「聖書を実現するキリスト」
説教集
更新日:2025年06月28日
2025年6月29日(日)聖霊降臨後第3主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧 師 近藤 勝彦
ルカによる福音書4章16~21節
16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18 「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
19 主の恵みの年を告げるためである。」
20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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わたしたちプロテスタント教会、つまり福音主義の教会では、聖書の朗読とそれを説き明かす説教を礼拝の中の大切な部分としています。この生き方は最近始まったことではなく、初代教会から引き継いだことです。今朝の聖書の箇所で分かりますように、聖書の朗読とその解き明しのある礼拝は、主イエスの生活の中にすでにありました。
ルカによる福音書 4 章は、主イエスのいわゆる公生涯の開始、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、聖霊に満たされ、福音を宣べ伝え始めたときのことを記しています。主は御自分が育たれたナザレで、安息日に会堂に入られましたが、それはいつものことであったと言われます。そして聖書を朗読しようとしてお立ちになり、預言者イザヤの巻物を受け取り、開いて、一つの箇所をお読みになりました。
会堂(シナゴーグ)での礼拝は、「聞け、イスラエルよ(シェマー・イシュラエール)。我らの神、主は唯一の主である」で始まり、律法つまりモーセ 5 書が読まれ、そして預言者が読まれたと言われます。その日、主イエスがお読みになったのはイザヤ書 61 章でした。「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。朗読された後、主は巻物を巻いて返されてから、席に座られました。会堂にいたすべての会衆の目が主イエスに注がれました。そして主イエスの解き明しが始まります。
私たちの礼拝では、聖書の朗読は司式者によってなされ、その解き明しはその日の説教者がします。しかし根本的なことは、真実な礼拝としてそこに主イエスが共におられ、主イエスから聖書の御言葉の解き明しを聞き、主の恵みの働きを信じて、それに触れることです。そして礼拝が神を真に神としてあがめ、主イエスによって生き返らされるときとなる。それがキリスト教会の礼拝です。私たちの礼拝は、信仰の目を主イエスに注ぐようにして礼拝すると言ってもよいと思うのです。
その日の主イエスの解き明しは、今日の私たちにも向けられています。主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言います。そう「話し始められた」とありますから、主イエスの言葉はさらに続いたのでしょう。ですが重要なことは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という主イエスのお言葉です。つまり、主イエスは聖書の言葉を実現するお方として礼拝に臨在します。「実現する」という言葉は「満たす」、「成就する」という言葉で、主イエスによって聖書の御言葉の内容が満たされ、充満します。ここから、私たちの礼拝でなぜ聖書の言葉が読まれるのかが分かります。それは聖書と主イエス・キリストとの密接な関係から来ているわけです。主イエスは聖書を成就し、実現するお方、つまり聖書の内容であり、聖書の目的であるお方です。ですから、主イエスがおられなかったら、聖書に何が書かれていても、その内容は空っぽのままです。ですが主イエスが来られ、共にいてくださるとき、主によって聖書の言葉は実現され、聖書の目的は成就されます。
このことは見方を変えれば、主イエス・キリストがどのようなお方で、主イエスによって何が起きたかということは、聖書を読むことで分かってくるということでしょう。主イエスにあって神の偉大な働きが起きています。それは、聖書が語っていることの実現であり、その内容の成就です。聖書はその目的である主イエス・キリストとその御業を理解するなくてはならない手段だと言ってよいでしょう。
聖書とイエス・キリスト、どっちが重大かと言えば、それは言うまでもなく主イエス・キリストです。十字架に架かり、復活なさったのは聖書ではありません。主イエス・キリストです。主イエスは御子なる神であって、私たちが礼拝と祈りを献げるべきお方です。聖書がいくら大事だと言っても、聖書を拝む人はいません。聖書に祈りかけるわけにもいきません。ここに言う聖書は旧約聖書ですが、新約聖書も同様です。聖書がいくら重大だと言っても、古代の教会は最初のおよそ 300 年の間、新約聖書なしに過ごしたのです。ただ旧約聖書を読み、しかし使徒たちの証言を聞き、洗礼を受け、主の晩餐にあずかり、主イエスの臨在を信じて礼拝し続けました。
「今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と主は語られました。「今日」とはいつのことでしょうか。それは、主イエスがその礼拝の中におられたその日のこと、ですからこれは,同時に、私たちの今日のことでもあります。あの日の礼拝だけでなく、今日の私たちの礼拝にも主イエス・キリストは臨在くださるからです。肉の目には見えませんが、主イエス・キリストは、信仰によって見えるがごとくに、また見えなくとも信仰によって主を愛する時、今日も私たちに臨在し、共にいてくださることが分かります。私たちのため、全人類のために十字架にかかり、復活なさった方として、神の偉大な業が起きた御子なる神として実在しておられます。私たちと共に、私たちのために、主がおられるところ神の偉大な働きが前進します。
主イエスにあって起きたその偉大な神の御業を今朝の聖書は伝えます。「捕らわれている人に解放」が与えられたのです。文字通り、牢獄にいる人、しかしそれだけでなく、色々な悩みや悲嘆に捕らわれている人がいるでしょう。恐怖に捕らわれている人々もいます。その人々に解放が与えられる。解放というのは自由にすることですが、それは平安を与えることでもあります。平安がなければ本当の自由にならないでしょう。喜びも、また希望も必要でしょう。主イエス・キリストが私たちのために十字架に架かり、復活なさったのは、私たちを圧迫し、脅かす罪を処理し、命を脅かす悪や死の力に打ち勝ってくださった。その主が神の全権を帯びた方として、私たちのためにいてくださり、今日、この解放を告げる言葉は実現したと言ってくださいます。
「目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にする」ともあります。地上の主イエスは文字通り目の見えない人の目を開かれました。わたしたちも見えない状態にいるときがあります。私たちには隣人が見えていません。今日の世界の危機は、隣国が正しく見えていないのではないでしょうか。自分のことがよく見えていない場合もあります。人間のことは、個人でも国々でも愛なしには見えないものです。主イエスによって、愛し、見る力を与えられ、前に進むことができるようになる、それが視力の回復でしょう。私たちにはよく見えないことだけでなく、受け入れられないことも多くあります。しかし主イエスが共にいてくださることによって、人生を受け容れ、主の恵みに満足することができます。
ルカによる福音書は、地上の主イエスの公生涯の終わりでも、つまり復活された主イエスが「聖書を解き明かす姿」を描いています。復活の主イエスが共にいてくださるのに、それが分からない弟子たちに、主は言われます。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じらられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。「そして、モーセとすべての預言者から始めて聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。そして弟子たちは言います「道々、聖書を解き明しながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」。
ルカによる福音書はつまり、始めと終わりに聖書を解き明かす主イエスを語っています。主イエスをもっと深く知りたい。それには聖書に親しみ、主について記されていること、主キリストがその内容を成就していること、それを聖書に即して理解していくことです。聖書に親しみ、なるべく聖書を開き、その内容が主キリストの中で成就していることを学びながら、与えられた人生を生きて行きたいと思います。わたしたちが聖書に親しみ、聖書によって主イエスとその救い、その希望が分かること、それは主イエスの御意志ではないでしょうか。主イエスに従う人生は、聖書の解き明しを聞きながら生きる人生でしょう。聖書を開き、読み、解き明かすことは、主イエス御自身がなさったことです。私たちも聖書を開き、主の解き明しを聞くこと主イエスは望んでおられます。そして今日読んだ聖書の成就は、私にあると語ってくださいます。
天の父なる神様、私たちに聖書を与えて下さり、聖書を通して主イエス・キリストと主にあるあなたの偉大な御業を深く理解することができるようにしてくださったことを感謝いたします。与えられている恵みの文書を開くことの足りない者ですが、どうか赦し導いてくださって、聖書を開き、聖書を通して主イエス。キリストの解き明しを聞く者としてくださいますように。聖書に親しみ、聖書に導かれて、主イエスの召しに従っていく人生を豊かに生きることができますように、導いてください。今日の世界の危機の中で、不安と恐怖に捕らわれている人々にあなたの平安と喜びのある自由への解放があたえられますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。