「わたしは信じます」
説教集
更新日:2026年07月11日
2026年7月12日(日)聖霊降臨後第7主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村満
マタイによる福音書16章13~20節
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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1,使徒信条とは何か
今年は、三要文という教会の信仰の学びをしております。先週まで主の祈りを深く聞いてまいりましたけれども、今週から、わたしたちは使徒信条の主題説教を通してその深い意味を学んでいきたいと思います。最初に、使徒信条について少し説明いたします。この信条は、教会の歴史の中で最も古い信条であると言われております。しかし、使徒信条が現在のかたちになったのは、紀元 8世紀ごろであると言われており、そのあと千年以上も教会の信条として、主に洗礼を受ける人たちのための信仰告白として用いられてきました。「使徒の信条」と言われますが、使徒パウロや、ペトロや、ヨハネたちがこの信条を作ったということではありません。しかし使徒たちが、主イエスと出会って、そこで受けてきた福音が宣べ伝えられて、もっとも簡潔にまとめられて、教会の信仰として告白され、礼拝の中で告白されてきたものであります。ですからわたしたちは、使徒信条を告白することを通して、これまでの長い教会の歴史に生きた聖徒たち。そして現在に生きる聖徒たち。そして将来に生まれてくるであろう聖徒たち。時代を越えて神に選ばれた人々と共に、神の教会に普遍的につながっているということを確認し、確信していくのであります。
2,告白する信仰
さて、今日は、使徒信条のひとつひとつの言葉を分かち合っていく前に、信仰を告白するとはどういうことであるかを、初めに考えていきたいと思います。わたしたちが信じること。それは、すでに教会の歴史において培われてきた信仰です。聖書に記されていることは非常に多くあります。ですから、これまでの教会の歴史の中で、自分勝手な解釈をして、わたしは聖書をこのように信じる。キリストは神様ではないとか、本当に死んだのではなくて、死んだように見えただけだとか、そんなふうに自分勝手な解釈をする人々がこれまでにたくさん現われました。そのたびに、正しい信仰とは何かということを皆で集まって議論し、祈り、対話を重ねて行って、これこそがわたしたちが命を懸けて守るべき共通の信仰の確信だという言葉を紡ぎ出していきました。わたしたちが毎週の礼拝で告白する使徒信条には、歴史の血と汗と、涙が詰まっているのです。そのように、代々の教会が信じてきた教会の信仰に同意し、共に、その信仰を告白していくのです。使徒信条の終わりに「聖なる公同の教会」とあります。これは、英語でカトリックという言葉ですけれども、普遍的という意味です。時と場所を越えてひとつである。2000年前の使徒たちから、中世の聖徒たち。ルターやカルヴァンなど。また現代のわたしたちに至るまで、さらに未来に至るまで、また、国籍や文化、言葉の違いを越えて、世界中に散らばる全ての信徒が、教派をも越えて、同じ一つの信仰を告白しているのです。このような聖なる公同の教会の信仰は、全ての教派を越えて一つにします。使徒信条は、そのような聖なる公同の教会の信仰なのです。この公同の教会の信仰の中に、わたしたち一人一人が連なっていくことによって、わたしの信仰となるのです。いわば、わたしたちは教会の信仰に支えられて、その大きな恵みの中にあって信じる者とされていくのです。一人で信じているのではないのです。何万、何億の聖徒たちの群れに支えられて、信じ、告白し、洗礼を受けて、聖餐に与っている。そのような神の救いの中に生かされているということを覚えておきたいと思います。私たちは弱いものです。今日は確信を持っていても、明日もし病気になったり、死ぬかもしれないという苦しみを経験した時には、それでもこれはわたしの信仰だ、ここに立つ、と言えるかというと、まことに心もとないものであるのではないでしょうか。自分一人で信仰生活を営むならば、そういう危うさがあります。けれどもわたしの信仰は、私だけの信仰ではありません。銀座教会の信仰であり、日本基督教団の信仰であり、それは使徒信条に支えられた聖なる公同の教会の信仰なのです。その信仰は何よりも、永遠なる神によって支えられて告白する信仰なのであります。わたしたちはそのように、この世のどんな大きな権力よりも、確かで大いなる神の権威の中で信じる者とされているのです。わたしたちはしばしば不信仰に陥ろうと、弱さがあろうと、神様が救うと決められた者は救われているのです。そのように、教会に支えられ、教会を愛する神に支えられて、わたしたちは信じる者とされています。洗礼を受ける時、私たちはこの教会の信仰の中に立たされて、信じますと告白するのであり、この恵みの中にあって、確かなものとされていくのです.
3,ペトロの信仰告白
さきほど、読んでいただきましたマタイによる福音書の 16章の13節から20 節で、ペトロが初めての主イエスへの正しい信仰を告白しております。主イエスは弟子たちに尋ねました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか。」すると弟子たちは口々に言いました。「洗礼者ヨハネだ」と言う人も「エリヤだ」という人もいます。ほかに「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいます。・・・弟子たちは自分がどう信じているかではなく、世間が主イエスのことをどう言っているかを言いました。そこで主イエスは更に尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」世間の人々はいろいろと語っているがお前たちはどうなのか。そのように尋ねます。それは、わたしたち一人一人にも尋ねられていることであります。そこでペトロがこのように答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」このペトロの答えに主イエスは喜んで言われます。シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」ペトロの信仰は、ペトロから出たものではないと言うのです。そうではなく、神がペトロを選び、信仰を与えてくださったのです。そして、主イエスは言われます。ペトロの信仰の告白を通して教会を建てると。私たちは、このペトロの信仰に連なる者なのであります。このペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白を岩として、教会が立ち続けてきたのです。この信仰を告白するところ、「陰府の力もこれに対抗できない」と主イエスは言われるのです。陰府と言うのは、悪いことをした人間が死んでから行く地獄とは違いまして、死んだ者が全て赴くところ、という風に考えられております。黄色い泉と書いて、黄泉という、あれと同じであります。そのような死者の国、黄泉の概念は古代の日本人にも信じられてきたものだと思います。それは、つまり人間が死の力に捉えられているということであります。人間は、善人も悪人も、必ず死ななければならない。それは人間が神の命から離れてしまったからであります。罪の力にがんじがらめにされているからです。善人であっても、神の御前にあって罪人ではない人間はいない。それが聖書が語ります、人間の現実であります。私たち人間は皆、自分の罪のゆえに死んで、陰府に降らなければならない。しかしその陰府の力を打ち破る力がある。それが、メシア、救い主イエスなのです。そして、わたしたちが救い主イエスに出会い、「あなたこそわが救い、私の罪の魂を贖い取ってくださる、陰府の力から引き上げてくださる神の御子です」と告白するところにこそ、キリストの権威が立てられていく。それが、キリストの建ててくださる教会なのであります。そう考えていきますと、私たち教会に与えられている権威とは、この世の権威とは一線を画す権威であります。政府が持つ権威。政治を司り、外交を行う権威、戦争を行使する権威などとは違いますが、実はもっと高い次元の、人間の持てる権威を越えたもの。人間の命を司る権威であります。人の魂を救う権威であります。それが、聖書の御言葉が語られるところに働くのであります。ローマの信徒への手紙第10章9節から10節にこのようにあります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」イエスは主であると信じる信仰によって私たちは、死から命へと移っているのであり、(ヨハネによる福音書5章24節)キリストを信じる者にとって死はもはや、陰府の門ではなくなるのです。永遠の命の門となるのです。
主イエスはここで言われます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」ペトロがいたしました信仰の告白に対して主イエスは心からの喜びをもって、あなたは幸いだ!と告げてくださる。なぜなら、この信仰告白はペトロ自身の自発的な告白ではなく、神がこの信仰をペトロにお与えになられたからです。つまり、ペトロが幸いであるのは、ペトロが賢いからではなく、特別に霊性の高い人物なのでもなく、ただペトロが、神に選ばれているからであります。神によって選ばれ、救われたものであるからこそ、このような信仰を告白することができたのであります。そうであるならば、ペトロと同じ信仰を告白する私たちも全く同じように、「あなた方は幸いだ」と、主イエスに喜ばれているのであります。神に選ばれ、神によって与えられた信仰であるからです。
ペトロ自身のことをもう少し注目していきますならば、ペトロは主イエスへの信仰を、どの弟子たちよりも先に、確かな信仰を告白しましたけれども、その信仰はまだ未完成であったと言わざるを得ません。なぜなら、このあと21節を読み進めて行きますと主イエスは、御自身が受ける受難。エルサレムに赴き、苦しみを受けて十字架につけられて、殺されること。そしてそのあと三日目によみがえることを打ち明けられます。するとペトロは、そんなことがあってはなりません、と主イエスをいさめ始めたのです。そして、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と厳しく叱られております。信仰告白によって教会の岩と言われたペトロが、いきなりサタンと言われて急降下しております。ペトロはイエス・キリストの十字架の受難を通して至る栄光について、まだ全くわからなかったのです。明らかな欠けがあり、不十分であった。にもかかわらず、この時点のペトロの信仰を喜んでくださる主イエスには、永遠的な視点をもってペトロを見つめる神の眼差しがあったのではないだろうか。そのように思うのです。
主イエスは、これから、十字架の道のりを歩むことを深い覚悟と決意をもって弟子たちに語り始められました。それが、どれほどの苦しみに満ちたものか。よくご存じでありました。しかし、その十字架の道が、天の父の定められた、唯一の道、罪のゆえに陰府に落ちざるを得ない人間を救う、愛の道であるということを主イエスはよくよくご存知なのでありました。そのような、愛の覚悟の中で、ペトロの、まだ、まことに幼い、欠点だらけの、神の愛の、何たるかを何もわかっていないような、しかし確かな信仰の芽生えを心から喜んでくださったのです。それは、主イエスが十字架の道を通り、死を乗り越え、陰府に降り、陰府をも神の御支配に置いてくださり、復活してくださるその完全性でもって、ペトロの信仰を完全なるものにる、その決意の現れでもあったのです。同じように、わたしたちの信仰もペトロのように不完全であります。欠けがあります。しかしそれが、神が与えてくださったものである限り、神は必ず私たちを救い取り、完全なる神の愛を知る者としてくださる。わたしたちはまだ神の栄光、神の国の何たるかを知り始めたばかりです。まだ天の道を歩み始めたばかりです。しかし必ず、到達する。そのことを心から期待して歩んで行けるのです。私たちの人生は最初から最後までキリストの十字架の恵みの中に包み込まれているからであります。十字架の恵み。それは全ての罪人を赦しと永遠の命に導く神の完全なる愛です。この完全なる愛の中に今も、そして永遠に私たちは生かされているのです。この恵みの中で、世々の聖徒と共に、使徒信条を告白していきたいのです。使徒信条に示されている神の恵みの全てを共に分かち合っていきたいと願います。
お祈りをいたします。
天の父なる神様。使徒信条を告白することを通して、わたしたちが普遍的な教会に連なり、全時代、全世界の聖徒と共に主イエスを仰ぐ者とされておりますことを感謝いたします。わたしたちの信仰は不完全ですが、あなたの完全なる恵みの中で、成長していく者とならせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン