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銀座の鐘

ミメータイ・トゥ・セウー(神に倣いなさい)

説教集

更新日:2021年08月15日

2021年8月15日(日)聖霊降臨後第12主日礼拝  家庭礼拝 近藤 勝彦 牧師

エフェソの信徒への手紙5章1~5節

 聖書には「驚くべきこと」が記されている個所があります。実を言いますと、聖書 のどの箇所も、人間の想定や努力の範囲を遥かに超えた驚くべきことを証言していますから、聖書全体が「驚くべきこと」を伝えていると言うべきでしょう。しかし私たちの感覚や意識は、ともすると鈍くなっていて、いつの間にか驚くべき内容にも驚かなくなっています。それが実状ではないでしょうか。そこで説教者の役割は、もう一度驚きをもって御言葉を聞き、日常を越えた礼拝の真の現実感覚を取り戻すための奉仕と言ってよいのではないかと思います。今朝の箇所もその驚きを伝えて、「神に倣う者になりなさい」と記されています。尋常でない、ものすごいことが記されているのではないでしょうか。「神に倣う」、そんなことがあり得るのでしょ うか。
 「神に倣え」という言葉は、聖書と言えども、ここだけのものです。一体、誰が神 に倣えるでしょうか。神に倣うとはどういうことでしょうか。よほど神観念が低ければ話は別です。たとえば日本の一部には、昔からの低い神観念が残っています。
山の神もいれば、台所の神もおり、人間も神と呼ばれ、祀られるといった具合です。菅原道真は、天神様になって祀られ、今でも多くの受験生がお参りします。一芸に秀でた人はたちまち神様にされ、志賀直哉は「小説の神様」と呼ばれました。ずいぶん安い神様もいたものだと思われますが、しかし聖書は違います。神は唯一、全能の神、万軍の主です。天地万物を無から造り出した造り主であり、あらゆる被造物を超越した聖なる栄光の神です。誰も神に近づける人はいません。今朝の聖書は、その神を告げて、しかも「神に倣いなさい」と語るのです。何が起きているのでしょうか。
 「神に倣う」と言われるのは、ここだけと申しました。しかし「倣う」と言う言葉 は、聖書の多くの箇所に出てきます。「キリストに倣う」という表現、そのために使徒たちが語った「わたしに倣う者になりなさい」(一コリ 11・1)という言葉です。それらは結局、「神に倣う」に収斂していくと言ってよいでしょう。主イエス御自身が「わたしについて来なさい」と言われると共に、「天の父が完全であるように、完全なものになりなさい」(マタイ5・48)とおっしゃいました。『キリストに倣て』(イミタチオ・クリスチ)という書物があります。宗教改革より以前、15世紀に記された書物ですが、プロテスタント教会の中でもよく知られ、親しみをもって読み継がれてきました。近年ではそれほど読まれなくなったかもしれませんが、今朝の御言葉からしますと、もっと熱心に読み継がれてよい書物ではないかと思われます。「キリストに倣い」、そして「神に倣う」、イミタチオ・クリスチやイミタチオ・デイ、これを失っては、真実のキリスト教信仰でなくなるとも言えるのではないでしょうか。 それでは「神に倣え」ということはどういうことでしょうか。神を信じるだけではだめだということでしょうか。私たちは神を信じ、その救いを信じています。それ以外に何の取柄もない私たちです。罪の者であることを思いますと、私たちは神をただ信じているだけの者と言ってもよいでしょう。それではいけないのでしょうか。聖書は、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣いなさい」と言います。ここで「神に倣いなさい」と言うのは、信じているだけではだめ、神に倣わなければと言っているわけではありません。そうでなく、神を信じるなら、私たち自身が「神に愛されている子供」である、そうであれば当然のこととして「神に倣いなさい」と言われています。信仰には、信頼して信じるとともに、信じて応答し、神に倣うことが含まれているというのです。なぜなら神を信じる中には、神の救いを信じることが含まれており、「神に愛されいる子供」とされたことを信じ、そう信じる中には、当然、神に倣うことが含まれているからです。
そうなると、「神に倣いなさい」という驚くべき命令は、実は驚くことでは🅂なく、当然の理由から言われているわけです。むしろ驚くべきことは、神に倣う当然の理由がある、その事実の方でしょう。それが「あなたがたは神に愛されている子供ですから」と語られていることです。ただ「神の子」とされたと言うのではありません。「愛されている子供」にされました。「子供」は、大人になった「子」と違う小さな子供を意味します。それもただの小さな子供ではない、「愛されている小さな子供」です。わたしたちが神に愛された小さな子供であることが、キリストによる神の救いです。この救いの中に、神の愛された子供として、そのままに歩むことも含まれています。そのままに歩むとは、神に愛されるままに、神と人とを愛する 者とされて歩むことです。神に倣うことで、何とかして「神の子供」になろうという話ではありません。そんなことは、罪の者である私たちには不可能なことです。そうでなく、無条件で神から愛され、愛された子供にされました。可能も不可能もない、神に愛された子供とされたその事実のままに生きることです。そこには喜んで、神に感謝し、お応えし、神に倣うことが含まれているはずです。
「神に倣う」のは、神のごとく全知全能になる話ではありません。人が驚く神業を示すわけでもありません。そうでなく、「神が愛してくださっている子供とされた、そのままに生きること、愛の中に生きて、愛をもって歩むことです。
「神に愛されている」ということは、主イエス・キリストの出来事の中に示されています。主イエスの生涯とその十字架の出来事の中に、神の愛は二重の仕方で現れています。一つは、神が私たちのために独り子さえも惜しむことなくお与えになったという神の愛の事実です。パウロがロマ書 8 章 32 節で「その御子を惜しまず死に渡された方」と言い、ヨハネ福音書が 3 章 16 節で「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と告げているとおりです。もう一つは、神の独り子、御子キリストの愛です。ここでは「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」と言われます。主イエスは、私たちのために御自身を犠牲としてお献げになりました。キリストの愛は、自己譲与の愛です。独り子を譲渡した神の愛と御自身を献げた御子の愛、神の二重の愛が、私たちの今日の命と歩みを造り、支えます。だから「あなたがたも愛によって歩みなさい」と言われます。神から愛された子供として、その事実のままに振舞えということです。どんなに豊かに愛された子供であるか、そのためにどれだけの犠牲がかけられた子供か、それはその愛された子供が、どれだけ他の人を愛する者にされたかによって表わされます。神に愛されている子供とされた者は、愛された分だけ神に倣う。それがキリスト者というものでしょう。
神に倣う歩みは、原始教会では直ちに二つの道を避けました。性的な不道徳と貪欲です。性的な不道徳にしても際限のない貪欲にしても、あの時代を悩ませた人類の難問でしたが、現代の社会も悩ませ続けています。多くの人がこの問題に苦しんでいます。自分と周りの人を悩ませています。しかし、聖なる神の愛とキリストの自己犠牲によって命の支えを与えられた者たちは、性的な不道徳からも、また貪欲からも、自由を取り戻しました。神に愛された子供とされて、その喜びと自由に生き、感謝に歩むことができたからです。神の救いの中に現代の人々の生きる可能性が開かれています。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」。

 お祈りいたしましょう。 聖なる愛にいます天の父なる神様、「神に倣いなさい」との御言葉を受けて、あな たの大いなる憐れみと御子・キリストの深い自己犠牲の愛を知らされ、心から感謝 いたします。あなたの愛する子供とされた喜びと自由に生きることができますこと を感謝いたします。新型コロナの感染爆発の中、それぞれの場にあってあなたに倣 う愛をもって歩むことができますように導いて下さい。今日はまた、特に、国々の 平和を覚えて祈ります。相互の関係が険しくなっている国々の間に、あなたの平和 が打ち立てられますように。教会とそのすべてのえだえだに信仰の命を注ぎ、あな たこそが主であることを世に証しすることができますように導いてください。主イ エス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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