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銀座の鐘

「神の栄光」

説教集

更新日:2019年12月03日

2017年5月28日 復活節第7主日礼拝説教:高橋牧師

エフェソの信徒への手紙1章11-14節

 本日教会の暦では、今年の復活節最後の主日を迎えました。次週私たちは聖霊降臨日を迎えます。次週、聖餐卓と牧師のストールの色が白から聖霊降臨節の赤色に変わります。皆さまと共に、十字架の死から復活の恵みを与えた神の力を分かち合いたいと思います。
 主の復活によって、散らされた弟子達が再結集した力も復活の主の力です。トマスのようなかたくなな心を開いたのも復活の主の言葉でした。復活の主と弟子達は食事をしました。主イエスとの最も大切な食事、最後の晩餐を思い起こす事ができました。死を恐れ逃げ去った弟子達が、死に勝利した復活の恵みを初めて受け止めた時、福音書が記しているように、主イエスは、私たちの身代わりとなって十字架につけられ死を引き受けてくださり、その死によって、私たちの罪を贖い赦して下さったことを示されました。主イエスの十字架と復活の力とその意味である福音を知らされた時、教会が誕生しました。
 本日与えられました聖書の御言葉は、エフェソの信徒への手紙です。著者は、多少の異論があるようですが、使徒パウロが牢獄の中で書いたとされる「獄中書簡」と呼ばれている手紙です。新約聖書の中には獄中書簡といわれる手紙が4つあります。喜びの手紙といわれるフィリピの信徒への手紙、キリストへの信仰を中心に書かれている、コロサイの信徒への手紙。牢獄の中にありながら一人の奴隷のことを深く思って書かれたフィレモンへの手紙です。そして、エフェソの信徒への手紙は、獄中においてキリストの教会に属していることの恵みと救いの確信を大胆かつ豊かに語った手紙です。
 パウロは牢獄に繋がれて自由を奪われているのですが、そのことを全く問題にすることもなく、牢獄の力とは比べものにならない圧倒的な復活の恵みの中で生かされています。キリストとの結びつきが、牢獄の中でもしっかり繋がっているのです。11節「キリストにおいて私たちは」と語っているのです。牢獄に繋がれながら、キリストの教会に繋がっているパウロと教会に人々は、どのような恵みにあずかっているのでしょうか。それが11節「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」と語りました。パウロは、獄中において、神の御心、神のご意思、神の願いによって、私たちは約束されたものの相続者とされた、というのです。キリストの教会に繋がっているということは、神の相続者とされているのです。私は神さまの遠い親戚ですという人がいるかもしれません。教会に繋がっているということは、相続者とされるほど近い関係なのです。パウロとエフェソのキリスト者はこのキリストの教会によって復活の主に結びあわされているからこそ、神の相続者とされているのです。これは、とても大事なことです。
 いくらパウロを鎖でつなぎ止めていようとも、牢獄に入れておこうとも、神さまとの絆を切ることは出来ないということです。パウロと神とのつながりは、エフェソの力では切り離すことが出来ないということです。この絆は同時にキリストと教会の絆でもあります。牢獄に繋がれながら、実は、牢獄の力に支配されていないのです。たとえ、牢獄に繋がれていようと、復活の主の力は、神の御心のままに、神の相続者とする力が宣言されているのです。この復活の主の恵みが、パウロの救いの確信となっているのです。
 パウロにとって、獄中に繋がれていようと救いの確信は揺らぎませんでした。逆に、厳しい状況であればあるほど、救いの確信は明確にされていくようです。なぜでしょうか。

 「12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。13あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」
14この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」
 パウロによれば、ローマ皇帝ではなく、キリストに希望を置いていたエフェソの教会は「福音を聞き、信じて、約束された聖霊で証印を押された」からだというのです。
 自分の決断や自分の勉強とか研鑽で信仰を獲得したのではないのです。神に与えられた福音を聞き、信じて、約束に与ったからだというのです。
 自分の確信であれば、天気のように変わってしまいます。変わりやすい私たちの心は、世の中の状況や環境にや体調によって、自分の信仰も連動して元気になったり、悪くなったりするのです。しかし、信仰は私たちの体や心の状態で変化するものではありません。信仰とは私たちの心のあり方ではなく、神から与えられた確信、自分の心もちではなく神の御心を根拠にして、生かされる命です。自分の熱心さではなく神の熱心さにこそ、救いの確信の源があるのです。神の熱心な願いが獄中のパウロをとらえて離さないのです。神さまは獄中のパウロに聖霊で証印を押したことをくり返し、示しているのです。
 私たちが神の教会に繋がるということは、キリスト教会の一員になることです。これは、自分の熱心さや勉強の成果ではなく、神さまの憐れみと恵みによって、聖霊の証印を与えられているからなのです。だから私たちは、神の栄光をほめたたえるのです。
 私たちが自分自身の熱心さで信仰を勝ち取ったのであれば、神の栄光ではなく自分の栄光を誇って良いはずです。しかし、神の栄光をたたえるということは、私たちは取るに足りないものだけれども神さまの憐れみと恵みによって、神の家族、神の相続者としていただいたので、神の栄光をたたえるのです。
 神の栄光をたたえるとはどういうことでしょうか。この法外な恵みに感謝して祈り主の御名を賛美し祈る、礼拝こそ、神の栄光をたたえる姿です。
 パウロは命がけで「神の栄光をたたえる」と語っていることに注目したいと思います。

 キリストを贖い主として信じる教会は、その歴史を通して神の栄光を現すことを重んじてまいりました。「神の栄光をたたえる」ことは、信仰生活、教会生活を進める中で、信仰の土台になります。使徒パウロは、礼拝ごとに与えられる神の言葉を通して、「真理の言葉」「救いをもたらす福音」を聞き、十字架のイエス・キリストが私たちの罪を身代わりになって背負ってくれた姿を仰ぎ、「神の栄光をたたえる」礼拝を献げることを示しています。神を礼拝することこそ、神の栄光をたたえる最高の業です。福音を聞いて神の栄光をたたえる度に、私たちの人生が死によって終わるのではなく、死を乗り越えて神の国を受け継ぐという復活の希望に生かされていることを確認するのです。

 ローマ皇帝の支配下、パウロはギリシャ語で「神の栄光をたたえる」と書きました。ギリシャ語の「ドクサ」を「神の栄光」と表現しました。当時のギリシャ語世界で「ドクサ」といえば一般には「意見」とか「見解」という意味で理解されていました。その「意見」とは、ローマ皇帝の意見、見解であり、皇帝の言葉だけが光り輝いていたのです。すなわち、ローマ帝国において「ドクサ」は皇帝の栄光を指し示す言葉だったのです。ところが、使徒パウロは、そのような社会の只中で皇帝の権威を表現する言葉をあえて用い、皇帝ではなく聖書の神の「威信」「権威」「栄誉」を表現しようと考えたのです。
 同じギリシャ語でもドクサほど聖書の内と外で意味と理解が異なっていた言葉はないと思います。当時、パウロと教会の人々だけがドクサの背景に皇帝ではなく、救い主イエス・キリストを見ていたのです。
 新約聖書における「ドクサ」は、見事なまでにイエス・キリストと結びついて神の栄光のみを表現しています。パウロや初代教会は、どうしてこのようなに大胆な「ドクサ」の用法を進めることができたのでしょうか。それは、旧約聖書を重んじていたからです。旧約聖書で神の栄光はヘブライ語の「カーボード」です。「カーボード」は、元来「重さ」「重要さ」を表現し、「栄光」を指し示すようになりました。ギリシャ語訳の旧約聖書では、この「カーボード」を「ドクサ」と翻訳しています。旧約聖書において「カーボード」は、神について用いられています。例えば「神の栄光を見た」という場合、人は神を見ることができないが、神の見える部分をカーボード(栄光)で表現したのです。新約聖書はこの「神の栄光」の伝統を受け継ぎ、ローマ皇帝支配下のギリシャ語世界において、カーボードからドクサへの伝統を大切に継承したのです。

 この伝統は新約聖書において「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント六章一九、二十節)という言葉によって正しく受け継がれているのです。
 私たちがキリストに繋がっているということは、教会に繋がっていることであり、それは、自分の栄光を誇り現そうとするのではなく、神の栄光を現すべきなのです。私たちが讃美歌を歌うことを通して、祈りを合わせることを通して、主の恵みを証しすることを通して、私たちは自分自身を主張するのではなく、神の栄光を賛美することによって主にある喜びとするのです。神の栄光をたたえることによって、私たちが自分や隣人を誉め称える罪から解放されるのです。教会の歩みのすべてが神の栄光を現すことになるように祈りつつ共に伝道に励みたいと願います。伝道は、牧師個人の業として評価されて牧師の栄光を誉め称えることではありません。教会で目立って働く人の行いが評価されて誉め称えることでもありません。そうではなく、牧師の働きも信徒の働きも、すべて主の僕としての働きであり、主イエスを復活させた神の力を土台とし、赦されて、神の栄光のみを現すべく、神と教会に仕えるのです。ゆえに私たちは教会のすべての業を通して神の栄光が現されることを喜びます。教会の業を通して神の栄光を誉め称え喜ぶのです。神の栄光を誉め称え喜ぶ交わりとして聖霊の証印を押されたものとして生かされるのです。
 お互いに聖霊の証印を押されたものであることを覚え、神の栄光を現す最高の道を歩みましょう。