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銀座の鐘

「信仰者の目標地点」

説教集

更新日:2026年10月26日

2026年10月25日(日)聖霊降臨後第22主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

ローマの信徒への手紙8章15~17節

 キリスト教信仰の話はどこから始まり、どこで終わるのでしょうか。わたしたちの信仰の初めと言えば、神様を信じる信仰を求めはじめることからでしょう。しかし、人によって、また環境によって、色々な始まり方があると思います。自分から意識して救いを求めた方もおられるでしょうし、そうでなく、それ以前から教会に通い始めていた方もおられると思います。始まりはさまざまでも、共通して言えますことは、礼拝に参加し、聖書の御言葉の解き明しを聞き、導かれて洗礼を受けたのではないでしょうか。洗礼を受けて、それで信仰の歩みの到達点に達したかというと、そうでなく、それは実は出発点に立たされたのであって、そこから信仰生活が本格的な開始したと知らされたのではないでしょうか。どういう信仰にまで進んだら、わたしたちの信仰は目標に達したと言えるのでしょうか。
 今朝の聖書箇所ロマ書8章15節には「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」とあります。「霊を受けた」という表現は、「洗礼」を受けたことと結びついています。洗礼を受けるとともに神の子とする霊を受け、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼び」ます。信仰のはじめは、わたしたちの不安から始まったかもしれません。自分の人生に生き甲斐がなかった、人生は何のためか分からなかった、あるいはこの世のありさまに絶望していたかもしれません。しかしそれが、主イエスを知り、主にあって神我らと共にいますと知るようになり、洗礼によって主イエスに結ばれ、「父よ」と祈る信仰を与えられました。ということは、不安な自分、生き甲斐もなく、絶望にさらされた自分ではなくて、神を信じて「アッバ、父よ」と呼ぶ「神の子」とされたわけです。
 何時のことだったか正確には思い出せませんが、「信仰の話は神の子とされたというところまでくれば終わる、目標に達する」といった文章を読んで、納得したことがあります。罪ある自分、悩みある自分が、主イエス・キリストの贖いを通して罪を赦され、神の子とされたということ、それは「我恵み汝に足れり」と言われていることでもあり、とても素晴らしいことで、「神の子とされた」と分かったら、もうそれ以上のことは要らない、恵みに満ち足りてよい。信仰の話は、ここで終わってよい。そう思いました。
 それに間違いはないと、今でも思っています。ですが、今朝の聖書の御言葉は、その「神の子とされた」中に、どういうことが含まれているかをさらに語っています。信仰の真理の奥深さを思わないわけにいきません。「神の子とされたこと」が、すでに決定的な救いですが、その救いの中にさらにどういう内容が含まれているか、今朝はその一端を学んで、信仰がさらに深められて身に付くように願います。
 記されている内容に従いますと、まず、神の子とする霊によって「子とされた」のであれば、あなたは「神の子供」だとあります(16、17節)。「子とされる」という言い方と「子供」とでは、実は言葉が違っています。「子とされる」(ヒュイオセシア)というのは、実子でないけれども、子としての身分・処遇が与えられるという法的な響きを持つ言葉です。それに対して「子供」(テクナ)とあるのは、家に生まれた子供、神の家族の中に生まれた子供です。「子とされる」ことによって、法による揺るぎない守りを感じ取ることができますが、「子供」の方は、神の家族に生まれ、その一員として迎えられた温もり、交わりの温かさがあります。「神の子とされた」わたしたちキリスト者は、神の家族の一員にされたのです。
  「子とされた」ことの内容は、さらに続きます。神の家族の一員として生まれた「子供」であれば、それはまた「神の相続人」(クレロノモイ)でもあると言われます。洗礼を受け神の子とされた人は、神の家族の一員であるとともに、また神の相続人にもされています。将来、時が来れば、神の財産、天に在る富を受け継ぐ者にされています。このことは、聖書の他の箇所にも出て来ます。エフェソの信徒への手紙にも、「約束されたものの相続者とされた」(1・11)とあり、「御国を受け継ぐ」(1・14)と言われています。ペトロの手紙一にも「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」(1・4)にされたとあります。「神の子とされた」中には、そういう「相続人」にされたことも含まれています。
 古代のイスラエルでは、相続権は長男にあって、長男の特権でした。それで弟のヤコブは相続権を「肉鍋」によって兄エサウから奪うといった話が出てきます。しかし主キリストにより、御霊によって「神の子」とされた者たち間に相続争いはありません。主にあり、霊にあって「神の子」とされた者は、皆、例外なく、神の子供たちであり、相続人です。その相続権は神の選びに根差していて、決して奪い取られるものではありません。「キリストと共同の相続人」と言われます。キリストが共に相続し、わたしたちの相続権を守ってくださいます。
 それにしても使徒パウロが信仰の真理を筋道立て、丁寧に順序を踏まえて語っていることが分かります。神の子とされたことが神の子供たちにされたことであり、神の相続人、それもキリストと共同の相続人にされたと進んできました。そしてそこから、信仰者の到達地点に進んでいきます。それはこの段落の終わりの言葉、17節の最後です。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。ここに「キリストと共同の相続人」のあり方と、何を相続するかが記されています。キリストにある者として、キリストに結ばれた生活は、今はなお苦しみの中を歩むことがあります。しかしそれはもはや自分一人の苦しみではなくなっています。キリストと共に負う苦しみへと転換しています。
 主イエスの御苦しみは、わたしたちのために主が代わって負ってくださった苦しみです。わたしたちの罪と背きを主は、ゴルゴタの丘の十字架で負われました。そして活ける復活の主イエス・キリストは今日もわたしたちの苦しみを代わって負ってくださっています。仕えられるためでなく、仕えるために来たとおっしゃる主イエスです。ですからキリストと共に苦しむということは、主が代わって苦しみを負ってくださることを知る素晴らしい経験になるのでははないでしょうか。
 そしてすべては「主と共にその栄光を受ける」ことに通じていきます。ここには、「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とありますが、目的を表す言葉が入っていますので、「キリストと共に苦しむなら、それはその栄光を共に受けるためだ」と訳した方がよいかと思います。主イエスは、御自分が受けた神の栄光をわたしたちも共に受けられるように、そのために今、わたしたちの苦しみを共に負ってくださっています。
 「キリストと共にその栄光を受ける」というところまで話が進めば、信仰の話は目標に達すると言ってよいでしょう。主イエスと共に神の栄光にあずかる。それが信仰者の目標地点です。それ以上のことはあり得ません。キリストと共に神の栄光を受けるなら、もはやいかなる苦しみも、死も闇もありません。キリストと共に神の栄光にあずかることは、どんな人の幸せもはるかに越えています。罪を赦され、義とされ、聖とされる、それら全部を包んで栄光はそれ以上です。なぜなら、栄光は偉大なる神の本質だからです。そこに主にあって共にあずかるというのです。主イエスにあって「神の子」とされたということは、今は、キリストと共に苦しみを負う、その幸いに生きて、やがて主の日には主イエスと共に神の栄光にあずかる、それが信仰者の最大の希望であり、確信すべきことです。
 今もうすでに、その栄光に多少はあずかっていると言うこともできないことではありません。なぜなら、共に苦しみを担ってくださっている今日の主イエス・キリストが、活ける復活の主イエス・キリストとして苦難に打ち勝ち、すでに栄光の主でいらっしゃるからです。しかしその主キリストがやがて目に見える栄光の姿で現われるとき、わたしたちは主にあって共にその栄光にあずかります。そのときもはや涙はありません。そのことにアーメン、その通りですと、確信をもって言いたいと思います。神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶキリスト者は、すでに「神の子」とされた人ですが、その人はかならずや「主と共にその栄光を受ける」ことになるでしょう。その確信を持って、信仰生活を最期まで歩んでいきましょう。

 聖なる天の父なる神様、主イエス・キリストの贖いを通し、あなたの霊により、あなたの子とされ、主イエス・キリストと共なる相続人にされておりますことを、感謝いたします。主キリストと共に苦しみを受け、主キリストと共にあなたの御栄光にあずかるとの御言葉に身の震える思いがいたします。受けるべき苦難を主イエスと共にしっかりと受け、主イエスと共にあなたの御栄光を受け継ぐことができますように、あなたの深い恵みに応えて生きる信仰に歩ませてください。世に生きるすべてのキリスト者が、あなたの御栄光の証し人となることができますように、御霊の力づけを願います。尊き御子・主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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