「神の二重の偉業」
説教集
更新日:2026年06月20日
2026年6月21日(日)聖霊降臨後第4主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 近藤 勝彦
ローマの信徒への手紙8章1~4節
1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
聖書をもっと知りたければ・・・
» 一般財団法人日本聖書協会ホームページへ
人生を生きるということは、色々な出来事や巡り合わせの中を生きることでもあります。遠くで起きる事件もあり、近くで起きる事件もあります。そうした人生と世界の色々な出来事の中で何が一番根本的で、決定的な事件、重大な出来事でしょうか。聖書が語り、教会が伝えているのは、何と言っても、主イエス・キリストによるその御生涯であり、とりわけ御生涯の最後に起きた出来事の中で、神が決定的な人類救済の偉業をなしてくださったということです。それで、その神の偉大な御業を伝える言葉が、「福音」(good news;ゴスペルは god または good のスペルで、スペルは言葉、知らせの意味です)と言われます。主イエス・キリストにおける神の偉業が、その前と後と、世界史を二分するものになり、そういう年の数え方も生まれました。今、私たちは主イエス・キリストの大事件の後、キリストにあって神の救いの恵みの時の中にいます。
この福音を伝えて、ロマ書 8 章は、「今や、キリスト・イエスにある人は罪に定められることがない」と語りました。「罪に定められることがない」のであれば、神と共に、そして主イエス・キリストと共に新しい人生を、希望のうちに生きることができます。しかしそれにはどういう根拠や理由があってのことでしょうか。キリスト・イエスにあって何が起き、どういう神の偉業が起きたのでしょうか。そこで起きた神の御業があやふやでは「救い」と言われても、「確かさ」がありません。「確かさ」がなければ、新しい人生を生きると言っても、あやふやで、力も喜びも湧いてこないでしょう。ですから、イエス・キリストにあって何が起きたか、どういう理由で救いの確かさがあり、また新しい人生の根拠があるのでしょうか。
ロマ書8章は、その理由を 2 節と 3 節で語ります。この 2 節にも 3 節にも、「なぜならば」という理由や根拠を示す小さな言葉が出て来ます。わたしたちの聖書の訳ではそれほど明確に表現されていませんが、2 節は「なぜならば、命の霊の法則が罪と死の法則からキリスト・イエスにあってあなたを解放したからです」とあります。そして 3 節には、「なぜなら、律法に力がないので、神が御自身の御子を罪の肉と同じ姿で罪のために遣わし、罪を罪として処断されたからです」とあります。イエス・キリストにあってどんな神の偉業がなされたのか、それが二つの表現で語られているわけです。一つは、「いのちの御霊による解放がなされた」という事実、もう一つは、「キリストにおける神による罪の処断がなされた」事実です。イエス・キリストにある神の偉業、人類史を分ける決定的な神の御業が、この二つの表現で語られます。通常、教会の神学が贖罪論として語ってきたことです。
神の贖いの御業としては、3 節の方が分かりやすいかと思われます。神が御自身の御子を罪のために世につかわし、それも罪深い肉と同じ姿で、つまり人間として、遣わされました。「受肉」と言われる出来事です。人となった主イエス御自身は罪を犯すことはありませんでした。主イエスの無罪性と言います。しかし人となった御子なる神・キリストのその人、その肉において、神は罪を罪として処断されたと言われます。これは、主イエスの十字架の出来事を踏まえて語っていることは明らかです。「処断された」というのは、「罪を断罪した」という言葉で、罪を犯した人を断罪するのでなく、罪そのものを断罪し、処罰なさった。つまり罪を罪に定め、罪にそれ以上力を持たせない、罪の将来を断ったわけです。罪を決定的に無力化したと言ってもよいでしょう。罪の息の根を止めた、その意味で、罪を滅ぼしたとも言うことができます。それがイエス・キリストにおいて神の御業として起きたのだと言われます。罪に対する神の勝利があり、義なる神の力が発揮され、イエス・キリストにある者が決して罪に定められることのない根拠が据えられました。この御子の受肉と贖いの御業は、さらに色々な聖書の箇所で語られ、何度語っても語りつくせない神の偉大な働きと言わなければなりません。
しかし今朝は、その前の 2 節に語られている、主イエス・キリストにおける神の決定的な働きのもう一つの面にも注意を向けたいと思います。2 節はイエス・キリストにある出来事を、「いのちの霊の法則があなたを解放した」と語ります。「いのちの霊の法則が罪と死との法則からキリスト・イエスにあってあなたを解放した」。そういう出来事が、主イエス・キリストにおいて起きたのだと言います。「解放した」というのは、自由にしたということです。「法則」と訳されている言葉は「律法」と同じです。法則、律法、要するに法というものは、人間が生きて行くうえで、また、世界が営まれるうえで重要です。しかし法に人間を救う力がなく、問題解決の能力がなければ、「律法の無力」ということになるでしょう。平和を維持できない現在の国際法も、法の無力に悩まされています。人間の罪のゆえに律法は、「罪と死の律法」になってしまい、人間を救うことができず、ただ悩ますものになる。ですから 3 節にいわれるように、律法に力がない。だから神御自身によってキリスト・イエスにおいて罪の無力化がなされなければならないわけです。それに先立つ 2 節では、キリスト・イエスにあって「いのちの霊の律法」があなたを「罪と死の律法」から「解放した」「自由にした」。そういう神の偉業がなされたのだと語られます。
神の霊、霊なる神は「いのちの霊」であって、「死の法則」からの解放を成し遂げ、死から命へと聖霊によって自由にする、そういう神の御業がなされたと語られます。これは、主イエス・キリストの復活を踏まえた言葉と言えるでしょう。死人のうちからの主イエスの復活は、神の霊の働きでした。霊は「いのちの霊」だからです。
「霊」という言葉は、ギリシャ語ではプネウマですが、ヘブライ語ではルアッハと言います。どちらも風や息、そして呼吸を意味します。「ルアッハ」と発音するとき、「ル」の発音で喉が激しく振動する、そういう喉の激しい振動の中に、古代イスラエル人は命の躍動を感じとったという説明を聞いたことがあります。聖霊は神の力であり、神の息吹ですから、とりわけ生かす力であって、霊の息を吹き入れられた時、人は生きるものになるわけです。創世記 2 章 7 節、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。主イエス・キリストにおける神の偉大な救いの御業には、「命の霊」、聖霊が働いていて、死の支配、死の掟からあなたを解放したと言うのです。わたしたちがイエス・キリストにあるとき、神は御子を受肉させて世に遣わし、主の十字架においてその肉にあって罪を無力化させるとともに、また神の霊、つまりいのちの霊によって主イエスを死人の中から甦らせ、その復活の主イエス・キリストにあって、いのちの霊が死の支配からあなたを解放しました。死んでも生きる命に生かされているのです。
こうして主イエス・キリスト・御子なる神にあって、父なる神とその霊である聖霊が、救いのために働いてくださっています。三位にいます神が一体になって、余すところなく、また惜しむことなく、救いのために必要な御業を行われました。主イエスにあって、いのちの霊は、あなたを死の掟から解放し、独り子を遣わした父なる神は、罪を罪として処断しました。これから解放する、処断するというのではありません。すでにわたしたちを死の掟から命へと解放し、罪を罪として処断なさいました。その動詞は、過去に、一回限りに起きて、二度、三度と繰り返さない動詞の形で記されています。イエス・キリストにおける神の偉大な御業は、地上の主イエスにあって過去のあの日、あの時にゴルゴタの丘の上で、そしてヨセフの墓の中で起きました。しかしそれは、時とともに色あせて過去のものになるようなものではあません。一度起こって永遠に力を発揮する神の御業と理解されます。活けるキリストにあって、今日も、力を発揮している神の御業です。主の霊によって今朝も、わたしたちは命へと解放されます。わたしたちを縛る罪は、すでに、そして今も、息の根を止められ、無力化されています。イエス・キリストにおける神の偉大な御業は、将来に変わらぬ力と効力を及ぼし、終りの時の完成にまで及びます。
いのちの霊が死から命へと解き放ってくださったこと、すでに罪の息の根は止められていること、この主イエス・キリストにある神の偉大な救いの御業は、世の終りまで力を及ぼし続けます。過去に起きた御業が、過去化せず、現在に、そして将来に、終りの時の完成に向かって働き続ける。教会の神学はこれを「終末論的な出来事」と呼びます。キリストにある神の偉大な救済の御業が、今日のわたしたちだけでなく、明日のわたしたちも、そして将来も、最後の最後にある完成まで支えてくださるでしょう。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と言われるのは、そう言う根拠があってのことなのです。
天の父なる神様、主イエス・キリストにあってなされたあなたの偉大な救いの御業のゆえに、御名を讃美いたします。あなたは御子をさえ惜しまず世に遣わし、その十字架において、罪を罪として処断なさり、その力を打ち砕いてくださいました。またあなたは命の御霊によって、わたしどもを罪と死の律法から、主イエス・キリストにおいて解放してくださいました。感謝いたします。父、子、御霊にいますあなたの、余すところのない偉大な救済の御業によって、主にあって生きる命と自由を与えられたことを感謝します。主なる神よ、どうぞあなたのみ旨、あなたの御意志を信仰によってわきまえ、主イエスに従っていくことができますように。あなたの御業を伝える福音の言葉を、世に伝え、世の光となっていくことができますように、主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。