先立って植えられました。
話は、星の導きによって幼子イエスさまのお生まれになった場所を見出すことが出来た学者たちに戻りますが、10 節を見ますと彼らの喜びがまことに大きなものであったことが分かります。彼らは「大いに喜びに喜んだ」(マタイ 2:10、私訳)と原文のギリシャ語を直訳すれば、このようになるのです。その心を風船に喩えるならば、それを膨らませられるところまで大いに膨らませて、はち切れんばかりに目一杯、喜びを溢れさせている様子を福音書記者マタイは語ります。
 ところで「神」ではなく、「王」(2:4)に集められてメシアの誕生した場所を尋ねられた者たちにも、最後に注目してみたいと思います。この時、「お前は決していちばん小さい者ではない」(2:6)と「ベツレヘム」は言われています。「民の祭司長たちや律法学者たち」(2:4)のヘロデ王に対する返答の言葉です。神を信じる神の民が重んじてきた「預言者」の言葉を、当時の世の闇を代表するような王の前で、王の味方の者たちが述べています。さらにこの返答は、旧約聖書の該当箇所であるミカ書5章の冒頭の部分と僅かに異なっています。ミカ書の原文は、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。」 (ミカ 5:1)となっています。ヘロデ王は、 「あなたは小さい者でないから、 世を治めている」 と自認していました。 その、真実とは異なる自己を見て、自分のほうを神よりも大きくし、その反対にある時は、孤独感や不安に苛まれていたのがヘロデ王でした。しかし預言者ミカは、「いと小さき者」、つまりこの世で最も小さな者として蔑まれてきた「ベツレヘム」の群れから、神は憐れみをもって、御自分のために神の国と義を実現する忠実な「治める者」を、「救いの角」(ルカ1:69)として起こす、と預言書で約束されているのです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録 21:4)と語られる「新しい天と新しい地」(同 21:1)を終わりの日に現わされるまで、この壮大な神の御計画は続きます。今日もその中の一日であることを、この年の瀬に私たちは改めて憶えたいと思います。
 学者たちは、幼子イエスさまを拝んだ後に夢のお告げによって、ヘロデのところに帰らずに自分の国に帰る、新しい「別の道」(マタイ 2:12)を示されました。神はご自分の明確なビジョンと、限りのない愛をもって私たちを選び、主と共に生きる新たな生き方へと押し出してくださいます。たとえ希望の「星」を見失った時でさえ、 「わたしがあなたから目を離していないのだから大丈夫だよ」と、主は私たちを「安らかに住まう」(ミカ 5:3)ように配慮されます。ご自分の大事な「群れを養う」(同)牧会者としても主は常に私たちの前に威厳高く立っていてくださいます。「占星術の学者」(マタイ 2:1)であった彼らが一番理解しやすい空の星の動きを、ご自分の言葉のように自由にお用いになって神は、彼らを救いの道へ導かれました。「ユダの氏族の中でいと小さき者」(ミカ 5:1)と言われた主は、この世で最も小さき者の救いの道に常に同伴しつつ祈り、歩まれる伴走者となって、私たちと魂の呼吸を合わせ、今日も共に、新しい年へと進ませてくださるのです。 (祈祷)

最新記事

アーカイブ