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銀座の鐘

「聖霊降臨の下に生きる」

説教集

更新日:2024年05月18日

2024年5月19日(日)聖霊降臨日 銀座教会 ペンテコステ 牧師 近藤 勝彦

使徒言行録2章1~13節、32〜33節

 今朝は、ペンテコステの礼拝のために集まってきました。「ペンテコステ」は、ギリシャ語で「50 日目」という意味で、御言葉の冒頭にある「五旬祭」と訳されているのがそれです。何から 50 日目かと言いますと、「過ぎ越しの祭り」の安息日の翌日から数えて 50日目と言われます。基準にある「過ぎ越し」の祭りは、出エジプトの出来事で神がエジプトに対する裁きとしてそれぞれの家の長子と家畜の初子を打ったとき、イスラエルの家を「過ぎ越された」わけで、それを覚えての祭りです。「過ぎ越しの祭り」の最中、主イエスは人間の罪を負い、過ぎ越しのための犠牲として十字架にお架かりになりました。そして次の日が安息日で、その翌日死者の中から復活されました。ですからペンテコステは、主イエスの復活日を基準に数えて 50 日目にも当たったわけです。
「五旬祭」の祭りの方は、もともとは麦の収穫を祝う祭りでした。それが出エジプトの「過ぎ越し」からすると、葦の海を越えたエジプト脱出から 50 日目で、シナイ山においてモーセを通して神から律法を授与された日になったと言われます。ですから麦の収穫祭でありながら、同時に律法を授与された重大な日として祝われたわけです。その日が、使徒言行録によりますと、聖霊が注がれた重大な日とされました。
 この日起きたことは、使徒言行録によりますと、「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」と言われます。そして、「炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」。しかもそれは「神の偉大な業」(11 節)が語られた、そういう聖霊降臨の出来事が起きたと言われます。
 ペンテコステの聖霊降臨がどういう出来事で、どんな意味をもったか、また今日に持っているかを語ると、何回もの説教を必要とすると思われますが、今朝は、神の大きな救いの御業は一つの出来事でなく、いくつもの出来事、一連の出来事を通して起きたということに注意をしたいと思います。一連の出来事の中で、主イエスの十字架と復活の出来事は決定的です。それが 50 日目の最初に起きた出来事です。しかしそれだけではなかったのです。神の偉大な業は複数形で書かれています。十字架の死から三日目に復活の出来事がありましたが、復活から 40 日目には復活者キリストが昇天なさるという出来事があり、主イエスは神の右に座し、そして復活から 50日目には聖霊を注がれたと言われます。この一連の神の救済の出来事の一応の完結が、50 日目の聖霊の降臨、つまり大いなる聖霊の燦燦たる注ぎであったと言うのです。
 聖霊降臨の出来事そのものは、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、家中に響いた」と報告されます。そして続いて「炎のような」とあります。「激しい風」も「炎」もどちらも聖書の用語としては神の臨在を表わします。詩編 104編 4節を見ますと、主なる神は「さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる」とあります。激しい風、あるいはつむじ風、それに火や炎によって、聖書の民は神の臨在を感じ取りました。モーセは燃える柴の中で神に遭い、イザヤは神殿で神に出会ったとき、神殿は煙に満たされてたと言います。雲の柱、火の柱が荒野のイスラエルに神共にいますのを伝えました。神の身近な臨在の経験の中で聖霊の注ぎが経験されました。
 神の救いの一連の出来事の中で、すでにキリストの復活は命の霊である聖霊の出来事であって、聖霊はキリストをよみがえらせた神の命の霊です。ですから、主の十字架がまず起こり、そして復活があり、復活された主が神の右に座され、神のあらゆる権威や権能を与えられ、その主イエスが聖霊を弟子たちに注がれたと告げられるわけです。それはヨハネによる福音書でもパウロのロマ書でも、またエフェソ書でも同様です。使徒言行録は、続くペトロの説教の中で、こう語ります。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(32-33 節)。ペンテコステは主イエスが聖霊を注いでくださった日であり、それを思い起こす、記念日です。
 十字架に架かり、復活し、神の右に挙げられた主イエスが御父から受けた聖霊を注いでくださいました。神の救いの出来事、その偉大な御業には、主イエスの十字架の死があります。神の審判があって、罪の裁きと贖いがあったのです。神の義が貫かれ、その上で主の復活がありました。その復活の主が神の右に座し、聖霊を注いでくださったわけです。十字架と復活のないキリスト教信仰はありません。しかし主イエスが聖霊を注がれたのでない、聖霊降臨のないキリスト教もありません。復活の主が霊を吹きかけて、「あなたがたが赦した罪は赦される」とヨハネによる福音書は語り、イエス・キリストを復活させた神の霊があなたがたのうちに宿って、あなたがたの死ぬはずの体を生かしてくださるとパウロは語りました。神の救いの御業は主イエスの十字架と復活によるだけでなく、復活者キリストによって聖霊の注ぎが与えられたことも含んでいます。
 使徒言行録は、「激しい風が吹いて来るような音が家中に響いた」と告げています。聖書は象徴的に語っています。「家中に響いた」のは、世界中に響いたことを意味すると受け取られます。主イエスの十字架も復活も、一度限りの出来事ですが、しかも世界と歴史の全現実に関わり、全人類を包括している神の救いの出来事です。同じ様に聖霊の降臨もまた世界を包む大きな神の出来事です。ですから、バプテスマを受けて主の救いに入れられたとき、私たちは主の十字架に与ってキリストと共に罪に死に、主の復活にあずかって新しい命に与りましたが、同時に聖霊の注ぎを受けて、神を「父よ」と呼ぶ神の子とされ、「炎のような舌」を受けて、主イエスを証しする者にされたのです。あの日の主の弟子たちのように、私たちもペンテコステにあずかって、「神の偉大な業」を霊の言葉によって証しします。「神の偉大な業」は、主イエス・キリストにおける神の一連の大きな救済の業と言いました。それを証し、語り伝え、世界に橋渡ししていきます。聖霊の降臨はその救いの証言が世界を包み始めた出来事です。
 キリストによって聖霊の注ぎを受けていますから、私たちはすでにペンテコステの中にいます。あるいは復活の主イエスと共にいる時、私たちはすでに主イエスによって聖臨の降臨の下にいます。燦燦と霊が注ぎます。御霊が注いでくださるのも神の偉大な業の一つでしょう。その聖霊によって神の偉大な救済に与ることができます。そしてそれを語りつたえるわけです。私たちはイエス・キリストを主と信じます。神の御業を証し、説教をし、伝道の中おかれています。聖霊の注ぎを受けているからです。「父よ」と祈ります。聖臨降臨の下に生きているからです。そして他者を赦し、神の赦しを伝えます。聖霊を注がれているからです。伝道の働きに奉仕します。聖霊が私たちを「父よ」と呼ぶようにさせ、「子」とされたことの保証になっています。苦難の中にも命を喜び、キリストによって「死ぬことも益である」とパウロと共に語ります。キリストの命に生かす聖霊を注がれているからです。
 聖霊降臨の出来事をペンテコステ、50日目の出来事として伝えたのは使徒言行録だけですが、この個所の解釈としてもう一つの強調点に踏み込んでよいのではないかと思います。「過ぎ越し」から50日後は、出エジプトから50日後で、シナイにおける律法授与の日と言いました。これは、過ぎ越しから開始された出エジプトの目的が律法の授与であったと考えられます。何のための出エジプトだったのでしょうか。「出エジプト記」によりますと、モーセはエジプトの王ファラオに主の言葉を伝えます。「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ」。主なる神に仕えるための出エジプトでした。そして律法の授与は神に仕える礼拝と神に仕える生活のためでした。「過ぎ越し」の目的は50日目の律法授与にありました。それに合わせて、なんのための主の十字架であったか、また復活であったかが分かります。出発と基準は主の十字架と復活にあります。しかしその目的は50日目にあったのではないでしょうか。主の十字架によって罪の束縛から解放され、復活によって新しい命に生かされたのは、聖霊の注ぎを受けて、神に仕え、地の果てに至るまで全世界に主イエスを証し、神の偉大な御業を宣べ伝えるためだったのです。世の人々に神の偉大な御業を証言し、世の人々に向けて神の偉大な救いの御業を橋渡しする、この目標に向かって聖霊の注ぎが与えられました。この聖霊降臨の恵みの下に私たちも主の証人として生き、神の救いの偉大な業を伝えていきと思います。

 天の父なる神様、聖霊降臨の礼拝を感謝します。聖霊の豊かな注ぎを受けて、あなたを礼拝し、主の証人として生かし、用いて下さいますことを感謝します。苦難の中にある兄弟姉妹のためも祈ります。神の偉大な御業によって救われ、聖霊による信仰と命に生かされ、神の子とされた幸いを伝えていくことができますように。私たち一同、この一週間も、主の御栄のために用いられますように。今朝も私たちに聖霊を豊かに注いでくださる主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。