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銀座の鐘

「永遠の契約」

説教集

更新日:2025年07月12日

2025年7月13日(日)聖霊降臨後第4主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村満

創世記17章1-7節

創世記17章1節~7節                  
 もう10年ほど前ですが、信州におりました時に、ある老人ホームを訪れました時に、このような詞が、壁に掛けられておりまして、興味深く読みました。その文面の最初を紹介しますと、このようにあります。全ての文は紹介すると長いので、要約したものを紹介いたします。
 「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた想像力、たくましき意志、燃ゆる情熱、こういう様相を青春という。年を重ねただけでは人は老いない。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。人は信念と共に若く、疑惑と共に老いる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老いる。希望ある限り若く、失望と共に老いる。」
 この詞は、サムエル・ウルマンという詩人が書いたものであるそうですが、妙に、心に響くものがありました。わたしたちが普通、「青春」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、15歳くらいから20代半ばくらいまで。心若く、将来に対して深い憧れを抱いている頃であると思うのですが、この詩人が言うところによると、それは心の持ちようである。80歳になっても、情熱をもって生きているならば、その人は青春の真っただ中にいるという。あるいは20歳でも、生きる喜びなく、自分のやりたいこともなく、引きこもってばかりいるならばその若者の心は老人なのだと。
 もしそうであるならば、私の心は一体、青春を生きているだろうか。本当にいきいきと、はつらつとしているだろうか。そんなことを考えさせられたのと同時に、わたしも、今、この時において、心の持ち方次第で、青春を生きることもできれば、老人になることもできるのかもしれない。そう思ったのですね。
 旧約聖書を読んでいきますと、よく思いますことは、主人公が老人であることが多いことであります。若い頃に神様に用いられて活躍する人もおりますけれども、この創世記の中心的人物であるアブラハムも、また出エジプト記の中心的人物であるモーセも。年をとってから神様に召されて、信仰の旅に出かけたり、イスラエルの指導者として大きな働きをしたりしております。ヤコブや、モーセなどは若い頃からの話もありますが、むしろ若い頃は、自信にあふれて、しかし高慢になって失敗をしています。そして、あえて、年を重ねて知恵と分別と、謙遜と柔和が備わったのちに、神様に用いられている。ヤコブも、モーセも、そしてこのアブラハムも皆、年をとるにつれて、不信仰や、高慢や欲望など、いらないものがそぎ落とされて、人間として成長し、そのひとの良き本質みたいなものが表れてくる。そうした時に、彼らは、若い頃よりもはるかに神様に栄光を表わすものへと変えられているのであります。
 しかし、そういう生き方。年をとってなお、心の若さを保ち、将来に向けて、歩んで生きることのできるのは、自分だけでは決してできない。「今を生きよ」、と命じてくださる神様と共に歩むときに、確かに、わたしたちもまた「青春とは心の若さである」ということができるのではないかと思うのです。

2, 99歳のアブラハムに与えられた約束
 さて、今日私たちに与えられた御言葉の中には、99歳にもなったアブラハムと、神様との契約の更新の記事が記されております。御承知の通り、これまで、何度も神はアブラハムに臨まれた時がありました。初めにアブラハムを召し、大いなる国民としようと約束された時、彼は75歳でありました。その神の約束を胸に秘め、アブラハムはその家族と共にハランという町からカナンに向けて旅立ったのです。その後、アブラハムは様々な経験のあと、神の約束を新たに与えられます。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」その時86歳にもなっていたアブラハムですが、「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」と言われた神の約束を信じました。   
 その時からさらに、13年という月日が流れました。アブラハムとサラは、待ちくたびれたのです。その途中、彼らは信仰において一つの妥協をしました。サラが、自分は老いてもはや子供が産めないと考えて、奴隷女ハガルと夫アブラハムとの間に子供を産ませ、そのあと、家庭内で非常に辛い出来事が起こりました。彼らは、生まれてきたイシュマエルという子供をどれほど愛したことでしょうか。もしかすると、すでに、この子をハガルに産ませたのは間違いであったのかも。そういう、不信仰から来た妥協を悔いる心があったかもしれません。しかしあの大いなる約束の後、神から何の音沙汰もありません。彼らは、いわば、信仰生活の倦怠期というものの中に入り込んでしまったようです。
 実際、このような時期は、わたしたちの信仰生活にも起こりうることではないでしょうか。洗礼を受けた時は、喜びがあり、教会に友達を連れてくることもありました。讃美をし、教会への奉仕に生きがいを感じました。しかしそれも、仕事が忙しくなり、子育てが忙しくなっていくと、だんだんと初めの喜びが失せてしまい、教会から遠のいてしまう。あるいは、信仰生活をまじめに送っていても、毎週語られている牧師の説教が、響いて来なくなる。次第に毎日欠かさずにしていた祈りも、聖書日課も、おろそかになってしまう。喜びがなくなってしまう。そういう時期を、実は誰もが経験することがあるのではないでしょうか。
 アブラハムは、この長い、神様の約束を待ち続けて、待ちくたびれて、自分はもう神様に見限られてしまったのだろうかと思っていたのではないでしょうか。いくら神が約束してくださったとしても、もうわたしは、まごうことなき老人だ。一体わたしたちに子供が生まれるなどあるわけがい。・・・彼らは、神の約束ではなく、目に見える現実を見て、深いため息をつきます。
 しかし、まさにそのような時に主なる神が新たに、アブラハムに臨まれます。そして再び語られるのです。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」待ちくたびれて、もう、ほとんど諦めていた、13年前の約束を、この年になったアブラハムとサラに、思い起こさせるのです。さあ、約束の時が来た。今こそお前たちに約束の子どもを与えよう!しかしアブラハムは、主の御前にひれ伏しながらも笑って言います。卑屈な、不信仰な笑いです。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が生まれるだろうか。」そして主に向かって言うのです。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますよに。」アブラハムは、この期に及んでなお疑うのです。神様、あなたは約束ばかりでちっとも実現してくださらないではないですか。仕方なく私たちは奴隷女によって子供を産ませました。このイシュマエルで十分です。もうわたしたちの体は子供を授かることはできません。」そういう反抗的な思いが裏にある、卑屈な笑いです。神に抗議するのも面倒だ。信じた私が馬鹿だった。・・・そのようにアブラハムは、自分の常識で考え、理解できることしか信じることができない。ここにもわたしたちとアブラハムは重なっております。わたしたちもまた、自分の常識の範囲内でしか神様の恵みを知ろうとしないようなところがあると思うのです。そこでわたしたちは自分達よりも小さなものとして神を認めてしまっている。望みえない時になお望む、ということがなかなかできないのであります。

1、 全きものとなれ!
 しかしそのようなアブラハムに対して、主は最初に告げられたのです。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」わたしは全能の神である!神には何でもできる。アブラハムよ。そのことを疑ってはならない。わたしはあなたに約束を与えてから、どのように歩んでいるのかしっかりと見守っている。あなたは不信仰に陥ってハガルに子供を産ませた。そのことをも知っている。しかしわたしにはあなたに対して大いなる計画がある。あなたがたを祝福し、あなたとサラからの子どもを祝福する。そのことを信じ、全きものとなりなさい!主なる神はアブラハムにそう言われるのであります。一体、全き者となるとは、どういうことなのでありましょうか。「全き者」とは「完全な者」という意味であります。しかしわたしたちもまたアブラハムのように、自分自身を振り返ってみて、完全な正しさをもって歩んでいると言える人間などどこにもおりません。完全など、アブラハムのうちにも、そして私たちの内にもないのです。そうであるならば、神がアブラハムに命じておられる完全とは何であるのでしょうか。
 それは、全能であられる神の御前に歩み、神との関わりに生きなさいということであると思うのです。道徳的に完全になりなさいと神様はアブラハムに求めておられるのではないのです。それができるならば、もとより神様の助けなどいらないのです。それができると考えること。そして神様との関わりなしに生きようとする。それが私たちの罪なのです。
 新約聖書、ローマの信徒への手紙の第4章では、パウロによって、アブラハムが信仰において義とされたと記されております。行いによってではありません。信仰において義とされるとは、神が全能であられ、愛であられ、それゆえに、わたしたちを愛し、救ってくださるというそのことをただ信頼しきるということであります。しかし、このローマの信徒への手紙4章全体を読んでいますと、どうもパウロは、アブラハムを買いかぶりすぎているのではないだろうかと私は思ってしまいます。創世記のアブラハム物語をじっくり読めば、パウロが言うように、アブラハムは「不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなかった」などということは決してないと思うのです。何度も疑い、何度も挫折し、失敗しているのです。しかしそうであっても聖書はアブラハムを信仰の模範としている。信仰の父として認めているのです。そこには、全能の神が、行いにおいても、神を信頼するということにおいても、まことに欠けだらけのアブラハムを、それでもなお祝福し、恵みに立たせてゆくという神の大きな決意。愛の決意があると思う。その愛の決意の中に、わたしたちもまた導かれているのであります。この愛の決意の中で、神はアブラハムとの間に契約の更新をなされます。「あなたは多くの国民の父となる」と。

2、 改名           
 そして神は、二人の名前を新しくいたします。この時まで、彼はアブラムと呼ばれ、妻はサライと呼ばれてきました。しかしここからはアブラハムとなり、妻はサラと呼ばれていくのです。サライは「私の女王」そしてサラは単に「女王」という意味です。アブラムとは「高められた父」という意味です。そしてアブラハムとは「多くの国民の父」という意味であります。99歳で、なお実子のいない彼に、「多くの人の父」と改名せよと言う。そこにはアブラハムに与えられている大きな祝福の御計画があったのです。
 それにしても、名前が変わるとは大きな意味のあることでありましょう。わたしたちは人生の途中で名前を変えるなどということはほとんどありません。名前は、わたしたちの人格そのものを表わすものです。その名前によって親がその人をどういう人に育ってほしいと思ったかわかるということです。そうでありますから、その人生の途中で名前を変える。それはその人自身が全く新しい人になると言うことを現しております。
 神によって、アブラハムからアブラハムへと変えられた。それは、神がわたしたちと関わりを持ってくださる中で、わたしたち自身が新しい人へと変えられていくということであります。わたしたちは自分ではなかなか変わることができません。変わったと思っても、本質の部分では同じであることがあります。しかしわたしたちが神のものとされる時、神がわたしたちに働きかけ、新しく変えてくださるのであります。信じない者から、信じる者へと。自分ひとりで生きる者から、神と共に生きる者へと変えられる。そこで、私たちは皆新しい人とされていくのであります。

3、 「笑い」という名前の子ども
 続けて、主は、約束を信じることができず、イシュマエルを通して子孫が与えられると思い込んでいたアブラハムに、約束を強く宣言されます。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」サラとの間に生まれる子供は、笑いという名前なのです。不信仰からくる、ニヒルな笑いではないのです。歓喜溢れる、喜びの笑いです。神の祝福の笑いが天にある。そこで、わたしたちも笑う。
 教会とは、まさに、神の祝福の喜びの中に生かされる交わりです。笑いがあってもよいのです。むしろ振り返ってみて、私たちの信仰に笑いはあるだろうか。神様の恵みに喜び、笑っているだろうか。アブラハムにはイサクが与えられました。そしてわたしたちには、神の御子、主イエスが与えられました。この御子のなしてくださった救いの御業を仰ぐ時、わたしたちの内にも笑顔が溢れるようになりたいと思う。そういう喜びの群れとして歩み続けていきたいと思うのです。
 私の尊敬するある牧師が、こういうことを言っておられます。教会は、この世界がどれほどの悲惨に満ちようともなお希望を失わない、そういうしたたかな信仰に生きることができるのだと。主イエス・キリストの復活のゆえに、望みえない時になお望む、そういうしたたかさを持つことができるのだというのです。
 99歳で、もはや希望なしというアブラハムに、笑いと言う名前の息子を与えてくださったのです。あらゆる、地上の希望や望みが潰えるその時になお、主イエスの復活のゆえに、そしてわたしたちの復活の約束のゆえに、今、笑うことができる。そういう信仰を神は私たちに与えてくださっているのであります。

4、 割礼から洗礼へ
 さらに、神は、これからもアブラハムの子孫と契約を結び続ける約束と、カナンの土地を永久にアブラハムの子孫の所有地として与える約束をなされたのち、契約のしるしとして割礼をうけるように命じます。割礼とは、男性の性器の包皮を切除する儀式であり、それを通してユダヤ人は、神の民として自分を世の中から分離させます。この儀式は、体の一部を切り取るのですから、大きな痛みを伴ったことでしょう。男性にとって辛いものであったに違いありません。それだけに、神との契約に与り、神の民として聖別されたという意識が強く与えられたと思います。しかし、のちにイスラエルの預言者は、割礼を重んじていても、内実が伴わない人々に対してこのように告げます。「心に割礼のないイスラエルの家をすべて罰する。」(エレミヤ書 9 章 25 節)そしてこのことは、洗礼においても言えることであります。わたしたちは信仰を告白し、洗礼を受けました。その洗礼が、単なる水を注がれたというだけでなく、聖霊を注がれ、主イエスの十字架の死と復活に与ったことを意味しております。わたしたちは洗礼を通して主イエスと共に死に、主イエスと共に新しくよみがえったのであります。そのことを今、深く受け止めて主の約束に生かされているでしょうか。
 使徒パウロは、コロサイの信徒への手紙 2 章 11 節以下でこのように述べております。
「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。」(コロサイ 2 章 11 節~13 節)
 洗礼は、割礼よりも優れたものであります。単に神の契約のしるしとして身を傷つけたというだけにとどまらず、そこでキリストの死と復活に与るからです。洗礼によって、確かにわたしたちは、イエス・キリストを通して永遠の命を受けたのであります。しかし、この洗礼も、皮相的なものに堕してしまうことがあります。わたしたちは、イエス・キリストを私たちの救い主として信じて受けました。その救いが今も私たちの心の中で喜びとなって、生きているでしょうか。洗礼を受けてのち、生きているときも死ぬ時も、わたしたちが、わたしたちのものではなく、神のものであり、私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストのものであり、それゆえに、主イエスがわたしたちの人生に全責任を持ってくださっているということを信頼し、感謝して歩んでいるでしょうか。そうであるならば、わたしたちの洗礼は生きているのであります。実を結んでいるのです。わたしたちの心にこそ、聖霊を通して割礼がほどこされたのであります。しかし、そうであるならば、わたしたちはこの恵みを日々、感謝して受け止めていかなければなりません。洗礼を受ければそれで大丈夫というのではなく、洗礼を受けてからがわたしたちの信仰の本当の始まりなのです。わたしたちは洗礼を受けました。その大きな恵み日々、心に受け止めつつ、主の約束に生きていきたいのです。

5、 神の恵みによって日々、新たに
 さて、アブラハムは、99 歳という、老年になって主なる神の約束によって名前を新たにされ、新しく生きる者とされました。彼は、神の約束を信頼することができず、何度も失敗し、迷う、わたしたちと同じ弱さを持つ人でありました。しかし、そのようなアブラハムに、何度も約束を更新し続けてくださり、信仰に立たせてくださいました。アブラハムにとって、99 歳の青春があったのです。主が、アブラハムに、「あなたの人生はこれからだ!」と告げてくださったからです。
 主がわたしたちと伴われるとき、わたしたちもまた、本当に「今を生きる」ことができます。主イエスを信じ、神の恵みに生かされているわたしたちにとって、いつも今が、青春の時です。体は弱り、心も疲れ果てる時があるかもしれません。しかし、主が、わたしたちにその都度、語りかけてくださる。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全きものとなりなさい。」アブラハムに語られたこの御言葉を、わたしたちにも今語りかけてくださっていることを、喜びをもって受け止めていきたいのです。そして、今、ここに、神がわたしたちのために、大いなるご計画を立ててくださっていることを受け止め、その素晴らしい将来を仰ぎ見つつ、最後まで全力で生きていきたいのです。お祈りをささげます。

 教会の頭であられる主イエス・キリストの父なる御神。
 アブラハムに与えられた、祝福の契約が、今わたしたちの教会に。教会のえだでありますわたしたちひとりひとりに確かに与えられている幸いを、心から感謝申し上げます。主イエスの十字架と復活を信じ、洗礼を受けて長い月日が経ちます。時に、その恵みを忘れがちなわたしたちです。アブラハムがそうであったように、あなたに信頼できず、右往左往してしまう弱さがあります。しかしあなたが、わたしたちに「全き者となれ」と命じてくださいますからわたしたちは今、主の御前に立つことができます。そして今を生きることができます。主よ、どうぞ、わたしたちの人生の実りを、その最後まで、あなたが与えられた恵みの中で、自らの手で、確かなものとして受け止めていくことができますように。これまで主に支えられてきた歩みを、素晴らしい人生であったと感謝しつつ、将来、御国において与る永遠の命を、心から憧れていくことができますように。わたしたちの手の働きを、確かなものとしてください。そして、信仰に招かれている方々一人一人に、洗礼をお受けになる志を与えてください。共に喜び、共に歩んでいくことができますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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