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銀座の鐘

「神の選びによって生きる」

説教集

更新日:2025年11月01日

2025年11 月2日(日)聖霊降臨後第21主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 聖徒の日、召天者記念礼拝 牧 師 髙 橋 潤

サムエル記上16章7~13節

 本日与えられたみ言葉の時代背景を理解し、ダビデが選ばれた意味とその意義を共に理解し御言葉に聴きたいと思います。サムエル記上において士師時代から王国時代へ制度が変わり、王国誕生が記されています。初代イスラエルの王はサウルです。この王国は短命でした。王サウルが国内の伝統的な祭儀をごまかし、伝統を守りませんでした。サムエル記上15章7節以下に記されているように、サウル王は、自らの欲望によって上等な羊や牛を惜しんで手に入れるため、値打ちのないものだけを神にささげ滅ぼしつくしました。神はサウルの礼拝を見ていました。そして、主の言葉がサムエルにのぞみます。15:11 「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。
 神がサウルを王に立てたことを悔やまれたとあります。サムエルは心を痛め、夜通し神に祈りました。サウル王は国内だけでなく、外交上も問題を起こしていました。ペリシテ人との関係が悪化し、サウルの失敗によってイスラエルの全勢力が分断されてしまい結集することができなくなりました。困ったサウルは神だけでなく、占いなどにも助言を求める始末でした。巫女の助言からもサウル王の破滅が預言されるほど落ちぶれてしまいました。サウルの息子たちもほとんどが戦いの中で倒れました。サウル自身も重傷を負い、自ら死を選びました。ペリシテ人たちは、サウルの首と武具を戦勝記念とし、サウルの息子たちの遺体を見世物にしました。ギレアデの住民はかつての恩返しに、ひそかにサウルとその息子たちを手厚く葬りました。ダビデが選ばれる時代、ペリシテ人の支配がパレスチナ全体に広がり、最初の王国が終わりを迎えようとしていました。イスラエルはかつて経験したことのないようなどん底の時代を迎えています。これがダビデが選ばれる時代のイスラエル王国の現状です。
 本日の御言葉は、誕生したばかりのイスラエル王国のどん底の中での出来事です。同時に、このどん底からイスラエル王国の驚くべき躍進を遂げる、夜明けを迎える時代の始まりとも言える歴史の分岐点です。それが、少年ダビデ、羊飼いダビデが油注がれる出来事です。
 ダビデはユダ族に属するエッサイという男の八人兄弟の末っ子です。ダビデはエルサレムの南8キロ離れたベツレヘムで生まれました。ダビデは行動力と活力にあふれ、政治的な本能と政策立案の才能に恵まれた若者です。辛抱強く、粘り強く、決して焦らず、その目標を実現するための時を逃さない判断力を持っていました。ダビデが公の場に登場するのは、サムエル記上16章21節、サウル王の盾持ちとしてです。ダビデは自ら職業軍人となって、やがてサウル王の憎しみと嫉妬を買うようになります。これはダビデが次第に軍や民衆の人望を得るようになり、サウルの息子ヨナタンと友情をもつようになり、サウルがダビデを危険なライバルとして恐れるようになったからです。
 聖書は、ダビデがどのようにしてイスラエルの王になったのかを記しています。それは、イスラエルの民がダビデを王として迎える以前に、神がダビデを選んだという、神の選びがあったことを記しています。聖書は民衆の選びだけでは、本当の王は誕生しないことを告げています。イスラエルの王は神の選びによらなければ、王の正当性はないことを教えているのです。神から離れたサウルが王として君臨できなかったように、神の選びが重んじられるのです。
 サウル王の失敗は、サウルが部下を恐れて神の言葉に背き、イスラエルの戦いを戦利品目的の戦いへと様変わりさせてしまったことです。サウルが神の言葉に背き、神から離れ、神を見失う時、王としての自分を見失い、神に選ばれたことを裏切ってしまったのです。
 神は預言者サムエルをベツレヘムのエッサイの所に遣わしました。神は、サムエルより先にダビデを選び、ダビデに油を注ぐために、サムエルを遣わしました。16章1節以下には、主なる神がサムエルに「いつまでサウルのことを嘆くのか」、神がサウルを王位から退けたこと、神が王となるべきものを見つけたこと、だから角に油を満たしてベツレヘムのエッサイのもとに出かけなさいと命じられました。ここに記されている大切なことは、イスラエルの王国が王の不在というどん底に落ちて、危機に瀕している時に、神がサウル王に代わるダビデを探し出したということです。王の交代は、サムエルの判断ではなく、神がリーダーシップを発揮して神が道を開いて、神が決断しているということが記されているのです。
 神が探し出したサウル王の後任はエッサイの末っ子ダビデでした。サムエルがエッサイの息子たちと出会った時、エッサイは容姿や背の高さから長男エリアブに目を留めました。しかし、主なる神は容姿や背の高さに目を向けるな。人間が見るようには見ない、人は目に映ることを見るが、主は心によって見ると語られました。
 エッサイもまさか末っ子のダビデではないと思い羊の群れの番をさせていたほどです。エッサイもダビデの兄たちも、ダビデではないと暗黙の了解のよう考えていました。しかし、神の目は人々の目と違い、神は心によって見ていました。そして、末っ子ダビデを呼び寄せ、ダビデが到着するまでは食卓に着きませんでした。ダビデが帰ってきます。ダビデは血色が良く、目は美しく、姿も立派でした。主はサムエルにいいました。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは、油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で、末っ子のダビデに油を注ぎました。神がダビデを心で選び、王として立てました。
 実は、その後ダビデはもう一度油を注がれています。サムエル記下 2 章 4 節に主なる神がダビデにヘブロンへ上るように命じ、ヘブロンにおいてユダの人々がダビデに油を注ぎ、ユダの家の王としたことが記されています。サムエルの油注ぎとユダの人々の油注ぎとどちらが正式なのでしょうか。ある聖書学者はサムエル記上 16 章の油注ぎは、エッサイの家族の間で行われたものだから「非公式」であったと理解しています。そして、ダビデがヘブロンで油注がれたときに本当に王となったと解釈します。私たちに大切なことは、どちらが正式でどちらが非公式なのかという判断を下すことではなく、どちらも神の業であることを受けとめることです。サムエルを用いた油注ぎも神主導の業でありました。神の命じるままに行われています。この油注ぎの日以来、「主の霊が激しくダビデに降るようになった。」とあるように、神はダビデを神の力によって捕らえたのです。それが、ユダの人々の前で油注がれるまで、王となるための試練、訓練の期間だったのです。聖書は神の恵みによってダビデがイスラエルの王に選ばれた出来事を通して、徹頭徹尾、神中心であることを伝えています。神の油注ぎは、ダビデを神の道具として選んでくださいました。サウルや多くの士師たちと同様に、これ以後ずっと神の霊がダビデの上に臨むことになるのです。神の霊は、ダビデ以後も、時の終わりに登場する王に至るまで続いていくのです。
 主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、神の霊が降りました。神の救いのご計画の中で、ダビデの油注ぎは、主イエスに至る同一線上にある出来事です。クリスマスに読まれる主イエス誕生の系図は、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン移住まで、バビロンからキリストへつながると記されています。
 神の選びは、「心を見る」という事です。心を見るとはどういうことでしょうか。神がダビデの心を見るということは、神にしか分からないことでありましょう。神との関係において、神が判断されることです。神に従順になるということではないでしょうか。神に対してへりくだるということではないでしょうか。神が心を見るということは、神の御業が行われる時、神の目的のために自らを捧げる、そういう人の心を神は見てくださるのです。
 神が心を見るということは、容姿端麗とか、背が高いとか、特別な能力があるということではないようです。そうではなく、神にしか分からない神の選びがあるということを私たちは覚えておきたいと思います。神は洗礼を通して私たちを神の心でお選びになったのです。
  本日は召天者記念礼拝です。主イエス・キリストの十字架と復活こそ神の救いのみ業と信じて、信仰生活を全うされた方々を覚えて祈ります。召天者名簿に記された方々は、さまざまな地上の生活を歩まれた方々です。人の目では、この世の働きや実績などあるでしょう。また、信仰生活が長かったとか、教会の役職を通して尊い奉仕をしたとか、私たちの目で見ることは様々でしょう。しかし、大切なことは、神の目で見つめられ、神が一人一人の心を見てくださり、洗礼を授けてくださったことです。コリントの信徒への手紙一1章26~27節を読みましょう。「26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
 神が心を見て、選ぶこととは、私たちの知恵や敬虔や価値判断ではないのです。神の自由な選びです。私たちは外面的にも内面的にも神の御前には無力なのです。しかし、神の選びは、神の恵みに満ちた神の愛と自由な愛の心によって驚くべき選びがなされるのです。
 神の心は、主イエス・キリストの中に明らかにされています。主イエスが弟子を呼び、子どもを祝福し、病人をいやし、不自由な人を癒し、ザアカイを招き、やもめを憐れんでくださったことの中に、神の自由な選びを見ることが出来ます。
 神の自由な愛による選びを通して、召天者を記念したいと思います。そして、同時に、神の自由な愛による選びを通して、私たちがここに集っていること、神の御前に立つ事が出来ることを覚えたいと思います。
 立派な人だけが洗礼を受けるのではありません。ここにはまだ洗礼を受けていない、しかし受けたいと願っている方がおられるのではないでしょうか。あなたはキリストのゆえに神に選ばれています。ぜひ、洗礼を志願して、神の選びを受け入れてください。すでに洗礼を受けている方々は、自己評価ではなく、神の自由な選びによって、神の助けによって生かされていることを覚え、感謝して神と共に歩み続けたいと願います。

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