銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

主イエスに従う徴税人

説教集

更新日:2021年06月06日

2021年6月6日(日)聖霊降臨後第2主日  家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書2章13~17節

 主イエス・キリストは、4人の漁師に声をかけ、彼らに弟子としての召命を与えら れました。弟子たちと共に主イエスは、ガリラヤ湖のほとりからカファルナウムに出 かけました。主イエスは弟子たちとともに、安息日に会堂に入って教えられました。 その会堂の中で「汚れた霊に取り憑かれた男」と出会い、汚れた霊を追い出しました。 その後、会堂を出て、シモン・ペトロのしゅうとめや病気の人をいやしたり悪霊を追い出したりしました。マルコ福音書の1章34節までに書かれている大筋です。
 35節以下には、人里離れたところで祈り、近くの町々に行こうと言って宣教をし ました。主イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出しました。続い て、主イエスは重い皮膚病を患っている人をいやしたのです。ガリラヤから再びカフ ァルナウムに戻り、屋根から下ろされた中風の人をいやされました。
 こうして振り返りますと大切なリズムが見えます。それは、主イエスの伝道が、主 イエスの宣教と愛の業のくり返しになっていることが分かります。主イエスの伝道は、 教えがあって愛の業が行われているのです。主イエスによる伝道は、神の言葉の宣教、 伝道と病人をいやし、悪霊を追い出すという愛の業が順番にくり返されているのです。
 主イエスの宣教と愛の業は、コインの裏表のように切り離すことが出来ない関係に なっています。主イエスの愛の業は、主イエスの教えによって与えられ、主イエスの 教えは主イエスの愛の業によって実を結ぶのです。ですから、私たちは主イエスの愛 の業だけを求めたり、主イエスの教えだけで十分と考えてはならないのです。主イエ スの愛の業と主イエスの教えが一つであるということは、主イエスを通して神が生き て働いているということの現れです。主イエスの教えは愛の業を生み出し、主イエス の愛の業は主イエスの御心を示しているのです。
 本日与えられた聖書の御言葉は、13 節に「教えておられた」とありますように、愛の業を生み出す教えの場面です。「13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
 主イエスの教えを聞くためにガリラヤ湖のほとりに群衆が集まっています。この教 えから産み出される愛の業は、群衆の誰かがいやされたとか悪霊を追い出していただ いたのではありません。14 節にあるように「収税所に座っているレビ」に声をかけ、レビが主イエスに従うことになったことです。レビは群衆の中の一人でしょうか。広い意味では、群衆の一人と言えるかもしれませんがレビ自身は群衆の一人とは思っていなかったと思われます。しかし、マルコによる福音書は、主イエスは群衆の中からその中の一人として、収税所に座っているレビに目を留め、声をかけたと書いているのです。神の御心は、主イエスがレビに目に留めたことによって示されているのです。 「14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて
 この言葉には、非常に興味深いことが隠されています。レビが収税所に座っている 意味です。当時の人々は、地面に座る習慣がありました。この座っているとは「カセ ーマイ」というギリシャ語が用いられています。この言葉は、座って仕事をしていた
という意味と同時に、悲しみや懺悔のために人が地面に座ることを指し示します。主 イエスも教えるために腰を下ろすこともありました。もう一つ、この言葉は、「特別 な地位にある人が特別な椅子に座っている」ことを表現する時にも使われます。
 すなわち、徴税人レビは、群衆から見たら偉そうな「特別な椅子に座っている」よ うに見えたでしょう。群衆は近寄りたくない人でした。ローマ帝国の出先機関である 収税所に座っていると言うことは、社会的な力をもつ人なのです。しかし、主イエス は「カセーマイ」という言葉でレビは「悲しみ懺悔のために座っている」と受け止め たのではないでしょうか。人は権力者に見ていても、主イエスは悲しみの人としてレ ビが座っていることを見ているということを見事に表現しているのです。
 主イエスはそのようなレビを「見かけ」たのです。「見かけた」と言う言葉は、ギ リシャ語では「エイデン」という言葉です。この言葉の意味は、ただ遠くから見ると いうのではなく、「会う」とか「訪ねる」という意味があります。
 主イエスがレビを見かけたということは、群衆の中にこのレビを見つけ、誰からも 敬遠されていたレビに会いに行き、彼を訪ねたということを伝えているのです。 「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
 主イエスの教えに続き愛の業がここに記されています。レビは、この世の富や権力 から見れば立派な椅子に座っていた人です。当時のユダヤの社会の人々からは、罪人 の中の罪人です。一緒にいたくない、一緒に食卓を囲むことなど考えられない、神の 救いから最も遠い人の代表でした。しかし、主イエスはそのような、当時の社会の律 法によって救われないと思われていた人こそ愛の業をもって訪問しているのです。
 レビは「わたしに従いなさい」という主イエスの声を聞きました。レビは立ち上が りました。「立ち上がる」(アナスタシス)という言葉は、「死者の復活、よみがえ り」を現す言葉です。聖書は収税所に悲しみと懺悔して座っていた徴税人レビが、立 ち上がることをよみがえったと表現しているのです。生ける屍だった徴税人レビが主 イエスに従うために立ち上がったことにレビのよみがえりを見ているのです。15 節には、復活の喜びが表現されています。主イエスはレビだけでなくレビの家に集まった 人々と同席しました。「15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのこと である。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
 主イエスに従った人々は、当時の救いから漏れていると考えられていた人たちばか りです。主イエスは、当時の社会において救われないと思われていた、汚れた霊に取 り憑かれた人、重い皮膚病の人、そして徴税人レビ、更には「多くの徴税人や罪人」 が主イエスや弟子たちと同席して、主に従う者とされたことを記しています。
 主イエスが登場する前には、見たことも聞いたこともない光景が広がっています。 主イエスが自ら訪問した人々との会食が行われています。大変楽しそうな、食事会の 光景です。
 銀座教会は英国国教会の司祭であったジョン・ウェスレーからはじめられた、信仰 覚醒運動を通して誕生したメソジスト教会の伝統を大切にしています。ウェスレー兄弟は、教会が建設されていないところに、馬に乗って伝道しました。馬の上から説教 し、祈りました。しかし、当時の英国国教会は、伝道することが許可された地域を決 めて、その地域を越えてはならないと定めていました。しかし、ウェスレーは許可さ れていない地域の炭鉱であったり、貧しい地域などに進んで出かけていきました。こ の定め破りの行為が批判されました。様々な仕打ちを受けることになりました。しか し、教会の外で救いを求める人々への伝道を情熱的に進めました。このウェスレーの 伝道姿勢は、主イエスがレビはじめ多くの徴税人や罪人を訪問する姿と重なるところ があると思います。
16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見 て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った
 ファリサイ派の律法学者は、律法を知らないのかと言わんばかりに「どうして」と弟子たちに迫ります。弟子たちに詰め寄る律法学者に対して、17 イエスはこれを聞い て言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来た のは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 主イエスは、正しい人を集めて喜んでいるのではなく、罪人を招くお方です。私たちは、この聖句のど こにいるでしょうか。律法学者たちの中でしょうか。主イエスの食卓にいるでしょう か。私たちは罪人です。主イエスのお語りになる言葉を通して、主に招かれた罪人です。主に招かれようとしている罪人です。洗礼を受けて、共に主の食卓に招かれた喜びを分かち合いたいと願います。

祈りましょう。
 天の父なる神さま、復活の主イエスを通して与えられた父なる神の約束が実現し、聖霊が降り、私たちを復活の証人にしてくださいました。私たちの力ではなく、聖霊なる神の 御力によって、伝道の言葉が与えられ、教会を形成し、あなたの命に生かされていること を感謝いたします。聖霊の導きのまま、あなたのみ声を聞き続け、洗礼への道をお与えく ださい。主イエスの御名によって祈ります。 アーメン

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