銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘
  3. 災いを思い直される恵みと憐れみの神


銀座の鐘

災いを思い直される恵みと憐れみの神

説教集

更新日:2023年03月18日

2023年3月12日(日)受難節第3主日 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

ヨナ書3章1~10節

 本日私たちに与えられました聖書箇所、ヨナ書はアミタイの子ヨナという人物が主人公とされています。この物語は「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」という主の言葉がヨナに臨んだところから始まります。このヨナは、北イスラエル王国出身の預言者であり、彼が生きて活動していた時代はアッシリア帝国が栄えていた時代でした。このアッシリア帝国の都ニネベの悪が、主なる神様のもとまで届いているので、その地に行くようにとヨナが召されるところからヨナ書は始まります。
 私たちは旧約聖書を通して、預言者たちが選ばれ、召された時に、葛藤し、弱気な発言をしたり、自分ではなく他の人を選んでくださいと神様に対していう預言者たちの姿を見ることができます。しかし、実際に預言者となることを拒み、主なる神様から逃れようとして行動に移したのは、このヨナだけです。ヨナは東のアッシリア帝国の都ニネベに行けと言われたのにもかかわらず、反対方向のタルシシュに向かって船に乗り、人々に紛れ込んで主から逃げようとしました。ですが、当然のことながら神様から私たち人間が逃れることなどできません。どれだけ大勢の人々の中に紛れ込もうとも、主なる神様にはすべてお見通しです。
 神様から逃れようとしたヨナの乗った船は、主なる神様によって大嵐に見舞われました。ヨナと共にこの船に乗っていた異邦人の船乗りたちはそれぞれ自分の神に祈ったり、積み荷を捨てたりと努力しましたが、事態はまったく良くなりません。やがて、ヨナが神様の前から逃れてきたことがこの大嵐の原因であることが分かり、ヨナは自分を海の中にほうり込めば海は穏やかになると船乗りたちに伝えます。ヨナの提案を受け入れるほかなくなった彼らは、ヨナを海にほうり込む際、まず、主なる神様に祈ってから、ヨナを荒れ狂う海へとほうり込みました。すると、ヨナの言った通り、海は静まりました。この出来事を見て、船に乗っていた人々は大いに主を畏れて、いけにえをささげ、誓いを立てた、とヨナ書1章には記されています。
 このように、ヨナは預言者として逃亡しようとしたのにもかかわらず、形はどうあれ、主なる神様を異邦人に示すという働きをこの船においてもさせられたのでした。
 そして、船からほうり込まれ、後は死を待つばかりであったヨナを、神様は巨大な魚に命じてヨナを呑み込ませることでお救いになられました。主なる神様に背き、逃れようとした自分を死から救ってくださった神様に対して、ヨナは魚の腹の中から感謝の祈りを捧げました。ヨナが「わたしは感謝の声をあげいけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある」と祈ると、主なる神様は魚に命じて、ヨナを陸地へと吐き出させました。
 こうして、主なる神様によって救われ、新しい生をこの地上において生きることがゆるされたヨナに対して、再び主の言葉が臨んだと記されているのが、本日与えられたヨナ書3章1節です。ヨナに臨んだ主の言葉、それはかつてヨナが命じられて逃げ出した、あのアッシリア帝国の都ニネベに行き、主なる神様の言葉を告げるというものでした。一度は逃亡を図ったヨナでしたが、今回は直ちに主の命令どおりに、ニネベに行きました。
 このニネベは主なる神様ご自身が「大いなる都ニネベ」とおっしゃっているように、非常に大きな都で、3節に「一回りするのに三日かかった」とも記されています。この大きな都にヨナは入り、一日分の距離を歩きながら「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」と叫びました。
 ここで注目したいのは、ヨナの説教がとても短い説教であったということです。ヘブライ語でわずか五つの言葉のみで、彼は説教しました。ヨナの説教からは、ヨナがこの神の言葉を如何にニネベの人たちに伝えようか、と努力したあとは何も見られません。この説教からも彼に はニネベの人たちが悔い改めて立ち返り、滅びを免れるように、という気持ちが全くなかったことが分かります。このことから明らかになるのは、ヨナの説教を聞き、ニネベの人たちが悔い改めたとすれば、それはヨナという預言者の力によるものではないということです。
 きっとヨナはニネベの人々は自分の説教など気にもとめないと思っていたことでしょう。しかし、5 節に記されているように、ニネベの人々はヨナの説教を聞くや否や、主なる神様を信 じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとったというのです。そして、ヨ ナの説教を聞いたニネベの民衆たちが始めたこの悔い改めは、ニネベの王のもとにまで伝わり ました。
 神様のもとにまで彼らの悪が届くような都、それがニネベです。ですから、私たちは、悪の都ニネベの王は「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」と叫び回ったヨナを不届き者として捕まえたり、民衆たちの悔い改めを止めるように呼びかけて、ニネベは滅びへの道を歩み続けるのではないかと思いながら先を読み進めると、6節以降のニネベの王の行動に驚かされるわけです。ニネベの王は、このヨナの説教、そして、ヨナの説教によって始められた民衆たちの悔い改めについて聞くと、王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、謙遜の態度を示したからです。また、そればかりではなく、王と大臣たちの名によって布告を出して断食を命じたことが、7-9 節にこのように記されています。
「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。(8)人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。(9)そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」
 断食や悔い改めによって主なる神様の滅びを免れることができるかどうかと言うことは、誰にも分かりません。ニネベの王はそのことを分かっていました。ですが、断食し、ひたすら神に祈願し、悪の道から離れ、不法を捨てれば、もしかしたら、主なる神様が思い直してくださるかもしれない、激しい怒りを静めて滅びを免れることができるかもしれない、と都ニネベに住むすべての者たちにニネベの王は悔い改めを呼びかけるのです。
 そして、10 節には、主なる神様がこの悔い改めた都ニネベに対して、「彼らの業、彼らが悪 の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」と記 されています。主なる神様は、この悪の都ニネベが、悪の道を離れ、悔い改めた姿を見て、思い直し、ヨナの口を通して告げられた滅びの災いをくだすのをやめてくださったのでした。ここで終われば、ヨナ書は気持ちの良いハッピーエンドで終わりです。
 しかし、ヨナ書にはもう一章続きがあります。このニネベに対して下されるはずであった災いを主なる神様が思い直されたことは、ヨナにとって非常に不愉快なことであり、ヨナは怒りを露わにせずにはいられませんでした。
 続く4 章の2節でヨナは「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」と主なる神様を訴えました。
 ヨナは分かっていたのです。そもそも、神の民イスラエルに対してではなく、アッシリア帝国という異邦人の国の都、ニネベに対して預言者を立てるということ、それ自体が、主なる神様がニネベのことを思っているということを。もっとはっきりいえば、それは神様のもとにまで彼らの悪が届く、このような悪の都ニネベを、主なる神様が愛しているということです。
 この計り知れないほど大きな神の愛を、ヨナは受け入れることができませんでした。ですから、1章においてヨナは神様の前から逃亡したのです。神の民であるヨナは、悪の都ニネベが神様に愛されること、そして、滅びを免れることが許せませんでした。
 何故、こんなにもヨナはニネベの滅亡を望むのか。私たち読者は、このヨナが北イスラエル王国出身の預言者であったということを思えば、それが当然の感情であることが分かります。
 ヨナの出身地、北イスラエル王国はこのニネベを都とするアッシリア帝国によって大変苦しめられたことが列王記下17章には記されています。アッシリアの王は、北イスラエル王国の都サマリアに攻め上り、三年間包囲した後に、サマリアを占領しました。そして、イスラエルの人々を捕らえて、アッシリアへと連れて行ったのです。それだけではなく、他の国の人々をサマリアへと連れてきて住まわせ、この人々にサマリアを占拠させました。このようにして、アッシリア帝国によって北イスラエル王国は滅亡させられたのでした。
 つまり、アッシリア帝国はイスラエルにとって敵国中の敵国といってよい存在でした。ですから、その都ニネベに対して、主なる神様が預言者を立てるほどに愛を示されたと言うことは ヨナにとっては怒らずにはいられない出来事だったのです。彼は怒ります。私たち人間はヨナの気持ちが分かります。自分の憎むべき相手を愛する人とは一緒にいられないと思う、私たち人間の姿をヨナの姿から私たちは痛いほどに示されています。「敵を愛しなさい」という主イエス・キリストの御言葉に聞き従うことができない、私たち信仰者の姿がここにはあります。
 そして、そのような私たち人間の愛の狭さ、憎い敵に対して滅びを望んでしまう罪の姿とは対照的な、主なる神様の姿が、このヨナ書にははっきりと記されているのです。ヨナが言ったように、主は恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直されるお方です。他でもないこのお方が私たちを愛してくださり、御子イエス・キリストをこの世へと送ってくださったからこそ、私たちは今、罪赦された者として新しい生を生きることがゆるされています。ですから、私たちは自分自身も神の敵であったこと、罪によって滅びるべき存在であったのにもかかわらず、御子イエス・キリストが私たちの災いをその身にうけてくださったことを覚え、感謝しつつ、この受難節の歩みを歩んで参りたいと願います。