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銀座の鐘

「神は世を愛された」

説教集

更新日:2026年08月01日

2026年8月2日(日)聖霊降臨後第10主日 平和聖日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ヨハネによる福音書3章16節

 私たちの力が発揮されるのはどのような時でしょうか。自分のために頑張るときでしょうか。それとも人のために力を尽くしたいと願うときでしょうか。ある調理師を養成する学校の学長からこのようなお話を聞きました。教師たちが注目するほど急成長する学生がいるというのです。その学生たちには共通の理由があるというのです。急成長した学生の特徴は、その学生がその料理を誰のために作るのかが明確になっているという事でした。例えば、婚約者のためにとか、この人に食べていただきたいという、愛する人の顔がはっきりしている場合です。愛する人が誰であるかはっきりしていることが調理師の成長と深い関係があると思うというお話でした。
 本日の御言葉は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 この神の愛は、主イエスを通して主イエスが出会う人々に伝わって行きました。主イエスの弟子たち、罪人とされていた人々、弱い立場の人々へ主イエスの愛の眼差しが注がれました。主イエスは私たちを愛された、そしてその愛によって十字架と復活への道を突き進んでくださったのです。
 ルカによる福音書3章を読みますと、主イエス・キリストはおよそ30歳のとき「宣教を始められた」と記されています。この時主イエスに何が起こったのでしょうか。それは洗礼者ヨハネの投獄の知らせです。主イエスが伝道を開始した時の状況を福音書記者ルカは、領主ヘロデが洗礼者ヨハネを牢獄に閉じ込めた時であったと記しています。洗礼者ヨハネが領主ヘロデの悪事を責めたためにヨハネを逆恨みしたヘロデが、領主の権力を乱用して洗礼者ヨハネを牢獄に入れたのでした。時を同じくして、ヨルダン川からお帰りになった主イエスが伝道へと立ち上がったのです。すなわち、福音書記者ルカは主イエスが洗礼者ヨハネの投獄を機に、ヨハネへの愛が主イエスを立ち上がらせたと語っているのです。決して、主イエスは洗礼者ヨハネの敵討ちに立ち上がったのではありません。主イエスは領主ヘロデの問題だけでなく、人間の深い罪との戦いに立ち上がったのです。すなわち、主イエスの伝道は私たちを愛するゆえに私たちの罪と戦ってくださるお方なのです。主イエスの伝道は、私たちの罪を明らかにして、愛するゆえに罪に勝利してくださるのです。
 本日は、平和聖日を迎えました。十字架と復活の主イエスはローマ帝国の権力者に立ち向かうのではなく私たちを愛するゆえに罪との戦いという伝道を開始し、平和を実現してくださるお方なのです。
 十字架と復活の主イエスを通して、私たちに平和が与えられるのです。神は主イエスを通して、神の愛をお与えになったのです。私たちはそのことを主イエスの福音伝道を通して受け止めることができます。主イエスを通して神の愛の力が発揮されていることに目を注ぎたいと思います。
 マタイによる福音書11章には、牢獄の中の洗礼者ヨハネがその弟子を主イエスの所に送って「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせたことが記されています。主イエスはヨハネの弟子に答えました。
「4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6わたしにつまずかない人は幸いである。」
 ヨハネの弟子たちは獄中のヨハネに主イエスの語られた言葉を伝えました。洗礼者ヨハネは大きな励ましを与えられたと思われます。ヨハネが弟子を通して主イエスに直接尋ねた「来るべき方はあなたでしょうか」という問いはヨハネの真剣な問いでした。はたして自分の生涯は、このまま虚しく尽き果ててしまうのか。それとも、救いの約束が成就するのか、完成するのか、人生最後の問いの前に立たされて、主イエスの声を聞きたいのです。主イエスはご自身の伝道を伝え「わたしにつまずかない人は幸いである」と語りました。
 聖書には主イエスの御前に出てつまずいた青年が登場します。マルコによる福音書10章17節以下には、永遠の命を求める金持ちの男が登場します。主イエスはこの男が自己実現のために主イエスを利用しようとしていることを問題にします。そしてこの男に「あなたに欠けているものが一つある。」といって持っている物を売り払い貧しい人々に施しなさい」と伝えます。金持ちの男は気を落とし、悲しみながら立ち去ったとあります。この男の問題は何でしょうか。主イエスにつまずいたこの男は、自分の欲望のために主イエスを利用したかったのです。この世の富の次にあの世での命を手に入れたかったのです。神を仰ぐことなく、始めから終わりまで自分中心、自己実現を考えているのです。主イエスに愛されていること、自分の罪など目を向けようとしないのです。この男が神の愛と自分の罪を見る妨げになっているのが財産でした。ゆえに、主イエスは「持っているものを売り払って罪と戦う神の愛に目を向けさせようとしているのです。この金持ちの男にとって主イエスは踏み台であっても信じて従う対象ではないのです。
 私たちが自己中心になって神を利用しようとしていたら、この金持ちの男と同じ姿です。しかし、そうではなく主イエスを通して神の愛に目を向けるとき、神に愛されていることがわかります。私たちのために立ち上がってくださる主イエスの愛に応えたいと思うのです。そして、喜びと感謝をもって神を礼拝するキリスト者へと養い育てられるのです。
 本日の主題は使徒信条の「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」です。世界の教会がイエス・キリストを信じる信仰を告白してきた言葉です。
 イエス・キリストとは、髙橋と潤という姓と名ではありません。イエスという名はギリシャ語で「神は救い」という意味、ヘブライ語では「ヨシュア」です。当時の男子の名前では一般的な名前です。キリストとは、ヘブライ語のメシア(油注がれた者)がギリシャ語に訳された言葉で「神から遣わされた救い主」という意味です。私たちがイエス・キリストというだけで、十字架の主イエスは私たちの救い主ですと信仰を告白していることになります。主イエスが「独り子」であるというのは、主イエスは一人っ子ですとか立派な方ですという意味ではありません。「独り子」というのは、父である神が生んだ、父の本質を受け継いでいる神であるという意味です。ですから主イエスは神によって造られた被造物ではなく、神から生み出されたお方なのです。
コロサイの信徒への手紙 1 章 14~17 節「14 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
 使徒信条はこの主イエス・キリストこそが「我らの主」であると告白します。「主」というギリシャ語は「支配する方」を意味します。使徒信条において「我らの主」というのは私たちの神、私たちを支配するお方こそ主イエスですという意味です。主イエスは私たちの救い主であると信仰を告白するということは、主イエス・キリストこそ私たちの生涯の主人であり、私たちは主イエスの僕(しもべ)ですという告白なのです。私たちはこのことをわきまえることなく、主イエスが神であるならば、私たちの不幸や苦しみを取り去ってくれるべきだと考えたり、悪い現実の中で、主イエスを神と認めないようになりがちです。これは、私たちが人生の主人が主イエスではなく、私たちが主人になっていることになるのです。主イエスをキリストと告白するということは、自分の人生の主人はもはや自分自身ではなく、主イエスの僕として主イエスに従って生きることです。たとえ自分の理想がかなわなくても、苦しみや悲しみに襲われても、神から決して離れないのです。主なる神が人生の主人であり続けてくださるからです。
 使徒信条によればイエスはキリストであり神の独り子です。であるゆえに、主イエスは私たちの主なる神なのです。私たちが告白するかしないかに関わりなしに、それ以前に神の本質において、十字架と復活において、主イエスは私たちの神なのです。
 ローマの信徒への手紙14章 8~9節「8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」
 神から心離れることなく、主イエスは私のキリスト救い主ですと告白し続けることが大切なのです。まことの神である主イエス・キリストを我らの主と信じて従って行く群れこそがキリストの教会なのです。

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