「御国を来たらせたまえ」
説教集
更新日:2026年05月09日
2026年5月10日(日)復活節第6主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村 満
ルカによる福音書17章20~24節
20ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」22それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。23『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。24稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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今年度の礼拝では、三要文(さんようもん→主の祈り・十戒・使徒信条)から御言葉を聞いていくということは、皆さんご存じでいらっしゃると思いますけれども、まず主の祈りから学んでおります。本日は、「御国を来たらせたまえ」という祈りを改めて学び直していきたいと思います。わたしたちは毎日のように、主の祈りを祈ります。その中に御国を来たらせたまえという祈りがあります。初めて祈る人は、御国とはなんだろうか、と思うかもしれません。御国とは、神様の国ということです。もっと詳しく言えば、神様の御支配という意味です。主イエスはマタイによる福音書の 6 章で山上の説教の中でこのように語っておられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」この御言葉を愛唱聖句としておられる方も多いかと思います。それほどにわたしたちの信仰の指針として確かな約束でありましょう。しかし、ここで神の国を求めなさいと言われているだけでなく神の義を求めなさいという言葉も付け加えられているのは、神の国と神の義というのは、切っても切れない関係であるからでありましょう。神の義を求めることまで考えてまいりますと、次回の説教の内容にまで踏み込んでしまいますけれども、御心の天になるごとく地にもなさせたまえという祈りと今日示されている「御国を来たらせたまえ」という祈りは、実は同じことを視点を変えて祈っているだけだと言った人がおります。わたしたちはこの地上から天の神に向けて叫ぶように祈ります。天の父なる神よ!この地上に、どうか神の確かな御支配が来ますように!神の正義が貫かれていないこの現実の中で、神の正義が確かに貫かれますように!悪人が裁かれ、正しい人が認められ、苦しむ人々が癒され、疎外されている人々、悲しむ人々が慰められ、愛と平和の中に共に生きる世界が来ますように!そのように、祈ります。
しかしそう祈るとき、同時にこのようにも祈っているのです。天においてはあなたの御心が完全に成っております。神様の正義がその愛と聖さと栄光と共に満ちています。それがどうかこの地上にも成りますように。この地上をも天と同じように一つにしてください!そしてこのようにわたしたちが祈る時、すでに私たちは天とつながり、神の御国の働きに積極的に加わっているのであります。参与しているのであります。神は私たちなしでも地上に神の国をもたらすことはできるでしょう。しかし私たちが、この地上において神の国が来ることを心から願い、そしてその働きのために自分をささげて生きることを心から望まれるのです。そこに主の栄光が現われるからです。そしてそうであるならば、この、主の祈りを心から信じて祈る私たちのうちに、すでに神の国が来ている。そのように言って差し支えないのではないでしょうか。神の国。それは、先ず信仰において来ている。キリストを信じる者たちの群れ。教会に、確かに神の国が来ているのだと。
ところで、神の国という言葉で表されていることには、二つの視点があると言えます。よく言われますのでご存じの方もおられるかと思いますけれども、神学的な用語で「すでにといまだの間」という言葉があります。現在というのは中間時にある。つまり、既に、キリストの十字架と復活によって成し遂げられたこの地上における神の御支配。この十字架と復活から、確かにこの地上において神の国は始まったと言えます。主イエスを通して神の民が生まれたからです。それが私たち教会であります。しかし、いまだ、完成していない、神の国の成就であります。この二つの視点に立ちながら、わたしたちは、御国を来らせたまえ、と祈るのです。いつもこの祈りの基点は、主イエスの復活であります。主イエスは、十字架において全世界の罪。わたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そこで、罪と死の力からわたしたちを解放してくださいました。主イエスを信じる者は皆、罪と死の力から解放され、死から命へと移るのであります。私たちは復活の命という神の恵みの御支配の中で、この地上に神の御支配があまねく行き渡りますようにと祈り続けるのであります。さきほどわたしたちは讃美歌 90 番を共に歌いました。わたしの好きな賛美歌でもあります。 「ここも神の御国なれば。あめつち御歌を歌いかわし。岩に樹々に空に海にたえなる御業ぞあらわれたる。」そのように讃美の歌詞がありますけれども、これは信仰においてこの地上を見つめる眼差しでありましょう。聖書の信仰がなくても、この世界の美しさの中に神様の御業を認めることはできるかもしれません。美しい大自然や、宇宙を作ったのは神様である。そこの神の栄光が現われている。そういうふうにいうことはそれほど難しいことではないと思います。しかし、信仰が与えられなければ、本当の意味で、この地上が神の国だとは言えないのではないでしょうか。つまり、神の愛がこの世界に注がれ祝福されていると信じることはできないのではないでしょうか。なぜなら、神の恵みに逆らうように人間の罪と悪魔の力が支配しているようにも見えるからです。この神のお造りになられたはずの美しい世界の中で、人間の罪が闇をもたらします。戦争、憎しみ、争いの中で、正義が踏みにじられている現実があります。命がたやすく踏みにじられていく現実があります。人間の傲慢によって世界が地獄と化すのを、20 世紀の二つの大戦においてわたしたちは見てまいりましたし、今も独裁者たちがこの世界を蹂躙しているのをニュースで見ております。そのような危険が、対岸の火事ではなく、いつ私たちの生活に迫って来るかという、何が起こるか分からない時代でもあります。それでもなおこの世界が神の国であるということは、信仰においてこの世界を見る眼差しが与えられていなければなりません。「よこしま暫しはときをうとも、主の御旨のややに成りて、あめつちついには一つとならん。 」
なぜそう讃美できるか。主イエスがこの地上に打ち立ててくださった十字架。この十字架は全世界の罪を贖う力を持つからであります。悪魔に打ち勝つ力があるからであります。この十字架において、悪魔は敗北したのであります。主イエスはこの世に勝利し、その手中に治めている。今もこの地上では、悪魔が暗躍し、キリストの力以上に力強いように見えますけれども、実はその闇の力の根っこは2000 年前に切り取られ、やがて枯れていくのは明白なのであります。それゆえに最後の力を振り絞って戦いを挑んでいるのであります。
本日与えられた御言葉の中で、ファリサイ派が登場します。彼らもまた、律法を一所懸命に守りながら神の国を待ち望んでいました。しかし、彼らが求めていた神の国は、当時考えられていた黙示文学思想という考え方から来ていました。それは、どういうものかというと、神様がこの地上に世の終わりに現われてくださって完全な御支配がくると、罪と悪が一掃される。その日には、神に従っていた側の人間と、罪と悪魔の側にいた人間がはっきりと分けられてしまう。光と闇に分けられて、神の裁きによって、神の側にいた人々は救われて、悪魔の側にいた人々は滅びてしまう。そういうことは初めから決まっている。もちろんファリサイ派の人々は自分たちが神の側にいると確信していますから、そのような日が来てほしいと願っている。自分たちの正しい行いが報われる日が来ると信じ、悪を為している者たちを主が裁いてくださるとも信じている。これはファリサイ派の人々に限らず、当時のユダヤ人たちの多くが信じていた。主イエスの弟子たちもそう信じていたわけであります。しかし主イエスはまるでその考え方を打ち消すようにして言われました。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ユダヤの人々は、神の国がまだ来ていない。しかしいつの日にか神がこの世界を支配する日が来ると信じていました。でもその神の国をもたらすのが、そこで話をしている主イエスであるとは信じていなかったと思います。彼らは救い主を、もっと天使のような、威光を帯びた偉大なお姿で来られるものとして信じていたのかもしれません。ですから主イエスを見ても、ただの人間だと思ったのでしょう。主イエスが神の国の到来そのものであるとは信じられなかったのだと思います。けれども、神の国は彼らが考えていたような仕方ではなく、主イエスが彼らの罪のために十字架におかかりになり、死んでよみがえるという仕方でこの地上に来ました。そのことを信じないユダヤの人々は今もこのような黙示思想の中で救い主を待ち望んでおります。主イエスではない方が救い主として地上に来ると信じているのです。
ではわたしたちは、さきほど申しましたように、既にと未だの間の中で、既に主イエスを通して来ている神の国の恵みの中にあって、なお神の国の完成、成就を求めて祈っているわけであります。それは、一度この地上に来られた主イエスが天に昇られて、その主イエスが再び再臨される日が来ると信じている。その時、全ての人々が裁かれる。全てのものが新しくなる。主にある完全な平和が訪れる。しかしそれと、ユダヤ人たちの信じていた黙示文学思想と、どう違うのでしょうか。結局のところ私たちの信じる再臨信仰と、当時のユダヤ教に浸透していた黙示文学思想とは同じではないのか。そのようにも思えます。しかしやはり決定的に違うところがあるのです。それは、すでに神の国が主イエスを通して始まっている。その始まりがやがて終わりを迎える。完成するということを信頼できる。安心して待ち望むことができるという点においてやはり決定的に違うのだと言えましょう。ユダヤ人にとっては、まだ神の国は来ていないのです。しかし私たちのところに、救い主イエスが来てくださったのです。彼らもそれを本当は認めて信じなければならないのです。
主イエスがここで、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われたのは、霊的な事実として今わたしたちの生活の中にある出来事です。つまりイエス・キリストを信じて洗礼を受けている私たちの内にはいついかなる時にも聖霊がおられます。私たち一人一人の内に生きてくださっている聖霊はいつも天の神、イエス・キリストとつながってくださっています。そこにおいてわたしたちはいつも天とつながっている。神の国はここに、わたしたちのこの胸の中に確かに来てくださっている。そしてわたしたちの兄弟姉妹の内にも来ておられる。それゆえにわたしたちは、人間的にはそばにいる人のことを知らないことばかりであったとしても、共に御言葉を聞き、共に祈り合う中で主イエスにあって一つだという連帯の喜び。信仰における友愛をもって歩むことができるのであります。また、この、すでに来ている神の国を信じながら、主イエスの再臨される完成の日を待ち望む者たちは、決して今日という日をおろそかにしませんでした。単なる黙示思想であるならば、今日という日を大切にせず、手をこまねいてただ神の国を待ち望むだけ、ということになります。この地上での生活をおろそかにしてしまう人々がいたのです。下手をするともっと悪いことに、神の国を早めるために戦争が起こることを願うとか、集団自殺を促すとか、全く間違ったカルト的な考え方に陥る人々もいたのです。キリストのもたらしてくださる将来を待ち望む者は、今すでに始まっているこの神の国の中で今自分に与えられているこの地上における神の御計画が何であるかを真剣に尋ね求め、そして聞き従うのであります。正しい終末の信仰を持つキリスト者は、いつも今という時を真実に生きる人でありました。そして今、この地上にある闇の中に光をもたらすべく、世のために、人のために、働く人たちでありました。その力は先ずもって、私たち一人一人が、既に来ている主イエスの救いを今受け入れるということから始まります。既にここに、主イエスが十字架にかかってくださったことが宣言されています。復活し、私たちに命を与えてくださることが確かに示されています。それを、信じて、受け入れる。キリストの命に連なる洗礼への招きに応える。そこから、わたしたちもまたこの地上に働く神の恵みの働き。偉大なる栄光の働きへの参与が始まるのです。これは小さな人も大きな人も、等しく与ることのできる最も素晴らしい働きであります。
この今もこの地上に働かれる主の御業に与るために、今日も主イエスを救い主として信じて、主を礼拝し続ける群れとして、今週の一週間を歩んでいきましょう。そしてこの礼拝で祈る主の祈りが、わたしたちをこの礼拝から外の世界に押し出し、私たちを通して、この世界が少しずつ少しずつ神の国に近づいていく。この罪の世において、わたしたちの祈る祝福の祈り。執り成しの祈り。また、祈りを通して示された生き方、働きを通して主がこの世界に神の支配をもたらしてくださる。そのことを信じて、主の御国の働きのために用いられていきたいのです。
お祈りをいたします。
天の父なる神様。救いがすでに始まっております。あなたがわたしたちのために、十字架と復活を通して確かな神の国をこの地上に始めてくださいました。その働きに与って、主の栄光のために。全ての人が主を仰ぐ日のために、全ての悲しみ涙がぬぐわれる日が来ることを信じて、神の国と神の義のために歩む者とならせてください。主の祈りを心から祈り、主の祈りに生きる群れとならせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン