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銀座の鐘

「礼拝から始まる喜び」

説教集

更新日:2020年07月11日

2020 年7月12日(日)聖霊降臨後第6主日 主日家庭礼拝 藤田 健太伝道師

使徒言行録16章25~34節

 アンティオキアにおいて、バルナバと袂を分かったパウロでしたが、同行者シラスと共 にシリア・キリキア州の諸教会を力づけて周り、テモテという新たな弟子も得ました。一 行はその後、神様からの決定的な導きを確信して、マケドニア州への伝道を開始します。 「パウロの第二回宣教旅行」と呼ばれる旅路の始まりでした。一行は、アレキサンダー大 王の父王に当たる、フィリッポス 2 世によって創設された「フィリピの町」にやって来ま した。その町で、占いの霊に取りつかれた一人の女性奴隷を救ったことにより、奴隷の主 たちから反感を買ってしまいます。パウロとシラスは偽りの嫌疑をかけられ、捕らえられ た後、衣服を没収され、何度も鞭打たれ、足枷を嵌められ、牢屋の最奥の部屋に入れられ ました。本日は、そのフィリピの町の真夜中の牢屋で起きた出来事について、ご一緒にお
聞きしたいと思います。

 「真夜中」のことです。パウロとシラスが、「賛美の歌をうたって神に祈っていると」、ほか の囚人たちはこれに聞き入っていました。パウロとシラスは獄中で、慣れ親しんだ賛美歌 を歌っていました。おそらく、詩編の書に収められた詩に、独特な節と抑揚をつけて歌っ たものと思われます。私たちには神さまから、礼拝の自由が与えられています。獄中でさ えも、神様を礼拝することはできます。家庭にある礼拝はなおさらのことです。どのよう な場所にあっても、神様に礼拝をおささげすることができるという事実を、本日の箇所は、 私たちに向けてはっきりと伝えてくれています。
 パウロとシラスが神様を賛美しているときのことです。突然、牢を土台から揺り動かす ような、大きな地震が起こりました。それにより、牢の扉がみな開き、すべての囚人の鎖 が外れてしまいました。パウロとシラスの足枷も外れてしまいました。眠っていた看取は 飛び起きて、牢の惨状を目の当たりにしました。開き切った牢屋の扉を目の当たりにし、 彼はパニックに陥ってしまいました。看取としての責任を果たすことのできなかった無力 な自分に、引き抜いた剣を深く突き立てようと、反射的に身構えました。その時、暗闇の 中から大声が聞こえてきました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」―暗闇と パニックのゆえに、看取は現状を適切に把握することができていませんでした。

「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」―パウロのこの言葉を直訳する と、「あなた方は誰も、悪いことを実行してはいけない」となります。大変含蓄のある言 葉ではないでしょうか。おそらくは、我を失い、命を絶とうとした看取だけでなく、開か れた扉から逃げ出そうとする囚人たちもまた、そんな「悪いこと」をしてはいけないと、 ここでパウロに諭されていたのだと解せます。神様の確かな御守りのもとにあるパウロだ けが、不測の事態の中で平静を保っていました。コロナ騒動の中、悪化した人々のモラル や、そこから生じる様々な事件や暴動を私たちは経験しました。不測の事態の中、神様の 御守りを信じて平安を保ち、隣人に仕える姿勢を失わないことの大切さを、本日の箇所か ら学び取ることができると思います。

 明りを持って来させた看取は、ここでようやく、適切な状況把握を行うことができるよ うになります。パウロとシラスの前に震えながらひれ伏した彼は、二人を外に連れ出して 言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」看取は自らの責任を果たすこ とができませんでした。職を失うことは確実であり、それどころか、たった今しがた、自 らの命までをも失うところでした。看守の心に、「救い」に対する渇望が芽ばえました。 看守がパウロとシラスに対して投げ掛けた「先生方」という呼称は「主(あるじ)たちよ」 とも訳せます。主イエス・キリストの「主」です。救われるためにより頼むべき御方が誰 であるか、看守はまだ知りませんでした。そこで、看守は差し当たっては、自らの命の危 機を救ったパウロたちを新たな「主たち」と見なしました。パウロとシラスは、看守が本 当により頼むべき「主」を指し示します。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も 救われます。」先ほどの看守の言葉は、もとの言葉では、すべて一人称で語られていて、「私 が救われるために、私は何をすべきでしょうか」と訳せます。誰でも余裕のない時には、 自分一人の身の上を心配するだけで手一杯です。自分の救いこそ、私たちの切実な関心で なくて何であるでしょうか。しかし、看守の発言を受けて、使徒たちは、「主イエスを信 じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と答えました。看守として 自らの役目を果たすことができず、自分の命を投げ打とうとしたこの人も、主イエス・キ リストを信じる信仰のゆえに、自分のみならず、家族をも救うことができると言われてい ます。自らの救いを切実に求める信仰を、神様は家族や隣人の救いのために必ず用いてく ださる御方です。

 その後の顛末も、全ては真夜中の内に起こった出来事でした。使徒たちは看守とその家 の人たちに「主の言葉」を語りました。看守は鞭打ちで抉られた使徒たちの傷を洗ってやりました。神様の救いの内に入れられ、看守は人に仕える者とされました。看守の一家は、 救われた“しるし”として「洗礼」を受けました。その後、看守は使徒たちを自らの家に導 き、自分が「神を信じる者」になったことを「家族ともども喜んだ」と記されます。真夜中の 牢屋で起きた一連の出来事は、「賛美歌」、「(パウロやシラス、看守の身に起きた)救 いの出来事」、「主の言葉の解き明し」、「洗礼」という流れで物語られます。これらは、 私たちの礼拝の重要な構成要素であることをおぼえたいと思います。救いの出来事は礼拝 の中で起こります。そして、その礼拝はどのような非常時にも、変わらず守ることが許さ れているのです。私たちの礼拝の締めくくりに相応しい感情は「喜び」です。看守は「神 を信じる者」になったことを「家族ともども喜んだ」とあります。パウロは後年、フィリピの教会の信徒たちに宛てた手紙の中で、次のような言葉を書き記しました。「主において 常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ 4:4)。手紙の受け取り手であるフ ィリピの教会員たちの中には、本日の物語の中で、家族と共に救われたあの看守も含まれ ていたことでしょう。日曜の礼拝、使徒からの手紙が朗読されるたびに、救われた時の「喜 び」が、看守の記憶の中に鮮やかによみがえります。どのような非常時にも、礼拝が赦さ れているということは、どのような非常時にも、喜ぶことが許されているということです。 日曜の礼拝を起点として、感謝と喜びの生活を再開しましょう。

お祈り

天の父なる神さま、聖霊降臨後第 6 主日の礼拝の恵みに感謝いたします。
今なお、私たちの困難な状況は続いています。しかし、どのような状況にもあなたは、神様への礼拝を 可能としてくださいます。喜びに満ちた生活も可能としてくださいます。私たちの心を、他者の救いへと開いてください。隣人の救いのために祈る者へと変えてください。隣人の ために仕える者へと変えてください。「神を信じる者」の喜びをおぼえつつ、これからの 1 週間を歩むことができますようにお導き下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

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