銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

「神に知られている平安」

説教集

更新日:2026年07月18日

2026年7月19日(日) 聖霊降臨後第8主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 ― 創立記念礼拝 ―  副牧師 岩田 真紗美

マタイによる福音書11章25~27節(新p.20)

 本日は、銀座教会の創立136年目を覚え、共に主に感謝の祈りをささげています。
 「天地の主である父よ」(11:25)と祈られる主イエスが今日のマタイによる福音書の中で見上げておられる、全知全能の神を、私たちの銀座教会も、前身の築地美以教会から数えれば151年もの間、共々にあがめ今日に至ります。神を信じるすべての民を愛し、その全能の御力をもって自由にお造りになられた主が、変革の激しいこの150年余りの時を支え、銀座教会を守り続けてくださいました。ここに集うお一人お一人のご家庭をもまた、主のご支配の下に置いてくださいました。この大きな恵みに招かれているという喜びは、何にも代えがたいものであります。神さまが全てをご存知で、全知全能の神であられるという事にのみ、私たちの教会は依り頼み、戦争や災害の中でも今日のように主を信じ、主をあがめて礼拝をおささげしてまいりました。さらに、自分ひとりでは祈る事もままならない時も、神を「アッバ、父よ。」と呼ぶ恵みを忘れてしまっている時も、主は、代々の聖徒と共に私たちに信仰を告白する力を与え、諭してくださいました。礼拝を通して、再び主に立ち帰る力を呼び起こしてくださったのです。私たちが世界中、どこに在っても礼拝を守り続け、その中で「使徒信条」を告白する声を高らかに響かせる力を、神は恵み続けてくださいました。そして我々は今朝もまた、ここに集う神の民を支えてくださっている主の御姿を、教会において見る喜びをいただいています。私たちは、ひとりでは弱く小さな存在です。しかし教会に来れば、或いはインターネットやしおりを開けば、世界中の神の民の信仰によって眼を醒まされ、賛美の声も祈りの声も、自分ひとりのものではなく大勢の中のひとりとして響いているのを感じる事が出来ます。福音の歴史の中にこの銀座教会をしっかりと、堅固な土台として存在させてくださる主イエス・キリストが、すべてを良い物に変えられ、その時代、時代にあって、私たちの信仰を、世の荒波に流される事のないように導いておられます事を教会の歴史を学ぶ度に私たちは知らされるのです。

 主イエスは本日の聖書箇所で、天地の造り主である神は、知恵ある者や賢い者には隠し幼子のような者に、神をお示しになると言われます。また、福音書記者マタイは今日の箇所を、主イエスの父なる神への「祈り」として書き記しています。この箇所の直前で主は、悔い改めない町や、神の言葉を心の奥底まで届かせないで、まるで水をはじいてしまう冷たい板のようにこわばった私たちの頑なさを叱られました。父なる神さまの他には、主イエスを知る御方は一人もおられない事、さらに、父なる神さまの恵みを子なるイエスさまが他の者に示される時には、キリスト御自身がその者たちを選ぶ権威を父から完全に委ねられている者として、 「子が示そうと思う者」(27 節)に知らされるといわれます。今日ご一緒に学ぶ「使徒信条」の信仰告白の言葉の中で、この言葉は、全能の父なる神を信ずると告白する一行目において、明らかに示されています。
 「使徒信条」は先週もお聞きしたように、使徒たちの信仰を受け継いで教会が長きにわたり何を信じているのかを明らかにする「信条」です。今日はその中の、「われは全能の父なる神を信ず」という最初の一文に思いを向けます。主の祈りを学んだ時にも語られましたが、当時の信仰者にとって神を「アッバ」、つまり幼子が呼ぶように「お父ちゃん、パパ」と呼ぶ事などは考えられない事でした。神は偉大な存在で、ある家系から選ばれた祭司だけが近づく事の出来る、雲の上の存在であったのです。しかし祭司を通さなくても直に、神をお呼びしたい時に突然にでも「父よ、」と呼んで祈る事が出来るのだと、主イエスは「主の祈り」を通して弟子たちにお教えになりました。そして本日の聖書箇所では、特別の権威や「知恵ある者や賢い者」(25節)、つまり当時の律法学者たちやファリサイ派の人々には「隠して」(同)、幼子のような、神に縋るしかない者たちにこそ、神は御自分が父であり、しかも全知全能の神である事を知らされると言われます。誰によって知らされるのかと言うと「子」なる神である主イエス・キリストによってのみ、私たちは「父」を示され、啓示され、知らされるのだと主は言われます。本日はマタイを中心に読んでいますが、同じ福音書というジャンルの中でお聞きいたしますと、この事は『ヨハネによる福音書』でも繰り返し語られる真実です。たとえば、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネによる福音書1:18)と福音書記者ヨハネは証しします。洗礼者ヨハネでさえ、最初は「わたしはこの方を知らなかった。」(同1:33)と言っているほど、子なる神は、父を知らせる時を選び三位一体の神の愛と自由とによって、私たちの信仰生活の中で一番大切な、ここぞという時にのみ神を示されるのです。父なる神が子にのみ託したその、神を知るという恵みを、今朝も私たちは新たな命を与えられ、この場に呼ばれ、知らされています。平和のうちに御言葉に聞き、主の御前に立たされている、この礼拝の時が神を知る時でもあるからです。神を父と呼んで、私たちの教会が信じている神さまは、どのような御方なのか、私たちはその御方を通して何をいただき、感謝をささげ、喜びと平安に満たされる信仰生活を送らせていただいているのか、この礼拝の中で「使徒信条」を告白する時も、神を知る時です。

 本日の聖書箇所で「知る」という言葉が幾度か出てきましたが、神を知る事と同時に神に知られているという事に気がつく事も大切だと知らされます。何故かと申しますと、全知全能の神は、すべてをご存知で、私たちが神を知る以上に神が私たちを知るその御力のほうが、遥かに自由で愛に満ち、大きいという事があるからです。その恵みを、聖書は随所で証しします。特に旧約聖書の時代に遡るならば、「神よ、私を知ってください。私の心の中に偶像を拝む心が無いかどうか、あなたが調べてください」と『詩編』139編の詩人は祈っています。139編の23節ですが、「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを、とこしえの道に導いてください。」と詩人は祈っています。主イエスが先ほど触れましたようにマタイの中で「幼子のような者に」神が御自分をお示しになる、と言われた「幼子」とはまさに、この詩人のような者かも知れません。主に頼り、すべてを神が知る以上に人間は自分自身の事すら何も知らないのだということを、詩人は把握しています。そして、その低い姿を謙遜な姿として、神に尊ばれました。神への徹底的な服従と、そこにこそ神の子として生きる平安に満たされた道が備えられていると信ずる信仰が詩人には与えられているのです。周りの人々が偶像崇拝の罪を犯す中で、自分の信仰が、あの町々の人々のように、新約の時代に戻るならば主イエスに叱られた悔い改めない町の者たちのように、神に叱られるものでないかどうか、神の目で調べていただくことを詩人は熱く、望むのです。
 「神を知る」という時の「知る」は旧約聖書が書かれたヘブライ語で「ヤーダー」と言います。古くは『創世記』4章 1節で、「さて、アダムは妻エバを知った。」と出てくるように、これは結婚の行為に関連して使われる動詞で、人間の全存在をかける、決して大袈裟ではなく生きた関係そのものを表す言葉です。それが神と民との間で語られる時、全知全能の神が、神を信ずるすべての民の事を、その髪の毛一本に至るまで数え知っておられる、となればそれはどれ程深い愛に満ちた「知る」であり、相手を大切に守り尊ぶための「知る」であるかが分かるのです。
 「使徒信条」を告白する時、私たちは父なる神を全能者、すべてをご存知の御方と信ずる信仰が私の中にあるのかを見つめる以上に、神が私たちを選び、この大きな平安のうちに生かし、永遠の命を与える者として教会に招き、今日も平安の中を歩ませてくださっている喜びに目を醒まされます。共にこれからも銀座教会を愛し、神に真摯にお従いする群れでありたいと願います。

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