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銀座の鐘

「我らを試みにあわせず」

説教集

更新日:2026年06月13日

2026年6月14日(日)聖霊降臨後第3主日 銀座教会 新島教会 花の日・子どもの日 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

マタイによる福音書4章1~11節

 今日は、主の祈りの六番目の祈りであります「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」という祈りについて、その恵みを分かち合っていきたいと思います。われらを試みにあわせないでください。これは、私たちにとって、本当に切実な願いでありましょう。なぜなら、わたしたちにとって幸福の第一条件として心の平安。ストレスや苦しみのない生活を心の底から願っているからです。しかし、一歩外に出ると、そうではない世界が広がっています。不安やストレスがうずまく社会の中で今日も頑張って生きなければならないからです。今日は日曜日だ。しかし、明日からまた仕事だと。心を暗くするような重圧やストレスフルな人間関係の中で生活している人がここにもきっとおられるのではないでしょうか。私たちはそのような重圧。不安から逃れたくて、神を信じ、心の重荷を委ねるということをしたくて、教会に来たということもあると思います。また実際に信仰は、その求めに確かに応えるものなのであります。しかし、ここで主イエスがわたしたちに教えてくださったこの祈りは、わたしたちをストレスや重圧からお守りくださいという意味で祈るように勧められているのでしょうか。確かにそれもあるでしょう。神がわたしたちを愛してくださっているということは、わたしたちの苦しみや悲しみ、重荷をもって喘いでいることに深い同情を寄せてくださり、実際に助けてくださる。平安を与えてくださり、大丈夫だよ、と語りかけてくださる。だから信頼をもってゆだねることができる。そういう神であるということが、 「神が愛である」ということの具体的な意味なのですから。それをわたしたちは信頼しなければなりません。しかし、私たちにとって試みが脅威であるのは、ただ、苦しいからというだけではありません。その試みの中でわたしたちの信仰が危うくなるのであります。悪魔はわたしたちに必ずしもストレスを通して攻撃してくるだけではありません。健康や、成功や、名声といった良いもの。よい出来事を通して神から引き離すことだってしてくるのです。ですから、わたしたちがこの祈り。「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈る時、わたしたちの信仰を悪よりお守りください。今日も、何があっても、あなたの恵みから外れることのないようにお守りくださいと祈るべきなのです。なぜなら、私たちの魂にとって最も大切なものは信仰だからです。信仰こそが天国の門を開くからです。信仰においてのみ、わたしたちは永遠の命を受けるからであります。たとえこの世において損ばかりしていたとしても、どんなに割に合わない生活を強いられたとしても、信仰に立ち続ける人生は勝利の人生なのです。キリストの内にない成功者であるよりも、キリストの内にある貧しい生活を、わたしたちは選ぶべきです。それがキリスト者の価値観であります。そのように聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか。それは極端な話だと思われるでしょうか。しかし、そのような価値観がなければ、これまでの教会の歴史の中でなぜ殉教という道を選ぶ人がいたでしょうか。殉教こそ、割に合わないことの最たるものでありましょう。しかしたとえ自分の命を捨ててでも、御国の民として、天の門を開かれ、主イエスの弟子としておほめに与るほうがよほど素晴らしいことを彼らは知らされたからです。もちろん、信仰を与えられたからといって多くは、殉教するほどの大きな試練に遭うことはほとんどありません。また、そのような試練に耐えることのできる人は限られておりますから、そのような人は、殉教を通して主の栄光を表すように召されているのでありましょう。けれども、そんなひどい苦しみに遭うことはなかったとしても、信仰生活の中で起こって来るさまざまな試練があるとき、それは私たちにとって、神からの試練なのであります。それを通して鍛えられなければならないのであります。ですから、人生には苦しみは付き物でありますが、ことキリスト者においてそれは、神が私たちの信仰を鍛え、精錬するために、与えてくださるものである。それゆえに試練の背後には神の深いお計らいがあるのだということを信頼しなければならないのであります。ヤコブの手紙の1章2節でこのように語られております。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」苦しみを、この上ない喜びだなんて到底思えないわたしたちではありますけれども、この世で起こる全ての苦しみは信仰が試されるためにあるのだということがここでわかります。

2,三つの誘惑
 さて、この主の祈りの第6の祈りには、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」とありますけれども、ある人が、この試みについて、三つに分けられると考えます。
 ひとつは、自分の内にある罪です。ヤコブの手紙の1章13節から15節でこのように語られております。
「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」この御言葉においてわかるのは、試みは、誘惑という形においてわたしたちを攻撃してくることがあるのだということ。そしてそれはわたしたちが罪を犯すように誘うということ。罪を犯すとき、わたしたちは神に背き、神との関係が損なわれてしまうということです。罪とはあれやこれやのさまざまな種類の罪ではありますが、罪の本質とは、神との関係の破れであるからです。わたしたちが神に背くとき、神は悲しまれ、私たちを裁かざるを得ません。だから、わたしたちは罪を犯したことを悟ったならすぐに悔い改めなければならないのです。罪を心に抱いたままで信仰生活を続けることはできないからです。
 
 ふたつ目に、外側からやって来るものがあります。周囲の環境、状況が罪に満ちているとき、私たちはその影響に苦しむことがあります。貧困。病気。差別や虐待など。他人からの暴力や圧力。これらはわたしたちの外にあるものが原因であります。交通事故や、仕事での不運。人間関係の摩擦。他人からの悪口など。こういう外からの圧迫、不安、ストレスがわたしたちにとって大きな試みとなることがあります。結婚生活の破れや、愛する人との死別などもそうであります。こういう状況にあるとき、危険なのは、神が、憐み深い方であるということを信じられなくなるということです。聖書が語っているわたしたちへの恵みの約束が信じられなくなるということです。どんなときにも罪の赦しの中にあるということ。それが最大の恵みであるということが分からなくなってしまうということです。このような時にわたしたちが考えることは、なぜ私がこんな目に遭い、なぜこんな重荷を負わねばならないのかという疑問。あるいは不満であります。そしてわたしたちは神に不平、不満をつぶやき始めてしまい、不信仰の罪を犯すのです。あるいはこの苦しみの意味は何かを問い、その答えが分からずに悩むのです。そのようなときにさしあたり必要な御言葉はローマの信徒への手紙の8章28節です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」この信仰にとどまらねばなりません。
 このように、わたしたちにとって試み。試練とは、罪に誘う誘惑として起こってくるものもあれば、外からの圧迫として私たちの信仰を揺さぶるものもあります。しかしいずれにせよ、それでも信仰に立ち続けることが求められているのであり、信仰にとどまり続けるわたしたちに、このような御言葉が約束されています。ローマの信徒への手紙の5章3節以下です。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」また、コリントの信徒への手紙二の4章8節も、私たちに与えられた確かな約束です。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

 さて、最後に三つ目の試みがあります。それは陰府からくる存在の試みです。エフェソの信徒への手紙の2章2節で語られております。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」とあります。すなわち悪魔のことです。この、悪魔。サタンからの試みが私たちを神から引き離そうとする。これはさきほど申しました、私たちの内にある罪に思いに働きかけてくるということもあれば、わたしたちの外にある悪い環境として働きかけてくるということもあります。悪魔は私たちよりもはるかに狡猾であり、一人の人間を政治の頂点に立たせて、闇の権力を与えることもあるでしょうし、社会全体に悪い時代の霊を注ぐこともできます。国家主義や、科学主義や、個人主義、ニヒリズム、などといった時代精神が、神の御言葉を覆い、見えなくさせるようなことがありました。そしてそのような時代精神そのものが偶像となり得るのです。そのような時代となったときにのみ、私たちは先ほど申しましたような、迫害や、殉教などという状況が現実となるのかもしれません。しかし、この御言葉を思い起こして主を信頼したいのです。コリントの信徒への手紙一の10章13節。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
 このような恵みの約束が語られている限り、わたしたちはこの御言葉を信頼しなければなりません。しかし、主イエスがここで「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈りなさいとおっしゃるということは、わたしたちはこの地上においては必ず試みを受けなければならないということです。しかし皆さんはこう思われるかもしれません。この世界は神のものなのに、なぜ今もサタンが私たちを誘惑したり、苦しめたりするのだろう。なぜ悪がこの世界にいまだに働いているのだろうか。これは、既に聞いてまいりました、御国が来ますようにという祈りと関連するものであります。このことにおいては、究極的には、神学者たちも明確には答えていないのです。悪の起源について。また、悪がなぜ現在も働くのかということについて。このことについては神の深い神秘。大いなるご計画の中に秘められたこととしてわたしたちは主に委ねるべきです。しかしわたしたちが信じるべきことがあります。それは、主イエスはすでにサタンに勝利しているということ。十字架において勝利したのは、わたしたちの罪の贖いというだけでなくこの闇の力にも勝利されたのだということです。また、旧約聖書のヨブ記にも語られていたように、サタンは、神の許可なしにヨブを誘惑することはできず、その誘惑や試練の程度も神に赦された範囲内なのでした。病気や、財産や、家族を奪うことはできても、命を奪うことは許されませんでした。サタンもまた神の主権のもとにあり、最後には滅ぼされる運命なのです。この世界は、陰と陽の二つの力が拮抗しているというような世界ではありません。神と悪魔が同じ力で綱引きをしているのではありません。すでにサタンは、神の力の下に敗北しています。
「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)この主イエスの御言葉を信頼していきたいのです。

3,サタンの試みに勝利してくださった主イエス
 今日与えられた御言葉で、主イエスは悪魔の試みを受けるために、荒れ野に行き、40日間もの断食の果てに、悪魔から試みを受けます。なぜ、わたしたち救われた者が、悪魔から試みを受けなければならないのか。それに対する答えとして、このように言えるでしょう。わたしたちの主も、悪魔から試みを受けた。そしてその試みに勝利してくださったのだと。悪魔は、三回、誘惑します。ひとつは、石をパンに変えて、主イエス御自身の空腹を満たすように誘惑します。これを主イエスは、御言葉によって退けます。次に、高い神殿の屋根に立たせて言います。「神の子なら飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』と書いてある。」悪魔は聖書の言葉をもってきて主イエスを誘惑します。しかし主は言われます。「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある。」三つ目に、悪魔は世の国々の繁栄を見せて言いました。「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」しかし主イエスは言われます。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」このように、主イエスは悪魔の試みの全てを聖書の言葉によって退け、撃退しました。主イエスがここで悪魔の誘惑を受けたとき、神の力をもって戦ったのではありません。そうではなく、すべて人間として、その信仰において戦い、悪魔に打ち勝ってくださったのです。神の御言葉への信頼によって戦ってくださったのです。ここで主イエスは、わたしたちの代表となって、人間として悪魔に勝利されたのです。天の父なる神への信頼というただ一つの力によって。しかし悪魔は、こののちにも力強く主イエスを攻撃しました。十字架の時。闇の時です。そしてそこでも、主イエスは勝利してくださいました。神の御子、主イエスが、この荒れ野から、十字架に至るまで、その御自身の信仰において、悪魔に勝利してくださったのです。実に、十字架の出来事とは、この世界の闇を覆す最大の力であったのです。死と闇の力を打ち砕き、新しい命をもたらす出来事であったのです。この主イエスの恵みの中にわたしたちはいつもあるのです。私たちはこの主イエスの完全なる義と主イエスの救いの恵みの中にあります。そのことを信じなければなりません。これまで、皆さんの人生の歩みにおいて、悪魔的な力に苦しみ、翻弄されたという方も少なくないのではないでしょうか。実に、信仰生活には本当に、理解できないような出来事も起こることがあるのです。主よ、なぜですか。なぜこのような苦しみがわたしの人生に起るのですか。そう叫ばずにいられないような闇を見た人もいらっしゃるかもしれません。しかし、主はやがて、わたしたちの人生が終わり、やがて、再びよみがえり、審判を受ける日には、そのような問いに、必ずや答えてくださるに違いありません。今はただ、万事が益となるように共に働くのだという御言葉にとどまって行きたいのです。

4,完成を求める祈り
 そして、わたしたちは今もなおこの地上に働く悪の力が、やがて主の権威の下に滅ぼされる日が来ることを信じて、この世界のための執り成しの祈りとして、この世界を悪より救い出したまえと祈り続けていきたいのです。罪を赦されて、主の御前に立つ者。つまり神の民だけが、この暗い世界のために、とりなしの祈りができるのです。そのことを許されており、また祈るように求められているのです。そのことを深く受け止めて祈る時、この祈り、わたしたちだけの祈りではなくなります。全世界のための祈りでもあります。御国が来ますように、という祈りと連なる祈りなのです。主よ、どうか、悪魔と人間の罪がやがて過ぎ去り、永遠になくなる日が来ますように。戦争、貧困、差別、搾取、その闇の力を取り除いてください。悪の力の下に苦しむ人々をどうか救いたまえ。このわたしたちの祈りこそが世界を変えるのです。新しくするのです。ヨハネの黙示録に、サタンが敗北し、最後の裁きが終わり、新しい天と新しい地が来た時の幻をヨハネが語ります。
「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」
お祈りをいたします。

 天の父なる神様。あなたによって罪を赦され、神の御国を目指して歩んでおります。その歩みは時に険しく、くじけそうになることがあります。主よ、わたしたちの涙を拭ってくださる日が来ること。私たちの内の罪をとりのぞき、悪魔の力を打ち砕いてくださることを信じて、歩ませてください。御言葉が語る約束が真実であることを、わたしたちの歩みの中で経験させてくださいますように。今試みにあって苦しんでいる人たちに聖霊を注ぎ、信仰に立ち続けることができますようにお守りください。信仰生活から離れている全ての兄弟姉妹の心に、確かな信仰を。誘惑や試練に遭っている全ての人々にあなたの確かな御助けがありますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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