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銀座の鐘

「主が教えてくださった祈り」

説教集

更新日:2021年03月16日

2021年1月10日(日) 公現後第1主日礼拝  主日家庭礼拝  伝道師 藤田 由香里

マタイによる福音書1章18~25a 節

本日より、「主の祈り」に関する御言葉をご一緒に聞いていきます。「主の祈り」ほど、私たちの日々の生活において祈られる祈りはありません。今年度の 自粛生活の中で、「主の祈り」はどれほど私たちを支え、神様の御前に立たせ、守ってく ださったかを思います。一つ一つの言葉を、注ぎだして祈ってこられていた方もおられる と思います。けれども同時に、信仰生活の歩みの上で、「主の祈り」について時々こう思 われたことがあるかもしれません。「一つ一つの祈りに心を込め、願いを込めて祈っているだろうか。機械的になっていたり、唱えているだけではないだろうか、どこまでその意 味と重要性を理解しているだろうか」。宗教改革者マルティン・ルターは、形骸化に注意 を喚起したのでしょう、「主の祈りは教会史上最大の殉教者」であると言ったようです。 真心からの敬虔な信仰に生き続けたい、神様との深い平安の関係の中に置かれたいと願う 時、わたしたちにとっても時を超えて重要であり続ける事柄だと思います。

主の祈りは、マタイとルカ福音書に記されます。ルカ福音書では、イエス様がよくお一 人で祈られているお姿が記されます。ここでも、イエス様がまず祈られていました。する と、弟子の一人が聞きました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちに も祈りを教えてください」いつも父の前に祈られるイエス様に弟子は教えを請いました。 すると、イエス様は、「主の祈り」を弟子にお教えくださいました。ヨハネも弟子たちに 祈りを教えていたとあります。ヨハネは、旧約聖書を示す象徴的人物でもあります。ヨハ ネが教えていたのは、詩編からの祈りであったでしょうか?あるいは、アブラハムの執り 成しの祈り、ダビデの感謝の祈り、悔い改めの祈り、などの旧約の人物が紡ぎ出した祈り でしょうか?確かに、旧約聖書にも多くの神様が御言葉のうちにお教えくださった祈りが あります。それらは、神から人へ、信仰の先達から次の世代へと教え伝えられて来たもの です。申命記には、子供たちに律法を繰り返し繰り返し教え続けるようにと記されます。 少年サムエルは、祭司エリによって、「主よお語りください、僕は聞いております」とい う神様の前の言葉を教わりました。若き時のソロモン王は、神様に夢枕で、「民を正しく 裁く知恵をお授けください」と祈りのうちに、知恵を授け教えていただけるよう求めまし た。旧約聖書の時代から、祈りの言葉は、確かに教え伝えられて来ました。ヨハネは弟子 に、そして、クリスマスを経て救い主が来られた時、主イエスから弟子たちに、必要な祈 りが教えられる時が訪れたのです。マタイ福音書では、「主の祈り」は山上の説教の中心 部にあります。その冒頭では、弟子たちが教えを聞くために主イエスに近づいて来ました (マタイ5:1)。背後には群衆たちもいました。主イエスに近づきたいという人々全て に対して、イエス様は、山上の説教を教えられ、そして、その中心に「主の祈り」があり ました。わたしたちは、改めて、「主の祈り」は、イエス様がわたしたちにお教えくださ った祈りであるのだということを心に深く留めたいと思います。

マタイによる福音書では、イエス様は、「祈りに関する教え」を弟子たちにまず教えて います。祈る時の注意を2点イエス様は教えられます。まず、「偽善者のように人に見て もらいたいと会堂や街角で祈ってはならない、そうでなく奥まった部屋で隠れたことをも 見ておられる父に祈りなさい」です。これは、決して会堂での祈りの役を担うことを軽ん じているわけではもちろんなく、神様の前に真剣に祈る心を忘れ、人に見てもらうために 祈る形骸化した祈り、見栄の祈りを戒められているのだと思います。人からは隠れたとこ ろで、あなたの部屋で静かに神様に向かって注がれる神様と私の「汝と我」の祈りが真剣 に聞いていただけるように、一人の時も、二人の時も、公の場でも神様に集中して祈りな さいとおっしゃっているのではないでしょうか。二点目の主イエスの言葉は、「異邦人の ように、くどくど言葉数を多く祈ってはならない、そうではなく、主の祈りを祈りなさい」 とあります。これも、真摯に祈られる必要があり、結果として長くなったなら、そのこと を主が責められることはないと思います。けれど、わたしたちが懸命に考え出した祈りも、 ともすると、神様のみ前に本当に祈られるべき必要がわからず「的外れ」になってしまうこともあり得るでしょう。わたしたちが祈るべきことは、イエス様が教えてくださいまし た。わたしたちに「必要なこと」は、父なる神様が、わたしたちが求める前からご存知で あるのです。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」マタイ6 :8b

「必要なもの」という言葉は、聖書では4福音書によく用いられている熟語のようなもの です。「クレイアン(必要、欠け) エコー(持っている)」は、例えばマタイ福音書で は、洗礼者ヨハネが主イエスに言った言葉、「わたしこそあなたから洗礼を受ける必要が あるのに」(マタイ3:14)とか、主イエスが「「医者を必要とするのは、丈夫な人で はなく病人である。と言った言葉、更には、エルサレム入城にて、ろばを借りる時に、「『主 がお入り用なのです(必要なのです)』と言いなさい。」とイエス様が弟子に行った言葉 にあります。どの用法も、福音と救いの根幹に関わるような「必要」です。私たちの救い 主は、わたしたちが求めることを知る前から、わたしたちの救いにとって本当に「必要」 なことをご存知です。わたしたちに「欠け」ているもの、「欠けている」ことに気づいて さえいないときでさえ、「欠け」を満たすために神様に求めなければならないことがらを、 主は、ご存知であるのです。

そして、その「必要」を「主の祈り」は見事に表現しているのです。主の祈りは、前半 が「神様の栄光」に関わり、後半が「わたしたちの必要」に関わると言われます。この二 つは深く結びついております。「神様に栄光が帰されますように」また「わたしたちの必 要が満たされますように」つまり「神様の栄光と人の平和」は、神であられ人であられる イエス様において実現しています。人の救いがなされ、神様に栄光が帰されます。神様は ご自身で栄光に満ちた自由な方です。けれども、クリスマスの時、栄光のうちに父といた 御子が神の世への愛のゆえに与えられたのです。神様のキリストにおける愛の献身こそ、 人への平和、神と人の和解、救いの実現です。クリスマスの天使の言葉が「いと高きとこ ろには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と言われたように、救い主キ リストがわたしたちの歴史においでくださったことで、主の祈りに祈られる大きな事柄が 実現しているのです。

そして、神様はわたしたちをご覧になっています。イエス様は、わたしたちの傍におら れます。イエス様は、わたしたちの道としておられ、わたしたちの喜びのうちにおられ、 苦しみの中にもおられます。わたしたちが、神様に向かって真剣に祈る祈りは、聞かれな いはずがないのです。わたしたちは、「あの時の祈りが聞かれた」と恵みを悟ることがあ ります。それはもちろんいつもわかりやすくすぐの形でもなく、具体的に明らかなわけで もないでしょう。けれども、神様は、わたしたち自身よりもわたしたちを知っておられま す。その上で、わたしたちの求めと祈りに向き合ってくださる方です。
イエス様は言われました。 7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そ うすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 8 だれでも、求める者 は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

そこで、わたしたちの必要が祈られている主の祈りを改めて、神様への真摯な求めとと もに日々の礼拝・日々の生活で求め、祈りたいと思います。
わからなくても祈ることも時には大切です。それに、主の祈りは、一人称がいつも「我 ら」です。「我らの日用の糧を与え給え」だからこそこれは、教会の兄弟姉妹の執り成し の祈りでもあります。「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣」く相互の愛でもありま す。主の祈りを祈ることで、わたしたちは、教会のための、兄弟姉妹のための執り成しの 祈りもしています。そして、我ら、地にも、神様の「御心」がならんことをと祈っていま す。

主の祈りは、「世界を包む祈り」であると、ある戦時中のドイツの神学者が言いました。 社会全体が試練の中に置かれる人たちにとっても、無邪気に喜ぶ子供たちにとっても、い かなる時代のいかなる状況にある人にとっても、全ての人を包む祈りが主の祈りであると 彼は言いました。実際、そうであると思います。主の祈りは、イエス様がわたしたちに教 えてくださった祈りです。この祈りにより、わたしたちは、自分が今どのような状況にい ても、三位一体の神様に近づくことがゆるされています。

祈祷
天の父なる神様、あなたはわたしたちが求める前から、わたしたちの必要をご存知です。
わたしたちに主イエスがお教えくださった主の祈りを、尊い教会の伝統、わたしたちの宝 としてこれからも祈っていくことができますように。教会生活を通じてわたしたちに神様 のことをお教えください。わたしたちに祈るべきことを祈る心を、それゆえにあなたのお 近くにい続けることができるような信仰をお与え続けてください。主イエス・キリストの 御名によって祈ります。