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銀座の鐘

「わたしを弁護する者」

説教集

更新日:2026年09月30日

2026年9月27日(日) 聖霊降臨後第18主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 副牧師 岩田 真紗美

『ヨハネによる福音書』14章25~27節

 私たちの教会が信じる「聖霊なる神」について、本日は、与えられた『ヨハネによる福音書』を元にお聞きしたいと思います。使徒信条の中で告白する「われは聖霊を信ず」という一文について、心新たにお聞きするためです。
 福音書記者ヨハネは今日の 14 章 26 節で、聖霊を「弁護者」と著します。また 25 節のところで「あなたがた」 、つまり主と共に最後の晩餐を囲んだ弟子である「あなたがた」に対して「共にいた時に、これらのこと、すべてを話した」と言われます。今まで主が何をお語りになったのか、それはおもにご自分がこれから先、どのような死を迎え、復活し、昇天し、どうなるのか、ということでありました。弟子たちすべてに言葉では伝えたけれども、主は更に後ろ髪を引かれるような思いであるが故に、今日の御言葉を語られたのかと言うとそうではありません。主は御自分の死を前にして、まだ十字架の意味も復活の本当の意味も、何も分かっていない弟子たちを案じることなく、「遺言」のように、こう述べられるのです。「しかし、弁護者、すなわち、(中略)聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と。
 弟子たちがやがて、愛する「主」であり「師」でもある慕わしい主の死を悲しむあまり、或いは自分たちが主を見捨ててしまったという罪悪感に苛まれて塞ぎ込むあまり、心を騒がせるかも知れないと思われた主は、「心を騒がせるな。おびえるな。」と 27 節で語られます。それは、主イエスや主を信じる弟子たちの思いに抵抗する勢力とも言えるこの「世」が与えるように与える平安ではなく、神の子の与える「平和」(27 節)が聖霊によって恵まれるからです。いついかなる時にも聖霊なる神が、あなたがたに「弁護者」として、主に代わって語ってくださるから、世の力に怯えることはないのです。聖霊なる神である弁護者もまた、父と子と一体の三位一体の神として、私たちのすべてを良く御存知で、私たちに必要なあらゆる助けを惜しみなく与えてくださいます。ヨハネによる福音書を聞く時に、時々「子なる神」キリストが天に昇られてから、聖霊なる神だけが分離して降りて来られるようなイメージをもって読む方があるようですが、どのような表現がなされようと、常に父、子、聖霊なる神はおひとりの神であることに、変わりはありません。その上で、聖霊なる神について語る時、私たちは御子が復活されて天に昇られたことで、この世の救いの御業が終わってしまったのではなく、私たちがこの世のどこの場所にいても、何をしていても、祈っていても、眠っていても、「偏在のキリスト」としてここに共にいまして、私たちを守り導いてくださることを信じるのです。もしキリストが肉体をもった、あの弟子たちと一緒に最後の晩餐を囲まれた御姿のままであったなら、非常に限られた者しか主の愛を知ることができません。聖霊によって神がどこででも私たちと出会い、喜びや苦難をも共に味わってくださるからこそ、その偏在のキリストによって私たちは教会に招かれ、聖書を読むようになり、洗礼へと導かれたのです。

 神が永遠に三位一体の神として聖霊によって共に歩んでくださる限り、私たちは泣き悲しんでも、心を騒がせるような「世」に悩まされても、或いはまた迫害や他者からの誹謗中傷に怯えても、本当に大切な神からの子としての権利は永遠に剥奪されることなく、いや、むしろそのように悲嘆に暮れる時にこそ、聖霊なる神が私たちの内に励ましの霊を送り、慰めを与え、保護者のように守り、また悪の世に対しては弁護してくださるのです。 「罪」とは神から離れることであり、聖霊なる神に私たちは祈りによって語りかけ、問い、罪を赦していただく悔い改めを告白することが出来ます。聖霊は、キリストの愛の言葉を私たちが理解しやすいように助け、確かに教えてくださるとともに、やがて終わりの日、終末の救いの「キリスト再臨の日」には、三位一体の神の御名によってとして洗礼を受けた私たちを、 「義なる者」すなわち、確かに神に結ばれた正しい者として、最後の審判の裁きの座において私たちを弁護してくださいます。憐れみ深い神は、私たちが行った義の業によってではなく、あの『テトスへの手紙』3 章が 5節以降で語るように、 「御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現し」 、神はキリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださったので、希望どおり「永遠の命を受け継ぐ者とされた」(テトス3:7)のです。
 

 また、「聖霊」は新約聖書が書かれた最初の言語であるギリシャ語では、「パラクレートス」といい、「傍らに(パラ)/呼ばれた者(クレートス)」という意味を持ちます。私たちが今日お聞きしている聖書箇所では「弁護者」と著されますが、その他に「慰め主」、「助け主」という意味もあります。
 ヨハネ福音書の特色でもある1章の冒頭では、洗礼者ヨハネについて語る時に記者が「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(1:8-10)と証しします。「世」は完全に神に敵対し、神の子を受け入れず、神の言(ことば)によって創造された天地に住む人々を、闇のような「世」に引きずり込んでいきました。しかし神は、私たちを愛し、何としてでもこの「世」を救おうとお考えになってまず神のほうから手を伸ばし「世」の只中に「その独り子」をお与えになるほど、「この世を愛された」(3:16)のです。
 このように考えますと、 「聖霊なる神」の特徴がはっきり見えてまいります。聖霊は目には見えない神ですが、確かに神の愛の御業の最初から働かれ、やがて使徒パウロが『コリントの信徒への手紙一』6 章 19 節で宣べているように、私たちの体はこの「世」に生きながらも主イエスの十字架の死と復活によって「代価を払って買い取られた」、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」なのです。私たちの内なる宮に今日も住んでくださっている聖霊は、ですから、信仰を与えられて、教会の礼拝の中で洗礼を受け、神と会衆の前で信仰を告白した者たちひとりひとりを既に捉え、「神の栄光を現す」(コリント一6:20)ように共に傍らに立ち、導き、助け、慰め、悪を遠ざける「弁護者」として私たちを永遠に守ってくださる神なのです。

                      
 古代教父のアウグスティヌスは聖霊を「御子と御父を結ぶ愛の絆」と表現しました。まさに私たちはパラクレートスとしての神の慰めや保護が無ければ今どうなっていたか分からない小さく弱い存在ですし、この世において、神の結ぶ愛の絆にしっかりと繋がる故に、母胎に結ばれた胎児のように神との太い絆によって酸素を送られ新しい命に生きる者にされました。旧約聖書の中で「ルーアハ」と表現される「神の霊」は、「風」や「息」と表される言葉でもあります。これは、本日の礼拝の招きの詞でお聞きしたように、新約聖書の中ではあのニコデモが主イエスを、まさに闇の「世」を象徴するような立場でもって、「ある夜」に訪ねた時(ヨハネ福音書 3:1-15)主が語られた言葉の中にあります。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。 」と主は言われます。風は確かに目に見えませんが木の葉が揺らぐ時に、それがどれだけの力を持つものなのか、或いはまた静かなものなのか、木の葉の揺れ具合によって私たちには知らされます。そして愛の神は、常に聖霊によって私たちの日常に偏在し、共にいて助け、守ってくださる御方なのです。十字架にお架かりになる直前に、私たちが怯えないように平和の内を歩む約束を結んでくださった主は、 「平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」という 27 節の語る約束を、今日も守り続けてくださっています。

 「我らが神を忘れる時があろうとも、神は、我らをお忘れにならない。」と、スイスの神学者カール・バルトは『教会教義学』/「和解論」の中で述べました。聖霊なる神について直接の言及が少ないとされるバルトですが、バルトの著書の中には聖霊なる神への信仰が、通奏低音のように絶えず流れています。神は本当に、私たちが口がきけなくなっても、言葉を忘れてしまっても、聖霊によって共におられます。私は子どもが幼稚園の年長組だった頃に病に倒れて、その原因は最後まで分からなかったのですが救急車に親子で乗ったことがありました。シートベルトを締めるのが大嫌いな娘でしたが、救急隊員の方が「お嬢ちゃん、シートベルトしてくれる?」と言ったら、娘は直ぐに「カチャン」とベルトをしたのです。その時の音が無意識の中でも私の耳に届いて、心からホッとしたのを今でも忘れることが出来ません。神さま、と呼びたくても呼べない時にも、確かに神は聖霊によってどんな場所にも共にいてくださり、私たちを助け、私に代わって子どもたちの事も守り養い育ててくださいます。この主を慕い、感謝をもって信仰の歩みを今日もここから新たに始めたいと願います。

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