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銀座の鐘

主に癒され、慰められた世界

説教集

更新日:2021年05月09日

2021年5月9日(日)復活節第6主日 家庭礼拝 伝道師 藤田 健太

マルコによる福音書1章21~28節

 神さまの御国の福音宣教を開始し、4 人の弟子をえた主イエスが、カファルナウムで最初に行われた奇跡の御業が「汚れた霊に取りつかれた男の癒し」でした。「汚れた霊に取りつかれた男の癒し」、すなわち、「悪霊追放」をめぐっては、様々なことを言うことができると思います。―そもそも「悪霊」とは何でしょうか?それはまず、人々の生活秩序 を脅かす混沌の力として理解されます。聖書の時代の世俗的な見解によれば、人間の王国と同じように、霊的な世界には、悪しき諸霊の王国があると理解されてきました。近現代の合理主義的な理解に従うならば、「悪霊」とは、一つの時代や文化に壊滅的な影響を及 ぼす思想であり、人間の旺盛な創作力と結びついたデモーニッシュな力として理解することもできます。「悪霊」は、人間の驚異的な力の源泉になり得ますが、しばしば、人間の健全な生活を阻害します。
 悪霊の力を、聖書の時代の人々と同じように霊的実体として理解するにせよ、精神的・象徴的に理解するにせよ、私たちの生涯において、何か、自分の生活の大部分を犠牲にしてまでも追求したいテーマがあったり、大切な何かを犠牲にしてまでも、手に入れたい何かがある人は、絶えず、「悪霊」の影を警戒して歩まなければいけません。私たちは、神さまが与えてくださった大切な日常を犠牲にするような仕方で、不健全な仕方で、自らの望みを叶えようとしてはいけないのです。私たちがもし、そのような力に支配されてしま うならば、そこには間違いなく、私たちの罪の姿があります。主イエスがカファルナウム でなされた最初の奇跡は、そのような力の支配からの私たちの解放の物語としてお聞きす ることができます。
  聖書の時代の「悪霊」を社会史的に読み解く学者は、悪霊による病や憑き物の要因を「ロ ーマ帝国による外国からの支配」の状況として説明します。悪霊による支配とまでは言わ ずとも、他国の支配が一つの国にもたらすストレスは相当なものです。政治や経済、文化、 宗教、軍事的な側面から緩やかな圧力を受け続けた結果、そこに様々な歪みや軋轢が生まれ、それが人々の生活秩序の乱れ、精神的な荒廃、引いては、悪霊による憑き物と呼べるような人々の不健康な現象に繋がってゆくという説明です。確かに、そのような社会的緊張は、悪霊による様々な疾患の要因になりえたでしょう。「悪霊憑き」は聖書の時代の人々にとって、ある種の特殊な「現代病」であったと言っても良いかもしれません。

 物語の舞台となる「カファルナウム」は「ナホムの村」という意味ですが、「ナホム」 とは「慰め主」を指します。マタイによる福音書 11 章では、カファルナウムは「悔い改めない町」の一つとして、主のお叱りを受けます。そんな頑なな町にも、主は慰めを与えて下さり、その町に住む「汚れた霊に取りつかれた男」を破滅的な力の支配から救ってくださいました。男性が悪霊のいかなる被害に悩まされていたのかは詳しく描かれません。 しかし、主イエスの力あるみ言葉によって、この人は救われ、明るい日常と人々の交わり の中に帰って行きました。神さまを褒めたたえながら帰って行きました。そこに私たちは 私たち自身の救いの姿を見つめることが赦されているのです。

 悪霊を追い出す主イエスの御業は、しばしば、人びとの誤解を受けました。人びとの誤 解は、マルコによる福音書 3 章 20 節以下にある「ベルゼブル論争」において表面化しま す。主は、律法学者によって、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言われのない非難を受けました。主イエスの「悪霊追放」 もまた「悪霊」の力に他ならないと攻撃を受けました。そんな律法学者たちの非難は「聖 霊の冒涜」に当たり、極めて深刻な罪の状況があると、主イエスから診断を受けました。 聖霊なる神さまの御業と、悪霊の業を識別することができない、律法学者たちの深刻な罪 の状況がそこに露呈してしまったのです。

 本日の 22 節には「人々はその教え(主イエスの教え)に非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。律法学者と主イエスの教えの決定的な違いがそこに指摘されています。律法学者もまた、深い学識と霊的な敬虔によって、聖書のみ言葉を説き明かしました。しかし、律法学者にはない特徴として、主イエスの教えには「権威」があったと書かれます。ギリシャ語で“エクスースィア”―「何かを可能にする力や富」を意味するこの言葉は、ラテン語では“インぺリウム”―「帝国」と訳されます。主イエスの教えには、神さまのみ国の力と富があふれていました。主イエスが共にいて、教えてくださるその場所が、神さまの御国そのものであったと言っても良いと思います。神さまと一人子と聖霊なるお方のご支配がそこにあり、悪霊や現代の病がはびこる余地は、そこには残されていませんでした。

 ルカによる福音書 11 章 20 節には次のような言葉もあります。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

 すでに、マルコによる福音書の1 章 12 節で、荒れ野でサタンに勝利を収める、主イエスのお姿が描かれていました。律法学者を含め、同時代の人々が、悪霊と病のみを見つめるなか、主イエス・キリストの瞳は、神さまの大きな慰めの訪れと罪の赦し、そして癒しを見つめておられました。私たちもまた主イエス・キリストと共に、神さまの御国を見つめたいと願います。主イエス・キリストの瞳に映る私たちの世界は、混沌の力に怯える世界ではありません。赦しと慰めによって堅く据えられた秩序ある世界です。現代の病を恐れ、自らの罪に慄く私たちの間で、主イエスは神さまの御国をまっすぐ見つめてくださっておられます。主イエスによる癒しを受けて、私たちの家族や友人、大切な人たちと生きる 1 週間の生活、神さまご自身と共に生きる 1 週間の生活へと歩み出してゆきましょう。

祈り
 天の父なる神さま、あなたは私たちの世界を愛してくださり、御国の慰めと癒しを 与えてくださいます。主イエス・キリストが癒してくださった世界を、私たちの日常の内 に見つめることができますように。日々の生活の中で、神さまの赦しと支えを確信し、人 々の交わりのなか、平和の内に歩むことができますように。復活節、共に歩んでくださっ ておられる主がおられることを忘れることがないようにお守りください。主イエスの御名
によって祈ります。
アーメン

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