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銀座の鐘

「御名をあがめさせたまえ」

説教集

更新日:2026年05月02日

2026年5月3日(日)復活節第5主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ヨハネによる福音書17章24~26節

 主イエス・キリストは弟子たちに「御名をあがめさせたまえ」と祈ることを教えました。主の祈りの最初の祈りの言葉である「御名をあがめる」とはどういうことでしょうか。この最初の祈りによって、私たちの祈る姿勢が整えられます。神の御名をあがめる姿勢が与えられるのです。弟子たちがそして私たちが祈るということは第一に「御名をあがめる」ことであると教えられているのです。
 主の祈りは、世界中の教会で祈られるようになりました。全世界の教会に集まる人は、心から「願わくは、御名をあがめさせたまえ」と祈ります。国語辞典で「あがめる」という言葉の意味は、尊敬する、大切にすると説明されています。聖書の神の「御名」を尊敬し、大切にさせてくださいと願うということです。ギリシャ語で「あがめる」という文字は、聖とするという意味です。聖書の聖です。聖とするとは、聖別するということで、特別に扱うということです。神と人間を混同しないで神は神として、神の前に立つ姿勢を整えるということです。あがめるとは神の御心に従うということです。私たちの私利私欲のために自己中心の姿勢で神を従わせるのではなく、私たちが自分を捨てて神に従うのです。私たちが神の御前に謙虚に神に委ねて感謝をもって生きる事で神を神としてあがめるのです。神の御名をあがめるとは、神を礼拝する姿勢につながっていきます。
 「御名」とは、神の名です。この「御名」とは、弟子たちが神への呼びかけの言葉として、「天にまします我らの父よ」と神を呼びなさいと学びました。主イエスは神の名を呼ぶ時、神の名は何々ですと教えるのではなく、弟子たち一人一人にとって神がどのようなお方なのかということを教えようとしているのです。旧約聖書の出エジプト記 3 章において神がモーセに神の名を教える場面があります。神がモーセに現れ、モーセをエジプトの王ファラオの所に遣わすことを伝えたときのことです。
 11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世々にわたしの呼び名。」

 モーセはエジプトでおまえの神の名は一体何かと問われたら何と答えれば良いか神に聞いたのです。神の答えは「わたしはある。わたしはあるという者だ」です。主イエスが神の姓と名前ではなく「天の父」と教えたように、モーセに対して神は、ご自身がモーセに対して、エジプトのファラオに対して何であるのかを伝えているのです。神の名前を知ることよりももっと大切な事は、神との関係だからです。モーセの問いは神の名は「誰か」ではなく「何か」と聞いています。神の姓と名ではなく神の本質が問われているのです。神の答えは「わたしはある」です。「わたしはある」とは、私は実在する者、現に生きている者ということです。口語訳聖書では「わたしは有って有る者」と訳されました。
 神はエジプトの王ファラオの前に立つモーセが、エジプトの神と理解されていた王ファラオに対して、「わたしはある」という言葉で、真の神がここに確かに実在していると確信して伝えなさいと語っているのです。エジプトの王が神なのではなく、聖書の神が真の神なのだということを伝えることになります。モーセはファラオの前で、真の神はここにいると語ることになるのです。
 旧約聖書では父なる神の名前は、聖なる四文字といわれるヘブライ語の四文字で記されています。モーセの十戒で「神の名をみだりに唱えてはならない」とあることから、ユダヤ教において聖なる神の名を声に出して朗読することが神の名をみだりに唱えることになると畏れ、聖なる四文字を読むことが出来ないように黒く消して、その黒消し部分を「アドナイ」と発音することにしました。アドナイは主という意味です。黒消しにしてからの長い歴史の間に、旧約聖書の伝統を受け継ぐユダヤ人は、神の名を尊敬し大切にするあまり、神の名をどのように発音するか分からなくなってしまいました。この聖なる四文字は、昔はエホバと発音していましたが、セム語の文法に従って読むとヤーウェまたはヤハウェと発音することが分かりました。聖書の神は名前をもっているのです。聖書の神が名前を持って、その名を教えたということは、私たち人間にその名前を呼ぶこと、その名前を自由に用いることを委ねられたのです。その上で、主イエス・キリストは祈る時、ヤーウェではなく、天の父よと呼びなさいと教えたのです。
 主イエスが神に祈る時、ヤーウェという聖なる四文字でもアドナイでもなく、あなたの「父」と、天の父なる神を呼びなさいと教えているのです。主イエスはなぜ、神の名そのものではなく、「父よ」と呼ぶように教えたのでしょうか。それは、私たちにとって神はどのようなお方なのか、そのことを明確にすることが最も大切なことであり、そのことを通して神との関係が与えられるからだと思います。そのために「天の父よ」と呼び祈りなさいと教えたのです。
 私が伝道者になった 1980 年代頃、フェミニスト神学の書物が出版されはじめました。その中でキリスト教会が神を「父」と呼ぶことに対して異議をとなえる主張が叫ばれました。神を父と呼ぶことは男尊女卑の温床ではないかという批判でした。日本においても私の周りの牧師たちまで、徐々に神への呼びかけに「父」という言葉を用いないようになっていくことを感じていました。性差別意識の高まりの中で、「神は男なのか」という問題提起がなされました。キリスト者は無意識に神を男と考えているのではないか。その結果、女性を二次的、従属的に見るようになっているのではないかと批判されました。キリスト教こそが男性中心社会を作り上げてきた温床であると問題にされたのです。
 聖書を読む限り、主イエスが女性たちを軽んじていると思えません。確かに 12 弟子に女性はいませんが、それだけで男尊女卑といえるのか疑問が残ります。キリスト教会が意識的に男性中心社会を目指して教会を形成し、聖書翻訳をしてきたといえるでしょうか。私自身は教会において神は男であると教えられたこともありません。これらの批判に対して疑問が少なくないのが現状です。
 主イエスが父よと神に祈りなさいと教えた中心とその内容を理解したいと思います。主イエスが「御名をあがめる」時、神を「父」と呼ぶことを教えた最も大切なことは、神は男だと教えているのではなく、神の本質を教えていると思うのです。
 主イエスのこの神を父と呼ぶ教えは、祈りの革命であるという人があります。なぜならば、主イエス以前のユダヤの社会では神はその名の読み方まで忘れてしまうほど遠い存在になってしまっていたのに、主イエスは父よと、お父さんを呼ぶように、神は私たちに近い存在であり、いつも共にいることを教えたからです。この主イエスの教えは、信仰生活の中でとても大切なことで、祈る度にこのことを思い出したいと思います。
 主イエス・キリストは、神がモーセに神の名を伝えたように、神の御名とは、私にとって呼べば答えるほど近いお方であり、今ここに生きておられると教えました。主イエスは私たちが祈る時、神はどこか遠くにいるのではなく、目には見えないけれど、確かに近くにいるように「御名をあがめさせたまえ」と祈って神との親しい交わりを与えてくださったのです。
 出エジプト記 3 章 12 節「12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と記されているように、私たちが祈る時、いるかいないか分からないと思って祈っているのではなく、神は確かにここにいる、神は必ずここにいると感謝と確信をもって祈るのです。
 今日の聖書の御言葉は主イエスの祈りです。主イエスは「御名を彼らに知らせました」。このことが神との愛の関係になると祈ってくださいました。人間が神の名を知って、神の名を汚してしまう危険を知りつつも、神は私たちの心の最も大切な場所に訪れてくださる決断をして、命を懸けてご自身の名を知らせてくださったのです。だから私たちは神の御名を信仰をもって受け入れなければならないのです。主イエスの期待に応えて主の祈りを重んじて、大切に祈り続けたいと願います。

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